1.配管の音は心臓の音に似ている
地下三十七階。
この街で一番古いビルの配管は、まだ生きている。
男は、天井を這う太い管に耳を当てた。
低く、重たい音。
それは水の流れる音というより、巨大な生き物の心臓が刻む鼓動に近い。
「……ここだな」
声は喉を通過するだけで精一杯だった。
人と話す必要はない。
管は嘘をつかないし、仕事は彼を裏切らない。
黒ずんだ光沢を放つ太い指――形だけは人に近いが、皮膚は硬く、爪は黒く鋭い――で、レンチを回す。
金属が軋む音が、地下に反響した。
その瞬間だった。
音が、一つ増えた。
軽い。速い。
獣の足音。逃げるための足音だ。
男は顔を上げる。
その瞬間はっきりと姿を現したのは、つやつやと光沢を放つ長い鼻先。そして、異様なほど大きな顎。
口を閉じていても、ずらりと並ぶ歯の存在感が消えない。
それは大きな鰐の顔そのもの。男の顔は、鰐の顔そのものだった。
そして、鰐男がわずかに顎を開くと、深い深い闇が、そこにあった。
それは、彼自身でさえ、覗かないようにしている闇。
再び、足音。
今度は複数。規則正しく、無駄がない。
追う者と、追われる者。
次の瞬間、通路の曲がり角から、細い影が飛び出してきた。
ふさふさの毛に覆われた耳は人型の頭部に自然に馴染んでいるが、目は夜を裂くほど大きく、瞳孔は縦に細い。
猫ハイブリッドの少女だ。
暗闇に溶けるような、漆黒のタイトなスーツ。
息は荒く、ジャケットの内側から、何か硬いものが覗いている。
彼女は一瞬、鰐男を見た。
その目に浮かんだのは、恐怖ではない。
判断だった。
猫少女は躊躇なく彼の横をすり抜け、配管の影へ身を滑り込ませる。
「……」
鰐男は舌打ちをしなかった。
代わりに、静かに立ち上がる。
直後、猿顔のスーツ姿の男たちが現れた。
均整の取れた体躯。
知性を誇示するような眼差し。
胸元には、〈A.P.〉の企業ロゴ。
「見なかったか?」
命令形。
疑う余地すら与えない声。
鰐男は、不快感を示すこともなく、ゆっくりと首を振った。
猿男の一体が彼を見上げ、鼻で笑う。
「配管工か。邪魔するなよ」
ムンドゥス最高機関〈A.P.〉のエリート社員と、地下で働く配管工。
その差を、猿男はわざわざ示したのだ。
その瞬間、鰐男の喉の奥で、何かが蠢いた。
苛立ちを感じる代わりに、口の中の闇が、わずかに目を覚ます。
――壊せ。
――噛み砕け。
彼は、目を伏せた。
今日は、仕事の日だ。
猿類ハイブリッドたちは、彼をバカにしたような仕草や目配せをしながら、別の通路へ去っていく。
しばらくして、配管の影から、猫が顔を出した。
怯えているはずの瞳が、なぜか彼をまっすぐ見ている。
「……助けてくれたんだ?」
鰐男は答えなかった。
ただ、レンチを拾い上げ、壊れた管へ戻る。
だが、彼はもう気づいていた。
この街の配管が、
今日から違う音を立て始めたことに。
暗い。
湿っていて、鉄と油の匂いがする。
ここまで降りてくるのは大変だった。
でも、ここは安全。
そう判断した瞬間、自分でも理由がわからなくて、思わず首をかしげてしまった。
配管の影に身を潜めたまま、アリシャは息を殺す。
背後で聞こえるのは、猿たちの足音と、遠ざかっていく声。
――見逃してもらえた。
違う。
あの鰐男が、何かを“しなかった”。
彼の横をすり抜けた一瞬。
視界の端に映ったのは、大きすぎる顎と、閉じられた口。
なのに。
怖くなかった。
おかしい、とアリシャは思う。
追われている時に、鰐ハイブリッドに遭遇して、恐怖しないなんて。爬虫類系ハイブリッドは感情が乏しいうえ、攻撃的な性格が多く信用できない。
なのに、彼のことはなぜか信じてしまう。
その時いきなり、アリシャの意識がふっと遠くと飛んだ。
記憶の底が、ざわついた。
体育館。
白い床。
走る。跳ぶ。着地する。
自分の体じゃないのに、自分だとわかる感覚。
――速い。
――もっと、速く。
頭を振って、追い払う。
知らない。
思い出したくない。
今の体の方が、ずっといい。
しなやかで、軽くて、闇に溶ける。
自分の身体能力には自信がある。
猿達から逃げ回るのだって朝飯前。
なのに、さっきの鰐男の背中が、妙に大きく見えた。
守られた、なんて思いたくない。
でも、猿たちの視線が彼で止まったのは事実だ。
(……助けてくれた?)
問いかけた声は、自分でも驚くほど素直だった。
返事はなかった。
けれど、彼は壊れた配管に戻り、何事もなかったように作業を続けている。
その姿を見た瞬間、胸の奥が、きゅっと鳴った。
――ああ。
この人、危ない。
自分が、じゃない。
この世界が。
なぜかは分からないけれど、直感でそう感じた。
アリシャは、猫の耳を伏せ、影の中で小さく笑った。
(面白そう)
それが、恋の始まりだと気づくほど、
彼女はまだ大人じゃなかった。




