コーヒーが冷めるまで
その店は、時間が流れることだけは否定しなかった。
ただ、促さなかった。
午後三時二十二分。
窓際の席。ガラス越しの光は白く、影は薄い。
彼女は先に来ていた。背もたれに体重を預けず、椅子の中央に座っている。鞄は足元。上着は着たまま。カップにはまだ口をつけていない。
彼が入ってくる。
ドアベルが鳴る。
それだけで、彼女の視線が一度、わずかに揺れた。
「……久しぶり」
彼が言う。
声は低くも高くもなく、丁寧すぎない。
「そうですね」
彼女は即答した。
視線は彼の胸元ではなく、さらに下――テーブルの縁あたりに落ちている。
彼は椅子を引く。
音が出ないよう、ゆっくり。
座る。
「注文、もうした?」
「はい」
「何を?」
「ブレンドです」
「……変わらないね」
「そうでもないですよ」
彼女はそう言って、ようやくカップに手を伸ばした。
持ち上げない。ただ、取っ手に指をかけるだけ。
沈黙。
エスプレッソマシンの蒸気音。
奥の席で、誰かが笑う声。
カウンターに置かれたスプーンが触れ合う、乾いた音。
「仕事は」
彼が言う。
「それなりです」
「忙しい?」
「波はあります」
「そっか」
彼は頷いた。
それ以上、掘らない。
彼女はカップを持ち上げ、少しだけ口をつけた。
すぐに置く。
「熱い?」
「……いいえ」
否定は、少し遅れた。
沈黙。
彼は自分のコーヒーを見る。
まだ湯気が立っている。
「この店、覚えてる?」
「ええ」
「前も、ここだったよね」
「はい」
「窓際」
「そうですね」
彼女の返事は、正確だった。
余計なものがない。
彼は砂糖を入れるか迷って、入れなかった。
スプーンを使わず、ただカップを回す。
「連絡、突然でごめん」
「いえ」
「迷ったんだけど」
「……そうでしょうね」
彼女は、はっきりそう言った。
感情は乗せない。
「でも、話しておきたくて」
「何を、ですか」
彼の指が止まる。
沈黙。
彼女は、彼の顔を見る。
正面から。逃げずに。
「……何を、話しに来たんですか」
声は低い。
責めていない。
彼は一度、息を吸う。
吐く。
「元気そうだなって」
「それだけですか」
「それだけじゃない」
彼女は頷かない。
続きを待つ。
彼は、言葉を探しているように見えた。
だが実際には、探していない。
出せないだけだった。
「最近さ」
「はい」
「昔のこと、よく思い出すんだ」
「……そうですか」
「君のことも」
彼女の瞬きが、一拍遅れた。
「懐かしい、って?」
「……近いかな」
「便利な言葉ですね」
「そうかもしれない」
彼女はカップに視線を戻す。
表面に浮かぶ光の輪。
「私は、あまり思い出しません」
「本当に?」
「必要がないので」
嘘ではなかった。
だが真実でもなかった。
沈黙。
彼のコーヒーから、湯気が減り始める。
「今日は、どれくらいいられる?」
彼が聞く。
「予定はありません」
「じゃあ」
「長居するつもりもありません」
線を引く言い方だった。
やわらかいが、明確。
「……そっか」
彼は笑おうとして、やめた。
「君は、変わらないな」
「そう見えますか」
「うん」
「それは、あなたが変わったからですよ」
彼は言葉を失う。
少しだけ。
「……厳しいな」
「事実です」
彼女は、淡々と。
沈黙。
店内の時計が、秒針の音を立てていることに、彼は今さら気づいた。
「ねえ」
彼が言う。
「もしさ」
彼女は視線を上げる。
逃げない。
「もし、あのとき――」
「やめてください」
遮断は、即座だった。
「仮定の話は」
「……ごめん」
「いえ」
彼女は、カップに口をつけた。
今度は、少し長く。
「私は」
彼女が言う。
「あなたが来た理由を、だいたいわかっています」
彼の喉が動く。
「でも」
「はい」
「それを言葉にされると、困ります」
「……どうして」
「答えなければならなくなるからです」
彼は、視線を落とした。
「答え、聞きたいけど」
「聞かないでください」
はっきりと。
沈黙。
彼のコーヒーは、もう湯気を立てていない。
「君は、ずるいな」
彼が、弱く言う。
「そうでしょうか」
「逃げ道を、全部塞ぐ」
「いいえ」
彼女は首を振る。
「私は、何もしていません」
「……」
「していないことを、続けているだけです」
その言葉が、彼の胸に沈む。
「それが、一番きつい」
「知っています」
彼女は、少しだけ目を伏せた。
「だから、ここまでにしてください」
「……もう?」
「はい」
彼は、時計を見る。
まだ二十分ほどしか経っていない。
「早いな」
「十分です」
彼女は、鞄に手を伸ばす。
「また、連絡してもいい?」
彼女の手が止まる。
数秒。
「しない方が、いいと思います」
「理由は」
「お互いのためです」
彼は、苦く笑った。
「相変わらずだ」
「そうかもしれません」
彼女は立ち上がる。
椅子を引く音は、やはり小さい。
「今日は、ありがとうございました」
「……こちらこそ」
彼女は、会釈をした。
深くも浅くもない。
ドアに向かう。
ベルが鳴る。
彼は、席に残った。
テーブルの上。
二つのカップ。
彼女のコーヒーは、まだ半分以上残っている。
完全に、冷めていた。
彼はそれを見つめ、
何もせず、
手を伸ばさなかった。
コーヒーは、最後まで飲まれなかった。
この時間は、誰にも引き継がれなかった。




