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恋愛短編集

コーヒーが冷めるまで

作者: 月見酒
掲載日:2026/01/23


 その店は、時間が流れることだけは否定しなかった。

 ただ、促さなかった。


 午後三時二十二分。

 窓際の席。ガラス越しの光は白く、影は薄い。

 彼女は先に来ていた。背もたれに体重を預けず、椅子の中央に座っている。鞄は足元。上着は着たまま。カップにはまだ口をつけていない。


 彼が入ってくる。

 ドアベルが鳴る。

 それだけで、彼女の視線が一度、わずかに揺れた。


「……久しぶり」


 彼が言う。

 声は低くも高くもなく、丁寧すぎない。


「そうですね」


 彼女は即答した。

 視線は彼の胸元ではなく、さらに下――テーブルの縁あたりに落ちている。


 彼は椅子を引く。

 音が出ないよう、ゆっくり。

 座る。


「注文、もうした?」


「はい」


「何を?」


「ブレンドです」


「……変わらないね」


「そうでもないですよ」


 彼女はそう言って、ようやくカップに手を伸ばした。

 持ち上げない。ただ、取っ手に指をかけるだけ。


 沈黙。


 エスプレッソマシンの蒸気音。

 奥の席で、誰かが笑う声。

 カウンターに置かれたスプーンが触れ合う、乾いた音。


「仕事は」


 彼が言う。


「それなりです」


「忙しい?」


「波はあります」


「そっか」


 彼は頷いた。

 それ以上、掘らない。


 彼女はカップを持ち上げ、少しだけ口をつけた。

 すぐに置く。


「熱い?」


「……いいえ」


 否定は、少し遅れた。


 沈黙。


 彼は自分のコーヒーを見る。

 まだ湯気が立っている。


「この店、覚えてる?」


「ええ」


「前も、ここだったよね」


「はい」


「窓際」


「そうですね」


 彼女の返事は、正確だった。

 余計なものがない。


 彼は砂糖を入れるか迷って、入れなかった。

 スプーンを使わず、ただカップを回す。


「連絡、突然でごめん」


「いえ」


「迷ったんだけど」


「……そうでしょうね」


 彼女は、はっきりそう言った。

 感情は乗せない。


「でも、話しておきたくて」


「何を、ですか」


 彼の指が止まる。


 沈黙。


 彼女は、彼の顔を見る。

 正面から。逃げずに。


「……何を、話しに来たんですか」


 声は低い。

 責めていない。


 彼は一度、息を吸う。

 吐く。


「元気そうだなって」


「それだけですか」


「それだけじゃない」


 彼女は頷かない。

 続きを待つ。


 彼は、言葉を探しているように見えた。

 だが実際には、探していない。

 出せないだけだった。


「最近さ」


「はい」


「昔のこと、よく思い出すんだ」


「……そうですか」


「君のことも」


 彼女の瞬きが、一拍遅れた。


「懐かしい、って?」


「……近いかな」


「便利な言葉ですね」


「そうかもしれない」


 彼女はカップに視線を戻す。

 表面に浮かぶ光の輪。


「私は、あまり思い出しません」


「本当に?」


「必要がないので」


 嘘ではなかった。

 だが真実でもなかった。


 沈黙。


 彼のコーヒーから、湯気が減り始める。


「今日は、どれくらいいられる?」


 彼が聞く。


「予定はありません」


「じゃあ」


「長居するつもりもありません」


 線を引く言い方だった。

 やわらかいが、明確。


「……そっか」


 彼は笑おうとして、やめた。


「君は、変わらないな」


「そう見えますか」


「うん」


「それは、あなたが変わったからですよ」


 彼は言葉を失う。

 少しだけ。


「……厳しいな」


「事実です」


 彼女は、淡々と。


 沈黙。


 店内の時計が、秒針の音を立てていることに、彼は今さら気づいた。


「ねえ」


 彼が言う。


「もしさ」


 彼女は視線を上げる。

 逃げない。


「もし、あのとき――」


「やめてください」


 遮断は、即座だった。


「仮定の話は」


「……ごめん」


「いえ」


 彼女は、カップに口をつけた。

 今度は、少し長く。


「私は」


 彼女が言う。


「あなたが来た理由を、だいたいわかっています」


 彼の喉が動く。


「でも」


「はい」


「それを言葉にされると、困ります」


「……どうして」


「答えなければならなくなるからです」


 彼は、視線を落とした。


「答え、聞きたいけど」


「聞かないでください」


 はっきりと。


 沈黙。


 彼のコーヒーは、もう湯気を立てていない。


「君は、ずるいな」


 彼が、弱く言う。


「そうでしょうか」


「逃げ道を、全部塞ぐ」


「いいえ」


 彼女は首を振る。


「私は、何もしていません」


「……」


「していないことを、続けているだけです」


 その言葉が、彼の胸に沈む。


「それが、一番きつい」


「知っています」


 彼女は、少しだけ目を伏せた。


「だから、ここまでにしてください」


「……もう?」


「はい」


 彼は、時計を見る。

 まだ二十分ほどしか経っていない。


「早いな」


「十分です」


 彼女は、鞄に手を伸ばす。


「また、連絡してもいい?」


 彼女の手が止まる。


 数秒。


「しない方が、いいと思います」


「理由は」


「お互いのためです」


 彼は、苦く笑った。


「相変わらずだ」


「そうかもしれません」


 彼女は立ち上がる。

 椅子を引く音は、やはり小さい。


「今日は、ありがとうございました」


「……こちらこそ」


 彼女は、会釈をした。

 深くも浅くもない。


 ドアに向かう。

 ベルが鳴る。


 彼は、席に残った。


 テーブルの上。

 二つのカップ。


 彼女のコーヒーは、まだ半分以上残っている。

 完全に、冷めていた。


 彼はそれを見つめ、

 何もせず、

 手を伸ばさなかった。


 コーヒーは、最後まで飲まれなかった。


 この時間は、誰にも引き継がれなかった。

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