あるパン屋の記念日
港町の朝は、いつもパンと潮の香りが混じっている。
けれど今日の空気は、少しだけ甘い。
店の看板を磨いていると、窯の奥から焼けた小麦の香りがふわりと漂ってきた。
サラが髪をまとめながら、生地の焼き具合を確かめている。
光の粒が白い腕を照らし、粉の細かな粒まできらめいて見えた。
「あら、ルイ。今日は少し早いのね」
「仕入れが多かっただけですよ」
そう言いながらも、彼の手には見慣れぬ小さな花束が握られていた。
薄紫の花が潮風に揺れ、朝日に透けて輝く。
「素敵じゃない、どうしたの?」
「もちろん、サラさんにですよ」
彼が花束を差し出した瞬間、胸の奥がふわりと熱くなった。
「もしかして、今日って……」
「ええ。結婚して、ちょうど三年目です」
サラは一瞬言葉を失い、やがて照れくさそうに笑った。
「やだ、すっかり忘れてたわ……」
「ですよね。去年も忘れてました」
「あなたは毎年覚えてくれてるわね」
苦笑いをしながら、花を受け取る。
指先に伝わる柔らかい感触と、ルイの体温。
小さなその束の中に、確かに“日々”が詰まっている気がした。
窯のタイマーが鳴る。
サラは慌ててパンを取り出したが、焼き色はちょうどいい。
パンの香りが一層濃く広がり、店いっぱいに満ちた。
「三年か……あっという間ね」
「毎日忙しくて、そして幸せで……こんなに時間が早く過ぎる感覚、知らなかったわ」
「忙しい日ばかりなのに、不思議と息苦しくないんですよ。
きっと……あなたが隣にいるからだと思います」
照れた様子で顔を背ける。
「またそんな事言って……」
「また言いますよ。毎日でも。
だって、ほんとなんですから」
頬を染め笑いながら。
「おばあさんになっても言い続けるの?」
「もちろんですよ。
皺が増えても、白髪になっても……そのたびに“きれいだ”って言います」
「あなたって本当に……」
いいかけて、ふと息を整える。
「私も貰ってばっかりじゃあだめね」
サラは彼の瞳をまっすぐに見つめた。
「好きよ、ルイ」
「……今、人生でいちばん幸せです」
そう言って、彼はサラの手をそっと取った。
窓の外では潮風がカーテンを揺らし、焼きたてのパンの香りがふたりを包む。
今日もまた、変わらない一日が始まる。
その始まりこそが、何よりも尊い幸せだった。
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