ぼくは、ばけもの。
お前なんか、死んでしまえばよかったんだ。
差し込む鋭い夏の日差しを浴びて、彼女の桜色に照る唇が、艶やかになだらかに残酷に、けいごに対して言葉を紡ぐ。
「私、あなたに会ったら、絶対ぼろぼろに罵ってやるつもりだったの」
長い黒髪が、肩口からさらさらと柔らかく毀れた。水色の半そでワンピースから除く白い肌が、奇妙に眩しく感じてしまう自分が、酷く醜く思えて、けいごは視線を逸らした。
特にいやらしい気持ちを抱いたわけではないが、何というか、とても自分が見てはいいもののように考えることが出来なかったからだ。
初秋にしては熱過ぎる陽射しが、けいごのうなじに噛み付く。白いワイシャツには、汗が染みていた。ぺったりと張り付いてくる感触に、けいごは自然顔をしかめる。今すぐ着替えてしまいたい衝動が、心のそこでずくりと動いた。
けれど、目の前でりんとこちら見据える彼女には、そんな様子はどうでもいいらしく、何の心の動きも感じなかったようだ。暑さを感じた様子もなく、しっかりと彼を見据えて、そして、言う。
けいごを、傷つけるために。
「私の幸せ、奪ったのは。私の未来を、奪ったのは。何もかも、ぶち壊してめちゃめちゃにしてぐちゃぐちゃにして粉々にしたのは、あんただって。
絶対に、ずっと延々と、あんたが死ぬまで、言ってやるつもりだったの」
すらすらと台詞を紡ぐように言う彼女に、もう言っているような気がする、とけいごは薄く笑った。結構、心に堪えるぞ、と柔らかく目だけで伝える。けれど、彼女にとっては、これはぼろぼろに言う、という範囲に入らないかもしれない。ただの事実を、淡々と述べただけに過ぎないのかもしれない。
けれど、これを自覚して理解して悔やんでいる自分には、十分なほど鋭い刃だった。心が痛んでしまって、何だか悲しい。それくらいの覚悟は出来ていたはずだ。罵られるのは、仕方のないことだと、心から。
「私、あんたのせいでこんなに不幸なんだ、って思ってた。だって、あんたには私の母さんがいるもの。母さん、私と父さんを捨てて、あんたとあんたの父さんを選んだのだもの。母さんには、私はいらなくて父さんもいらなくて、あんたとあんたの父さんが必要だって、そういうことなんだもの」
大好きだったのに、と声にならないような声で、彼女は呟いた。それは、本当で、事実で、変えられない現実だ。
目の前の彼女は、今のけいごの母親の娘だ。年は、自分より四つ年下だと聞いていた。会ってみたい、と言ったら、心底義母は困った顔をしていたことを、思い出す。
しかし、それはお母さんにねだる子供、といったような無邪気な願いではなかった気がする。
彼女の母親が、自分の父と交際をしていたとき、けいごは彼女の母親に家庭があることを知っていた。偶然街で見かけたとき、幸せそうに家族で微笑む姿を見たからだ。もしかしたら、父と義母の交際は、ただの一過性のものだったのかもしれない。やはり、父親に家庭を壊すだけの覚悟はなかっただろう。けれど、その全てを壊し、全てを再生する、最後の一押しをしたのは自分だと、けいごは理解していた。
『お父さんと付き合いたいなら、お母さんになってよ』
彼女の母親に、義母さんにそう言って、決断を促したのは、確かに自分だったのだ。
凍りついたように、笑顔を張り付かせた義母の顔を、未だに忘れられない。
けいごは、そのとき、酷く無邪気に笑っていたと思う。無邪気に見えるように、何度も鏡の前で練習していたから、きっとばれなかっただろう。
会いたい、と言ったのは、事実、会わないよね、と念押しをしたことなのだ。
もしも会ったら、自身もけいごも罵られるのが判っている義母は、その絶対にそれを頷かない。今更ながら、幼い自分を随分酷い奴だと思う。
目の前の彼女の幸せをぶち壊したのは、自分だ。
浮気を義母が始めたのは、何かほころびがあったからである。いずれ、崩壊する運命にだったのかもしれない。けれど、その止めをさしたのは、確実に自分だ。
だから、辛いのにけいごは逃げる事が出来ない。目の前にいる彼女は、自分の為の不幸だからだ。
「母さん、何にも言わなかったの。朝に手紙だけ置いて、それでいなくなったの。判る? 私は判らなかった。何にも、判らなかった。朝起きたら、私には母さんの笑顔があって、少し焦げた目玉焼きとサラダとパンを食べて、私は学校に行くはずだったの。
判る? ねぇ、判る?」
どれだけ、それが、幸せだったか、判る?
繰り返される問いかけに、判るよ、とけいごは彼女に返す。だって、それは今けいごが感じている幸せだ。本当の母親が死んでから、ずっと久しく聞いていなかったおはよう、そしておかえりなさいも、今は全て自分のものになっている。それは、本来彼女のものであったはずの、暖かさだ。
だから、判らないはずがない。どれだけ素晴らしくて、優しくて、美しくて、暖かいものか、判らないはずがない。
理解出来ないはずが、ない。
「だから、俺は義母さんに頼んだんだ。お母さんになって、って」
「そうね。あんたが頼まなかったら、母さんは私の母さんでいてくれたのよ。最低ね」
冷たく光る黒い瞳に、けいごは軽く顔を歪めた。泣きそう、ではないけれど、涙が出そうな歪め方だった。
最低なのは判っているから、今更言わないで欲しい。目の前の彼女の家庭を壊したのも、彼女がこうして自分を罵る他無いのも、全て自分のせいなのだ。
自分が壊したものの重さが、圧し掛かってくるのを、けいごは感じた。ずっと感じていたもののはずなのに、今、それが更に彼女という壊したものの結晶を現実に認識して、その重さが酷くなる。
幼心に望んだ願いが引き起こした結末は、これほどまでに痛々しく、切なく、救いが無い。
何の罪もないはずの彼女に、こんな結末を与えてしまった。
ごめんなさい、なんて言ったら懺悔どころか、ただの逃げだ。謝罪すらも、許されない。
「・・・・・」
「謝るのも、出来ないでしょ?」
「ああ。ただの、逃げだから」
「そうね、そう思うのもいいわ。だけど、それだけじゃないでしょ?」
にっこりと、彼女が笑う。冷たくて、暖かくて、切なく、笑う。けいごに向けて、しっかりと微笑んだ。
「あんた、後悔していないんでしょ?」
声が、遠くで聞こえて、酷く近くで響いた。頭の中に、台詞が意思を持って、ぐるぐる巡る。体中に侵食して、食い込んでいく。
だから、けいごは笑って応えた。
「・・・・・・ああ」
何より最低だと思うのは、後悔なんか欠片もしていないことだ。義母を得られた幸せは、家庭を崩壊させてしまったことの重みよりも、ずっと嬉しくて、優しい。
得られなかったものを、得てしまったから。
望んで止まなかったものを、現実に手に入れられたから。
授業参観のたびに、母親のいない寂しさを昼休みのトイレでごまかしていた。みんなが親が来るかをうきうきと廊下を覗き込みながら待つ姿を尻目に、一人で誰も来ないはずれのトイレに駆け込む。教室にいると、今日は手を上げるぞ、とか、答えられなかったら怒られるなぁ、とか、能天気な声が背中に突き刺さって、溢れそうな涙をこらえるのは出来なかった。涙を流すのは、せいぜい五分で、残りの三十分近く、顔を冷やすことで目の赤みを隠していた。父親は仕事で忙しくて来ることが出来ないと、理解していた。わがままも言えない。だから、その五分間の涙だけが、彼の吐き出し口だった。苦くて塩辛くて、声が枯れるような、五分間。
その五分間が、訪れなくなったあの瞬間。
母親がいないという、寂しさから開放された瞬間。
本当に、世界が輝いたと思ったのだ。
後悔なんか、欠片もない。
目の前で、その犠牲者を見たからと言って、その感情は、少しも変わることは無かった。
世界の輝きは、そんなもののまえでは、何の後悔の種にならない。
そんな風に感じている。
なんて、醜い。
「欠片も、少しも、微塵も後悔していないよ。俺は、義母さんが家に来てくれて、本当に幸せだったし、幸せだ。だから、君の家庭が崩壊した事に対する罪悪感はあっても、後悔なんか、本当に感じられないんだ」
伝える言葉は、なんて酷い。伝わる意思は、なんて汚い。幸せを願うなんて、簡単に紡げる唇で、自分はすらすらと、他人の不幸を虫けら以下と捉える言葉を吐き出せる。
胸が、苦しかった。こんな風に思う自分が大嫌いなのに、それでも哀れに思う胸が苦しかった。悪くない、と言い訳する感覚が、切なかった。
「・・・・・ごめん。ごめん・・・!!」
「謝らないんじゃなかったの」
「わかってる、でも、ごめん・・・・」
漏れる吐息が、信じられないほど掠れて、情けないほど揺れていた。謝りは逃げだと、わかっていたはずなのに。
けいごは、彼女から視線を逸らした。見ていることが、辛かった。彼女の曇りない視線が、痛くて、痛くて、凶器みたいに胸を深く抉っていく。
薄暗い部屋の中で、彼女の肌だけが、奇妙に白く光っていた。やせ細り、日の光を知らない彼女の肌は、久しぶりにけいごが開けたドアから差し込む光で、いっそう青白く光った。
やせ細った彼女の体は、人形のようだった。
「謝らないでよ。胸くそ悪いわ」
「ごめん」
「だから、謝らないでよ」
りんと前を見つめる彼女は、しっかりとけいごだけを見つめている。唇だけが、綺麗案桜色で、不思議と綺麗だと感じられた。けいごは、彼女の細い体を抱き上げる。
本当に、骨と皮に近くなった彼女は、折れてしまいそうだった。ぽきりと、簡単に。
「ごめん・・・・・」
後悔はしていない。けれど、後悔をした。強く、酷く、後悔をした。
これが、幸せの代償なんですか。思わず、けいごは誰かに問いかける。
骨と皮に近い彼女の姿は、自分の一言で彼女らから奪った母親の影を求めた父親の、狂った愛情で守られた姿だ。
どこにも行かないで。傍に、いて。愛しているんだ。愛して。
窮屈な部屋の壁に、びっしりと書き込まれた文字は、いっそ清浄過ぎるほどに、愛に溢れていた。
その愛を注いだ父親は、彼女と同じ部屋で、血を流して死んでいた。むわっとするほど、死んだものが発する匂いが部屋に充満している。
傍らに転がる銃からは、きっと彼女の指紋が取れるだろうと、場違いにそうけいごは思う。
「あたし、罵ってやろうと思ってたのよ。父さんをこんな風に変えたあんたに。私の人生を狂わせたあんたに」
父親が、毎晩狂ったように泣くの。何度も、私を母親と間違えて抱いたわ。殴ったりもした。最後には、閉じ込められたの。
愛情が足りないなら、ずっと与えてあげるからって。
彼女の台詞は、痛くて痛くて、悲しくて。けいごは、耳を塞ぐ代わりに彼女の体を、抱き締めた。折れてしまいそうな体を、やさしく、きつく。
ごめんなさい。
「だから、罵って、ぼろぼろにして、どうしようもなく、壊してやりたかったの。あたしみたいに」
彼女を抱え上げる。細い体は軽かった。この部屋から何年出ていないのかは分からない。もう手遅れだと分かっていても、外に止まる救急車に彼女を連れて行きたかった。彼女を抱きしめながら、玄関のドアを開ける。途端にドアの形に溢れ出した陽射しが、けいごと彼女の網膜を灼いた。眩しかった。けいごが眉をしかめていると、腕の中の彼女は、眩しそうに笑った。
そして、求めるように、細い腕を、太陽に向かって伸ばす。
「綺麗ね。本当に綺麗」
笑いながら、彼女は涙を流した。
「こんなに、綺麗なのに。どうして、私、こんなに醜くなっちゃったんだろう」
「綺麗だよ」
「お世辞はいいわ。・・・・・でも、悪くないわね」
ふふ、と声を出すと、彼女はゆっくりと、力を抜く。もう一度彼女を抱えなおす。まるで、腕の中にいないのではないか、と疑うほどに。
それほど、彼女は軽かった。信じられないほど、軽かった。
多分もう、彼女は空っぽなんだ、とけいごは思った。
何年も暗い部屋で、壊れた愛情を注がれて、その愛情を否定して、殺して、終わらせてしまったから。
彼女は空っぽになってしまったんだ。
ああ、だから。
だから、死んでしまうんだ。
「・・・・・・許さないつもりだったの。許せないはずだったの」
彼女は、ひやりと、けいごの頬に触れた。生きていくけいごの体温と、死んでいく彼女の体温は、あまりにも違って、それが、痛いほどの現実を絡ませて、悲しかった。けいごの顔が、堪りかねたように歪む。
「それなのに、どうしてかしら。私、あんたを許してしまいそうだわ」
涙が、出てくる。お互いに、ぽろぽろと。
どちらとも知れない涙は、交じり合って、地面に小さな染みを作った。ぽつり、ぽつり、増えていく染みは、この気持ちの痛みの数のようで、尚更涙が溢れてくる。
もっと、もっと、と急かすように、瞳の奥から溢れていく。
とても、痛くてたまらない。
「ねぇ。私、あんたを許せたら、幸せになれるかしら?」
「・・・・・判らないよ」
「そうね、私も判らないわ」
彼女は悪戯っぽく、少し眉をしかめてみせる。そのまま、つぅと骨の指で、けいごの頬をなぞった。その指が、何だかけいごは気持ちよく感じた。
「だから、許してみるね」
「・・・・・・ぁ・・・・」
「きれいよ、お母さん。お父さん。ほんとうに、世界は、きれいなの」
子供のように、けいごにしがみつく。愛情に飢えた子供みたいに、けいごの体にしっかりと腕を絡めた。けいごも、その体を優しく、けれどぎゅっと力を込めて、抱きしめた。
離したくない。離したくない。
壊した子供と、壊された子供は抱き合って泣いた。初めて分かち合う感情に、どうしようもなく心が震えた。ちぐはぐで、通わないはずの気持ちが、気まぐれに触れ合ったかのように、お互いの心臓を共鳴させて揺さぶる。
死にたくないよ。ねぇ。
「しあわせになれたら、いいね」
そういって、彼女は死んだ。あっけなく、死んだ。
けいごは思い出す。
自分は、彼女の名前すら、知らないことに。
◇ ◇ ◇
「警部、お疲れ様です。大丈夫でしたか? 銃声がなった途端一人で中へ飛び込んでいって…厳罰ものですよ」
「いいんだ。始末書は書くさ」
同僚に笑うと、けいごは今しがた息を引き取った彼女を、抱えなおす。その姿を見て、同僚は痛ましげに顔を歪めた。事情は何も知らない。罪もない同情だが、何だか無性に断罪を彼に頼みたくなった。なあ、これは俺のせいなんだよ。
「この子は、俺がつきそう」
「わかりました。じゃあ、現場は俺が請け負いますよ」
「頼む」
走って家の中へ入っていく同僚の背中を見送ると、自分の車に彼女を乗せた。助手席に彼女を乗せようと思ったが、その前にもう一度彼女を抱きしめた。
今しがた死んでしまった、細い彼女の体を抱き締めて、けいごは思う。自分が幸せになる為に出した犠牲は、正しいものだったのだろうか。
彼女の父親を、彼女を狂わせた自分の幸せは、願いは、正しいものだったのだろうか。
「ねえ」
応えない彼女の頬に、唇を落とした。その肌は、信じられないほど冷たかった。生きていたことが、嘘みたいな冷たさだった。
「後悔してないんだよ」
それでも、殺してしまったことの後ろめたさも、壊してしまったことの罪悪感も、死んでしまうくらいに感じているのに、後悔しない自分は。
人間なんて、呼べる生き物なんだろうか?
「どうなんだろうね?」
応えない彼女は、酷く何よりも綺麗で。そんな彼女を抱き締めるには自分は、汚すぎて。
後ろめたくて、ちょっとだけ、目を逸らす。逸らしたからって、何が変わるわけでもないのに。
馬鹿馬鹿しい。何もかも。どうして、両方が幸せになる方法が、選べないのか、選べなかったのか。
どうして。世界は。
「こんなにも、残酷なんだろう」
幸せになるための犠牲を。幸せを得る為の犠牲を。復讐を。懺悔を。そして、裏切りを。
どうして、生み出してしまうんだろう。
けいごは、薄く微笑んだ。
きっと、自分は、生きていくに違いない。だって、彼女が幸せを望んでくれたから。
けれど、幸せになることはないだろう。それには、自分は壊れすぎている。
まるで、化け物だ。
幸せを食って、生きていく化け物。
きっとこれからも、後悔もせずに、そうして生きていくに違いない。
それが、人間なのだ。
けいごは、もう一度だけ、彼女に口付けた。
今度は、頬ではなかった。
◇ ◇ ◇
ぼくはばけもの。
しあわせをたべて、いきていく。
ぼくはばけもの。
きみをたべて、いきていく。
ぼくだけじゃない、みんなばけもの。
そうして、ひとをころすんでしょう?
だけど、それでもいきていたいから。
ぼくはばけもの。
ほんとうに、ばけもの。