第四章:言葉の砂漠
重力も時間も因果も、その意味を失った世界で、人々はまるで水中に漂うクラゲのように、曖昧な存在と化していた。目的もなく、理由もなく、ただ存在する。しかし、この混沌の極みに達しようとする時、最後の砦、すなわち「言葉」が、その意味を失い始めた。
朝、目覚めた男が、妻に「おはよう」と声をかける。しかし、その口から出たのは、「鳥が、空を、舞う」という、全く意味不明な音の羅列だった。妻は困惑した顔で、「太陽が、水面に、映る」と答える。
それは、特定の誰かが発狂したわけではない。
街の掲示板に貼られたポスターの文字が、見る者の視界の端から、まるで砂のように崩れていく。「特売」と書かれた文字は、「風の歌」になり、「避難経路」は「石の沈黙」になる。 印刷された文字は、もはや固定された情報を伝える媒体ではなく、流動的な、詩のような、あるいはただの模様のようなものと化した。
会議室で、必死に現状を説明しようとするビジネスマンが、言葉を発するたびに、意味が通じなくなる。彼が「問題」と言った瞬間、それは「喜び」の意味になり、次の瞬間には「深海」を指し示す。まるで、言葉一つ一つが、独自の魂を持ち、勝手に意味を変えていくかのようだ。
カフェのメニューは、もはや読解不能だった。「コーヒー」と書かれた場所には、時折「夢」や「記憶」という文字が浮かび、店員も客も、ただ指差すことでしか注文ができない。それでも、不思議と欲求は満たされる。言葉が失われても、本能的な理解だけは残されていた。
人々は、次第に、話すことをやめた。コミュニケーションは、視線や身振り、あるいは、互いの意識の奥底で響き合う、言葉以前の「感覚」で行われるようになった。無意味な言葉の羅羅羅羅、いや、羅列に疲弊したのだ。
それは、言語の崩壊というよりも、「概念」そのものの溶解だった。
「悲しみ」という言葉は、「喜び」を意味することもあり、「死」は「生」を意味することもある。善悪の境界線も、美醜の基準も、すべてが曖昧になり、混じり合った。世界は、意味のない、そして意味を持つ、無限の情報の渦となった。
人々は、もはや「自分」という明確な境界線すら感じられなくなっていた。隣の人の感情が、自分の感情のように感じられたり、遠い記憶が、まるで自分の体験のように蘇ったりする。意識が、集合的な、広大な海に溶け出していくようだ。
しかし、この究極の混沌の中にも、ある種の静かな調和が見出され始めた。
言葉が意味を失ったことで、思考はより純粋な、感覚的なものへと変化した。彼らは、もはや論理や言葉で世界を捉えようとはせず、ただ、世界そのものと一体化するかのように、その変化の波に身を任せていた。
世界は、もはや人間が認識できる「形」を持たなかった。それは、純粋なエネルギー、あるいは、無限の可能性を秘めた、「無」と「有」の狭間にある、流動的な何かになった。人々の意識は、その流動性の中に、ゆっくりと、しかし確実に溶け込みつつあった。