第一章:宙ぶらりんの朝
あの朝は、いつもと寸分違わない、ありふれた朝のはずだった。トーストが焦げ付く匂い、湯気の立つコーヒー、新聞をめくる乾いた音。当たり前すぎて、誰もが意識しない、日常という名の地盤。
しかし、その日は違った。
まず、キッチンの隅に置いてあったミルクピッチャーが、フワリと宙に浮いた。まるで、見えない誰かがそっと持ち上げたかのように、ゆっくりと、そして、なんの予兆もなく。
それを見た主婦は、目を瞬かせた。一瞬、寝ぼけているのかと、自分の頬を強く抓ってみる。痛い。現実だ。ピッチャーはまだ、そこにある。いや、そこにはない。宙に。
ガシャン!
次の瞬間、ミルクピッチャーは突然、何の力も働いていないかのように、元の場所へ、否、元の場所のほんの数センチ上に、ストンと落ちた。ガラスが砕ける鈍い音。白い液体が床に滲む。
それが、始まりだった。
東京のど真ん中、高層ビル群の合間を縫うように走る電車の中。吊革につかまるサラリーマンが、ふと、違和感を覚える。足元に感じるはずの、車両の微かな振動がない。
フワリ、フワリと、彼らの体は揺れていた。まるで、水中にいるかのように。窓の外の景色は、いつも通りの、スピード感のある流れ。しかし、自分たちが、まるで巨大なシャボン玉の中に閉じ込められたかのように、僅かに浮き沈みしているのだ。
誰かが小さく悲鳴を上げた。「え、何これ…!」他の乗客も、最初は訝しげだったが、次第に顔色を変え始めた。スマホを落とした者がいる。それは床に落ちず、膝の高さで止まった。
その時、アナウンスが流れる。「……現在、車両が、フワフワ、失礼、浮遊している模様です。お客様には、宙ぶらりんな状態で、もうしばらくお待ちください…」冷静なアナウンスが、かえって人々の混乱を煽った。
公園では、子どもが遊んでいたブランコが、鎖が切れたかのように、そのまま空へと舞い上がっていく。きゃっきゃと笑う声が、やがて恐怖の叫びに変わる。ブランコは、まるで風船のように、遥か上空へと消えていった。
古いアパートのベランダで、洗濯物を干していた老婦人が、思わず手を放した。白いシーツが、ゆっくりと上昇し、青空に吸い込まれていく。まるで、世界が、巨大な吸い込み穴になったかのように。
人々は、空を見上げた。青い空は、いつも通りだった。雲も、いつも通りに浮かんでいる。しかし、その雲の合間を、見慣れないものが漂い始めた。自転車、植木鉢、そして、さっきのブランコ。
誰もが理解できなかった。昨日まで、当たり前のように存在していた「重力」という、世界を縛る見えない鎖が、まるで夢から覚めるかのように、唐突にその効力を失い始めていた。
それは、特定の場所で起こる現象ではなかった。地球上のどこででも、同時に、脈絡なく、そして予測不能に。街角で、オフィスで、学校で、病院で。誰もが、宙ぶらりんだった。
人々は、まず、怒った。次に、怯えた。しかし、やがて、その感情は薄れていった。怒りも、恐怖も、宙に浮いたまま、どこかへ消えていくような、奇妙な感覚。
「どうすればいいんだ?」誰かが呟いた。しかし、その声は、重力に縛られず、そのまま上空へと散っていく。答えは、宙に漂う塵のように、掴みどころがなかった。
世界は、まるで子供が積んだブロックの塔のように、不安定に揺れ始めた。一つ、また一つと、基本的な法則が、その座を失っていく。これは、始まりに過ぎなかった。