黄金の手紙と再興の王
1213年、晩春。
ケント州の港町ドーバーでは、潮風が重く、空気は剣のように張りつめていた。
漁師たちの口から、対岸のカレーにフランス王フィリップ2世の黒い軍旗でたなびいていたと噂が流れ、修道士たちは神の裁きと救済を口にし、商人たちは銀貨と商品を地下の隠し部屋へ運び始めていた。
その緊張の中で、ひとつの使者団が海を渡ろうとしていた。目的地はローマ―教皇インノケンティウス三世の御座である。
先頭には王の印章を掲げた高位聖職者。そして、側には王の密命を帯びた黒衣の男。
彼の名はエリアス・オブ・サセックス。元修道士にして、今はジョン王直属の密使である。
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「陛下は、神の名のもとに再び膝を屈するおつもりなのか?」
王の間の外で、エリアスは言った。誰かに聞かれているはずもないことを確認した上での、苦い独白だった。
その背を冷徹な炎宿した目線で見つめる女がいたことには気づかずに。
「いいえ。王は神に跪くふりをして、その権威を利用するのよ」
「ローマとの和解は不可避。だが、それを王権強化の材料に変えるのがあなたたちの仕事。インノケンティウスは力に屈する者より、“秩序を保つ者”を好む。誓文と献金、そして…演出でイングランドの認識を変えるのよ」
彼の懐には、ジョン王直筆の文書があった。ブランタジネットの封蝋がなされた教皇への手紙。その書き出しは、徹底して謙遜と服従に満ちている。
「われら罪深き者、神の代理たる教皇に恭順を誓い、すべての英国教会の権益を保護することを約束する……」
だがその文のあちらかちらには、単体では修辞と散文によって限りなく迂遠な表記ではあったが、こう記されていた。
「……かくして、われらは神の代理より、英仏間の争いにおいて聖なる正当性を授かる」
すなわち――教皇の名のもとにフランスと戦う、神聖な“十字戦争”への変換。
教皇イノケンティウス3世は、フランス王の第三次十字軍の不徹底も、先の教皇の仲介による神聖なる結婚の誓いに対する不義理も、鷹揚な笑顔の裏で決して赦していなかったのである。
それは共に主への裏切りであると、彼は信じるゆえに。
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その数週間後、ローマからの返書が届く。
それは絹に包まれた、教皇印入りの巻物だった。
教皇インノケンティウス三世は、ジョン王を「カンタベリーの守護者」として認め、破門を解いた。
だが、それと同時に、フランス王フィリップ2世への警告状も発せられた。
「イングランド王ジョンは、神の秩序を取り戻した。かれに対する不義の侵攻は、教会への冒涜と見なす」
この文言は、フランス軍の士気に疑念をもたらし、ジョン王に新たな外交カードを与えた。
サッチャーの霊は巻物を見つめながら、低く言った。
「これで、宗教の問題は片付いた。次は戦場よ、ジョン」
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夜。王はひとり書斎で剣を研いでいた。
その剣に映る彼の瞳には、もはや迷いはなかった。
「失われたノルマンディーも、王の誇りも……取り戻す。私は“失地王”ではない。再興の王となるのだ」
その誓いの声を聞きながら、サッチャーの霊は背を向けて塔へと消えていく。
「その誓いの代償が、なんであるかは……いずれ知るでしょうね」