異世界天竺
舌先が傷に触れた瞬間、セリーナの体が微かに震えた。
洞窟の薄闇に沈む彼女の背。白磁のような肌に刻まれた、紅の線。滲む血の匂いが、湿り気を帯びた空気に混じり、鉄と熱の入り交じるような錯覚を生む。
「……っ」
彼女の肩がわずかに強張る。だが、逃げようとはしない。
レクトは指先で彼女の肩を支えながら、ゆっくりと舌を這わせた。
血を拭い去るため。傷を癒すため。理屈は分かっているはずなのに——。
唇が僅かに触れるたび、セリーナの背がかすかに波打つ。小さな震えが、ゆっくりと彼の手のひらに伝わってくる。
「……ん……」
吐息が、微かに漏れた。
舌先に、鉄の味と微かな温もりが広がる。傷口に残る血はわずかだというのに、舐め取るたびにそこから熱が生まれ、拡がっていく。
それはまるで、血の中に何かが眠っていたかのようだった。
「……っ」
セリーナの指先が、不意にレクトの手をぎゅっと掴む。かすかに湿った掌の感触が、思った以上に柔らかい。
「……痛むか?」
レクトがそう尋ねると、セリーナはかぶりを振った。
「……違うの。こんな感覚……知らない……」
彼女の声は掠れ、どこか戸惑いを含んでいた。
舌が傷をなぞるたびに、彼女の肌がびくりと震える。指先はレクトの腕を探るように動き、無意識のうちに強く握りしめる。
「……変ね……ただの傷なのに……なんで、こんな……」
洞窟の中は静寂に包まれているのに、耳の奥ではどこかで水滴が落ちる音が聞こえる気がした。ぽつり、ぽつりと、彼女の意識の奥深くへ落ちていくような感覚。
「……レクト……」
彼女の声が呼ぶ。
レクトはゆっくりと顔を上げた。セリーナの瞳はぼんやりと揺れ、普段の理知的な光が霞んでいる。
まるで、今の自分が何者なのかすら分からなくなったかのような、そんな眼差し。
「……お前……」
何かを言おうとしたが、言葉にならない。
この世界に来て以来、剣を振るい、力を使い、ダンジョンを歩くことだけが彼の全てだった。
だが今、この瞬間だけは——彼自身が、まるで異物になったように感じていた。
セリーナの肩に触れた指先が、ゆっくりと熱を持つ。
彼女の体温なのか、それとも。
「……ねぇ、レクト」
囁くような声が耳を掠める。
「あなた、まだ……舐めるの……やめないの?」
それは、問いかけだったのか。
それとも、誘いだったのか。
レクトはゆっくりと手を離した。
セリーナの傷は浅いとはいえ、血が滲み、体力も削がれている。舌を這わせた傷口からは、かすかに魔力の残滓が漂っていた。
「……一応、異常は確認したな」
息を整えながら呟く。
セリーナはぼんやりとした目でレクトを見つめ、まだ熱のこもった呼吸を繰り返している。背筋を通る傷の痛みよりも、今の方が妙に体が火照っているように感じた。
「……そろそろ、戻るぞ」
レクトは立ち上がり、セリーナの腕をそっと引く。
「ええ……」
彼女の声は少し掠れていた。体を支えようとするレクトに身を委ねながら、ゆっくりと立ち上がる。だが、一歩踏み出した途端、膝がわずかに揺らぎ、崩れ落ちそうになる。
「おい……」
レクトはとっさに彼女の腰を支えた。
「無理するな、背中に乗れ」
そう言って、膝を折る。
「……おぶる気?」
「当然だろ」
「……これ以上好き放題にされるの、嫌って言ったら?」
セリーナはくすりと微笑み、彼の肩に腕を回した。
「文句は後にしろ、しっかり掴まれ」
「ふふ、命令するのね……」
そう言いながらも、彼女は抵抗せずに身を委ねた。
レクトの背にぴたりと密着する感触。
柔らかい体が熱を帯びていて、彼自身も無意識に喉を鳴らす。
(……落ち着け)
体を起こし、歩き出そうとしたその時——
「お前ら、こんなところで何をしてる?」
低く響く声。
レクトは反射的に振り返る。
洞窟の影から、ゆっくりと姿を現したのは——
ガルヴァン。
鋭い眼光と、落ち着いた表情。
肩に担いだ大剣が、彼の逞しい体躯をさらに強調している。
「……お前、何でここに?」
レクトの問いに、ガルヴァンは肩をすくめる。
「昨日の異常が気になってな。調査してたんだよ」
そして、ちらりとセリーナに視線を向ける。
「随分と消耗してるな。何があった?」
レクトは僅かに息を整えながら、答えを探した。
ガルヴァンは迷いなく近づき、セリーナを軽々と背負い上げた。
「おい、俺が——」
レクトが口を開いた瞬間には、すでにセリーナはガルヴァンの背中に乗っていた。抵抗の余地など、最初から存在しなかったかのように。
「昨日の礼だ。お前に助けられた借りくらい、返させろよ」
そう言って、ガルヴァンは淡々と歩き出す。
レクトは肩を落とした。
(……なんだよ、それ。俺が背負うつもりだったのに……)
言葉を挟む隙もなく、完全に奪われた役目。セリーナの体温を直接感じながら歩くはずだったのに。
——しかし。
一度冷静になり、ガルヴァンの背をじっと見つめる。
(……いや、これは……これはこれで……)
ガルヴァンの体には、無数の傷跡が刻まれていた。新しいものも、古いものも。筋肉の隆起に沿って走る切り傷や擦り傷。鎖骨に滲む血と汗。
洞窟の湿った空気が、それらをより際立たせる。
そして、彼の背中にぴたりと密着するセリーナ。
彼女の髪がわずかに乱れ、肩口から覗く肌には、傷とは異なる熱を含んだ紅が差している。普段の知的な眼差しが柔らかくぼやけ、戦いと消耗による陶酔が滲む表情。
彼女の細い指が、無意識にガルヴァンの肩を掴む。
ガルヴァンのたくましい背筋と、セリーナの柔らかな白肌。
剛と柔。
力と妖艶。
相反する要素が、交わる。
(……これは……まさか、俺は今——)
天竺にいるのでは……?
おぶれなかったことは確かに残念だ。しかし、ここに天竺があったのでは? と思わせるほどの光景が広がっている。
目の前には、戦い抜いた男の背と、消耗した女の儚い色香。
熱、汗、荒い息遣い。
(……いや、待て、俺は何を考えてるんだ?)
レクトはそっと拳を握りしめる。
「……どうした、歩かねえのか?」
ガルヴァンが振り向き、余裕のある笑みを浮かべた。
レクトは僅かに顔を逸らし、ため息をついた。
「……ああ、すぐ行く」
そして、レクトは黙ってその背中を追いかけた。