触れるたび、魔力が軋む。
俺はセリーナとともにダンジョンに来ていた。
そしてダンジョンは奥へ進むにつれ、空気が変わっていった。
最初は気のせいかと思った。しかし、確実に“何か”が違う。
空気が重く、湿っている。だが、それだけではない。
肌にまとわりつくような魔力の気配。
「……レクト、感じる?」
セリーナが不意に立ち止まり、俺の隣に寄る。仄暗い洞窟の光に照らされた彼女の肌は、しっとりと汗を滲ませ、艶やかに見えた。
「……確かに、妙にまとわりつく感じがするな」
俺は顎に手を当てながら答える。
「そうね、まるで誰かの意志を持った魔力のよう。自然発生する魔力とは違うわ」
セリーナは細い指を宙に滑らせながら、魔力の流れを探るように目を細める。
「それだけじゃない……あなたの魔力の流れも、なんだか普通じゃないわ」
俺は息を呑んだ。
(また……か?)
セリーナが俺の身体に疑問を抱いているのは分かっていた。しかし、ここでそれを突き詰められるわけにはいかない。
「……とにかく、先に進もう」
彼女の視線から逃れるように、俺は足を踏み出した。
魔物が飛び出してきたのは、その直後だった。
「——来た!」
洞窟の暗闇から、異形の獣が飛び出してくる。
セリーナは即座に詠唱を始めるが、その動きを察知した魔物が一気に距離を詰める。
「くっ……!」
間に合わない。
俺は迷わずセリーナの腕を掴み、引き寄せた。
「きゃっ……!」
彼女の体が俺の胸にぶつかる。
瞬間、肌の熱が混ざり合い、しっとりとした吐息が耳元をかすめる。
(……柔らかい)
女の身体はこんなに柔らかかったのか——そんな当たり前のことを、異世界に転生して初めて意識した。
「……助かったわ。でも、こういうのは、もっと優しくしてほしいかも?」
セリーナは俺を見上げ、唇を軽く吊り上げる。
目の前で揺れる彼女の髪。額に滲む汗が艶めかしく光る。
「すまん、咄嗟だった」
「ふぅん?」
彼女は俺の腕に手を添えたまま、ゆっくりと指を滑らせる。
「……そんなに強く掴まなくても、私は逃げないわよ?」
俺は慌てて彼女を放し、剣を構え直した。
「今は戦闘中だ。余計なことを考えてる場合じゃない」
「ふふっ、そうね」
セリーナは軽く肩をすくめると、再び詠唱を始めた。
戦闘が終わった時、俺は自分の異変に気づいた。
体が、熱い。
「……っ」
肌の内側から、じわじわと熱が滲み出す。
(また……か?)
「……あなた、少し息が荒いわね?」
セリーナが俺を覗き込む。
「……なんでもない」
「でも……ここ、熱くなってるわよ?」
彼女の指が俺の胸元をなぞる。
微かな魔力が絡みつくような感覚。
「……っ!」
全身が震える。
(なぜだ……これは、魔力の影響か?)
セリーナの魔力が、俺の体に何らかの作用を及ぼしている。
「……ふぅん」
彼女の視線が鋭くなる。
「ねぇ、あなた、本当に普通の冒険者?」
その問いが、俺の心臓をざわつかせた。
────────────────────────
セリーナの指が、俺の胸元をゆっくりとなぞる。
「ねぇ、あなた、本当に普通の冒険者?」
彼女の問いに、俺は呼吸を整えながら、なんでもない風を装った。
「……当たり前だろ?」
「でも……この熱は何?」
俺の体は明らかに異常だった。
汗がじわじわと滲み、肌が過敏になっている。洞窟のひんやりした空気が、むしろ心地よくすら感じるほどだった。
(くそ……また“あの感覚”が来るのか?)
異常肉体が発動する兆し。
「ふぅん……」
セリーナが、指を軽く押しつける。
俺は小さく息を呑んだ。
(これは……魔力の影響なのか? それとも……)
彼女の指先から、微かに魔力が流れ込んでくるのを感じる。俺の魔力と交じり合うように、じわりと広がるその感覚。
「ちょっと……私の魔力、あなたに馴染んでるみたい」
セリーナが小首をかしげる。
「あなた、普通の人間なら、こんな反応しないのよ?」
俺は返答に詰まった。
——バレる。
だが、それ以上に、今は“感覚”のほうが問題だった。
「……お前、何をしてる?」
俺は振り払おうとするが、セリーナはニヤリと笑い、さらに指先を滑らせる。
「へぇ……嫌そうなのに、全然拒絶しないのね?」
「……ッ!」
背筋がゾクッと震える。
「あなたの魔力の流れ、まるで……抑え込まれていた何かが解放されようとしてるみたい」
その言葉が、心臓を跳ねさせた。
(そんなこと……)
でも、確かに。
俺は何かを抑えていた。
「あなたの魔力……普通じゃないのよね?」
セリーナの瞳が、じっと俺を捕らえる。
「もう少し確かめてみようかしら?」
俺の腕を取ると、セリーナは笑みを深めた。
「な、何を……」
「だって、こんなに反応してるのに?」
彼女の声は楽しげで、それでいて妙に甘美だった。
しかし、その唇が微かに開くたび、彼女の呼吸もまた乱れ始めているのを、俺は見逃さなかった。
(……こいつも?)
指先の動きがわずかに滑らかさを欠き、押し付ける力が強くなっている。
そして、彼女自身も気づいているのか、わずかに唇を噛み、熱を帯びた瞳で俺を見ていた。
「あなた……不思議ね。私、こんな風に魔力の影響を受けるなんて……」
その言葉には、わずかな震えが混じっていた。
洞窟の湿った空気が、熱を帯びた体をさらに重くする。
レクトの体はすでに限界に近かった。異常肉体が完全に発動しそうなほど、魔力の流れが膨れ上がっている。
それに呼応するように、セリーナの呼吸も荒い。
「あなた……本当に、これ以上抑えられるの?」
彼女の囁きが、鼓膜をくすぐる。
「……さあな」
レクトはわずかに顎を引く。
今の彼に、正確な答えなど分かるはずがない。
「でも……」
セリーナの手がそっと彼の腕をなぞる。
「あなたのこの熱、ただの魔力の暴走じゃないわね?」
「……っ」
レクトは動けなかった。
このまま何かが崩れたら、自分はどうなるのか。
いや、それよりも——
「お前は、どうなりたい?」
そう問いかけようとした、その瞬間——
シュバッ!!
「——ッ!」
突然、洞窟の闇から、閃光のような影が飛び出した。
反射的に剣を構えるが、その瞬間、セリーナが低く呻く。
「ぐっ……!」
レクトの視界に、鮮やかな赤が飛び散る。
セリーナの背中に鋭い爪痕が走る。
「セリーナ!」
レクトは一瞬で敵の正体を見極める。
——高レベルの獣型モンスター。
この階層にはいるはずのない、異常に素早い個体。
(なんでこんな奴が……!)
考えている暇はない。
レクトは剣を構え、無意識のうちに魔力を練る。
そして、その瞬間——
“異常肉体——制御。”
——抑え込める。
以前のように、全開放して暴走する感覚ではない。
むしろ、セリーナの魔力が交じったことで、意識的に力を調節できるようだ。
(……いける)
今の俺なら、暴走せずに使える。
「……三割か」
全開放の三割。
それでも、通常の二刀流よりはるかに速く、鋭い。
「セリーナ、お前は下がってろ」
「……っ、無茶しないでよ?」
レクトは一歩踏み出す。
——そして、次の瞬間、敵の動きが完全に“視えた”。
剣を振るった瞬間、時間がねじれたように感じた。
——敵が遅い。
視界の中、獣型モンスターが疾駆する。
その動きの軌道が、なぜかはっきりと見えた。
(——終わりだ)
一歩踏み込む。
二刀が風を切る。
ズバッ……!
肉が裂け、獣の体が跳ねるように弾け飛んだ。
着地することすら許さず、レクトの剣はさらに切り刻む。
三度、四度。
気づけば、モンスターの動きは完全に止まり、その巨体がくずおれるように崩れ落ちた。
静寂。
そして——俺の意識は、すぐにセリーナへと向いた。
滲む鮮血、甘く艶めかしい傷痕
セリーナは岩場にもたれかかり、肩で息をしていた。
その背中の傷から、ゆっくりと赤が滲む。
深くはない。
けれど、彼女の白い肌に走る血筋は、どこか淫靡な艶を持っていた。
「セリーナ……」
レクトは息を詰めたまま、彼女の傍に跪く。
彼女はゆっくりと顔を上げ、微笑を浮かべた。
「……ふふ、大丈夫よ。この程度なら……」
そう言いながら、震える指先で回復呪文を詠唱しようとする。
だが——
俺の中の何かが、疼いた。
本能が思い出させる、癒しの儀式。
この世界では、昔から傷を舐めて治す習慣があった。
——傷口を、口づけるように舌でなぞる。
その行為には、単なる治癒以上の意味が込められていた。
レクトは、無意識のままセリーナの背に手を伸ばす。
「……何を?」
セリーナが息を呑む。
「……お前、大人しくしてろよ?」
「……え?」
レクトの指が、彼女の滑らかな肌を撫でる。
セリーナの体がわずかに震えた。
彼女は、自分で治せることは分かっていた。
けれど、止めようとはしなかった。
「……レクト……」
細く囁く声。
その響きに、抑え込んでいた熱が、さらに燃え上がる。
——俺は、舌を這わせた。