**解き放たれた異常肉体(アブノーマルフィジカル)**
足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
迷いの洞窟——異世界に転生して初めてのダンジョン。その入り口は大きな裂け目のように開いており、中からは湿った冷気が流れ出ている。
一歩ずつ進むたびに、周囲の音が消えていく。森のざわめきも、鳥の囀りも、背後の世界から遠ざかる。代わりに、洞窟の奥から聞こえるのは、風が石壁を撫でる音と、かすかに響く水滴の音だけだった。
「……深呼吸しろ、レクト」
自分に言い聞かせるように呟く。胸の奥が妙にざわついていた。緊張だけではない。
この空気。この冷たさ。
まるで、俺を試すかのように広がる闇の奥へ——。
洞窟の内部は予想以上に広かった。天井は高く、岩の隙間からわずかに光が漏れている。湿った石の香りが鼻をくすぐり、足元には苔と水たまりが点在している。
「……思ったより、広いな」
呟きながら、腰に下げた剣の柄に指をかける。
敵が、いる。
直感的にそう感じた。
気配がする。視界の端、岩陰の奥で、何かがじっと俺を見ている。
「——出てこい」
次の瞬間、闇の中から飛びかかってきたのは、小型の魔物だった。
鼠のような体躯に、鋭く伸びた爪。目が光り、牙を剥き出しにしながら襲いかかる。
本能が叫ぶ。
動け。
俺の体は、自然と剣を抜いていた。
右の剣が振るわれる。魔物の爪を弾き、その勢いのまま左の剣を走らせる。
**ズバッ!**
鮮血が飛ぶ。
魔物の体が裂け、動かなくなる。
「……ふぅ」
初めての実戦。しかし、体は迷わなかった。
むしろ、興奮している。
この戦いの感覚。剣を振るう悦び。
それが、じんわりと俺の奥底に広がっていくのを感じた。
「もっと、試してみるか——」
闇の奥へ。
俺はさらに一歩を踏み出した。
**ガルヴァンとの共闘**
闇の奥へ進む。
魔物の死骸を踏み越え、湿った岩壁に手をつきながら、俺はさらに深くへと足を進めていた。
空気が濃くなる。
まるで、洞窟そのものが俺を試すかのように。
「……この先、何が待っている?」
俺は剣の柄を握り直す。体が、戦いを求めるように疼いていた。その時、レクトは何かを感じた。
——気配。
次の瞬間、洞窟の奥から飛びかかってきたのは、巨大な狼だった。
「くっ……!」
瞬時に右の剣を振るい、飛びかかる牙を弾く。しかし、衝撃が重い。さっきの魔物とはまるで違う。
狼の背後から、さらに複数の影がうごめいている。
**囲まれた——!**
「へぇ、お前さん、一人でどこまでやれるか見てやろうと思ったが……思ったより楽しそうなことになってるじゃねぇか」
聞き覚えのある声。
背後を振り返ると、そこには鎧を纏った男——**ガルヴァン**が立っていた。
「……助太刀か?」
「馬鹿言え。俺はただ、狩りの時間を楽しみたいだけだ」
言葉とは裏腹に、彼の手には大剣が握られていた。
「そっちは頼んだ」
「言われなくてもな」
狼の群れが一斉に襲いかかる。
俺は右の剣で迎え撃ち、左の剣で反撃を繰り出す。ガルヴァンは大剣を振るい、豪快に魔物を叩き伏せる。
剣が舞う。血が飛ぶ。狼たちは次々と倒れていく。
**戦いの高揚が、俺たちを支配していく。**
最後の狼が地に伏した時、俺たちは互いに剣を納めた。
「……悪くねぇな、お前の剣」
「そっちこそ、大味かと思ったが、意外と繊細な動きもできるんだな」
「はっ……気に入ったぜ、レクト」
ガルヴァンは笑う。
この戦いで、俺たちは言葉以上の何かを理解し合った。
「さて、まだまだ奥が深いようだが……行くか?」
「当然だ」
俺は再び剣を握り、洞窟の奥へと向かった。
洞窟の静寂を切り裂く、剣と牙のぶつかる音。
血の匂いが混じる湿った空気の中、俺はガルヴァンの背中を見つめていた。
**——逞しい。**
鎧に包まれたその体は、まるで彫刻のように精緻だった。厚く鍛えられた胸板は、わずかに揺れるたびに漆黒の金属の光沢を帯びる。
大剣を握る腕は太く、それでいて無駄な力みはない。刃を振るうたびに、筋肉が滑らかに波打つ。
「チッ……なかなかしぶといな」
彼が息を吐くたびに、汗の香りが微かに混じる。獣じみた野性が、狭い洞窟の中に満ちていた。
**色気がある——。**
無骨な男の背に、確かに滲む色気。戦いの熱が、その存在をより際立たせていた。
俺は剣を構えながら、ちらりと彼の横顔を盗み見る。
鋭い眼光。獲物を狙う狼のような瞳。
汗が顎を伝い、鎖骨へと滑り落ちる。
喉が、渇く。
(……なんだ、これは)
奇妙な感覚だった。
戦いの興奮とは違う、別の熱が胸の奥にこみ上げてくる。
だが、今はそれを振り払うべきだ。
「ガルヴァン、左側を頼む」
「……ふっ、言われなくてもな」
彼は獰猛な笑みを浮かべ、再び大剣を振るった。
剣を振るう俺の視界の端に、ガルヴァンの逞しい腕がちらつく。
その動きは、獲物を狩る獣のようにしなやかで、そして圧倒的だった。
力強く、それでいて無駄がない。
(……美しい)
そう思った瞬間——
**ズッ——**
鋭い痛みが腕を貫いた。
「……ッ!」
モンスターの攻撃が俺の左腕をかすめ、鮮血が飛ぶ。深くはないが、じわじわと熱が滲むのが分かった。
「おい……何やってんだ?」
ガルヴァンが俺を睨む。鋭い眼差しに、俺は息を詰まらせた。
「……見とれてたか?」
低く響く声。
否定するべきなのに、口が動かない。
彼は俺の腕を乱暴に引き寄せ、傷口を覗き込んだ。
「……ポーションは?」
「ない」
「……は? まさか、持ってねぇのか?」
「……悪い、初めてなんだ」
ガルヴァンは呆れたようにため息をついた。
「俺も持ってねぇ。頑丈だから使う機会がねぇんだ」
「じゃあ、どうするんだ?」
「こうするしかねぇだろ」
そう言うや否や——
**彼の唇が、俺の傷口を覆った。**
「……ッ!」
ざらついた舌が、ゆっくりと傷口をなぞる。
熱い。
じわりと血が吸われ、彼の息が肌を撫でる。
「ん……少し沁みるか?」
俺の腕をしっかりと掴みながら、彼は確かめるように舌を動かす。
鼓動が早まる。
「……お前、何やってんだ」
「何って、止血だろ。お前、何も知らねぇのか?」
舌の先が、傷口を丁寧になぞる。
「何もねぇ時は、こうするのが普通だ」
普通。
……なのか?
「……これでしばらくは血は止まる。大した傷じゃねぇしな」
ガルヴァンは顔を上げ、俺を見下ろした。
汗が光る唇。
俺は息を呑み込んだ。
「行くぞ。これ以上、余計な怪我すんなよ」
いつものように淡々と、彼は剣を振るうため背を向ける。
だが、俺の心臓は、さっきからやけに騒がしかった。
階層が変わり、洞窟の空気も変わった。
視界の先、壁の裂け目から赤い光が漏れている。熱波が肌を打ち、息苦しさを感じさせる。
「……マグマ層か」
俺は汗を拭いながら呟いた。ここは初心者向けダンジョンのはず。それなのに、この階層は明らかに異常だ。
「おい、なんかおかしくねぇか?」
ガルヴァンが眉をひそめる。その額にも汗が滲み、鎧の隙間から逞しい筋肉が汗で光っていた。
(……駄目だ。こんな時に見とれてる場合じゃない)
俺は気を引き締めようとした。しかし、その矢先——
**——ドンッ!!**
地響き。
そして、目の前に現れたのは、圧倒的な威圧感を放つ巨体。
「……嘘だろ」
巨大な角、分厚い胸板。全身を覆うような猛牛の筋肉。
**ミノタウロス——!!**
本来、この階層には現れないはずの強敵。
「くそっ、どうなってやがる……!」
ガルヴァンが大剣を構える。しかし、次の瞬間、ミノタウロスの豪腕が大気を裂いた。
**ブオォン!!**
ガルヴァンが即座に剣を振るい防ごうとする——が、その軌道を読んだミノタウロスが巧みに腕を捻り、不可避の軌道へ変える。
「——ッ!」
間に合わない。
ガルヴァンの防御が崩れる。
「……チッ!」
迷いはなかった。
俺は即座に左の剣を捨て、右の剣を滑らせるように放ち、**ミノタウロスの拳をパリイ** した。
**ギィン!!**
衝撃が全身を駆け抜ける。
だが——
「……守ったか」
ガルヴァンが息を呑んで俺を見る。
「今の……お前の反応、速すぎだろ」
「考えてる暇なんてねぇよ」
俺は苦笑しながら剣を持ち直した。
だが、違和感がある。
胸の奥が熱い。
——違う。
これは、熱さのせいだけじゃない。
ガルヴァンの肌を伝う汗。いきり立つ野生の香り。
その全身を使って血管に酸素を運ぼうとするほどの荒い呼吸。
そして俺に向けられる友情とも、戦友とも取れる熱いまなざし。
こんなに——**魅力的に見えるなんて。**
「……ッ」
俺の内側で、何かが弾ける。
次の瞬間、脳内に強制的にメッセージが浮かび上がった。
**《二刀流スキル——「アブノーマルフィジカル」発動》**
「……は?」
俺の身体が、異常なほど軽くなった。
同時に、全身の神経が敏感になり、視界が研ぎ澄まされる。
**熱が、昂ぶりが、限界を超えて加速する。**
**解き放たれた異常肉体**
——熱い。
全身の血が沸騰するかのように滾っていた。
**ミノタウロスの巨体が視界に入る。**
だが、それがまるで鈍重な影のように見えた。
**——遅い。**
右手の剣が疾る。左手がそれを追う。
一閃、また一閃。
**ズバッ! ズババババッ!!**
肉が裂ける音。
ミノタウロスの分厚い筋肉が、まるで粘土細工のように裂け、飛び散る。
(……嘘だろ)
自分の腕が異常なまでに軽く、刃の軌跡が通常の倍——いや、それ以上の速度で刻まれていく。
ミノタウロスが叫ぶ間もなく、俺の剣が次々とその巨体を引き裂いた。
最後に、喉元を貫き、剣を払う。
**——ドサッ!**
地響きを立てて、巨体が崩れ落ちた。
勝った。
**だが……何だ、これは。**
「…………ッ」
俺の体が、まだ何かを求めるように疼いていた。
そして、その隣——
「……お、おい……今の、何だよ……」
ガルヴァンの声が震えていた。
普段は飄々としている男の表情が、目に見えて強張っている。
「……お前、なんだその力は?」
その声は、驚きと——恐怖を滲ませていた。
無理もない。
俺は今、常軌を逸していた。
「いや、分からねぇ……でも、これは……」
自分の手を見る。指が震えている。
違う、違うんだ。
俺は、こんなつもりじゃなかった。
だが、ガルヴァンの目は、俺をまるで別の何かを見るような色を帯びていた。
苦しい。スキルを発動したことじゃない。ガルヴァンのその畏怖の眼差しが俺には苦しく感じられた。
「……ッ、くそ……」
意識が揺れる。
熱が引かない。むしろ、体が焼けるように熱い。
次の瞬間、レクトは膝から崩れ落ちた。
**ガクンッ……!**
「お、おい!? レクト!!」
遠のく意識の中で、ガルヴァンの声が聞こえた。
重たい身体が、地面へと倒れ込んでいく——。
——冷たい。
意識がゆっくりと浮上していく。
次に目を開けたとき、俺は暗い水の中にいた。
**地底湖……?**
ぼんやりとした意識のまま、状況を整理する。確かに俺は、マグマ層で異常なまでに熱くなり、倒れたはずだ。
「……ガルヴァンか」
目を横へやると、そこにいたのはガルヴァンだった。
彼は水中で、俺を支えるように片腕を枕のように添え、俺が溺れないようにしている。
**肌が、直接触れている。**
水に浮かびながらも、確かに感じる男の熱。
「……お前、何やってんだよ」
俺の声に、ガルヴァンは目を開けた。
「起きたか。少しは冷えたか?」
「なんで……ここに?」
「お前、あのまま放ってたら熱で死ぬぞ。仕方なく運んできた」
「……それで?」
「そのままじゃ溺れるだろうが。ちゃんと支えてやってるんだぜ?」
彼の息遣いが、ゆるやかに俺の首筋をかすめる。
冷たい水と熱を帯びた体温のコントラストが、妙に心地よくて——
(……まずい、これは)
「……でも、服、脱がす必要はあったのか?」
「熱を逃がすには、これが一番だろ?」
ガルヴァンの声には一切の迷いがなかった。だが、俺の方が落ち着かない。
(汗で張りついていた服が、俺の肌を離れていった時……この男は、それをどう思っていたんだろうか?)
「……そろそろ上がるか」
「そうだな」
ガルヴァンが腕を引き、俺をゆっくり岸へと運ぶ。
**帰還**
洞窟を出る頃には、俺は完全にガルヴァンに背負われていた。
「歩けそうか?」
「……無理だ。少し休めば何とかなる」
「はぁ、仕方ねぇな」
ため息混じりの言葉とは裏腹に、彼の背中は広く、そして妙に安らぐ。
彼の体温が、俺の背中に伝わる。
水滴が滴る髪の隙間から、うなじにかかる吐息。
(……やばい、余計なことを考えるな)
そう思いながらも、俺の意識は否応なく、彼のぬくもりに引き寄せられていた。
ガルヴァンの背中に揺られながら、俺は静かにギルドの門へと運ばれていった。