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へんな怪談集

居眠り

作者: 夏野 篠虫

 人体を構成する部位の中で最も重たいのはどこだろうか。答えは簡単、一番上にあって一番大切な部位。意識、心、自我というヒトをヒトたらしめる全機能の根源たる脳……を守る硬質な頭蓋骨……を内包し眼球や耳鼻や咽喉を有する頭部の重量は役割の数に比例している。

 その大事な大事な頭を支える首の筋肉から緊張が解け筋骨を固める神経に信号がストップすれば、重い歪な球となって重力に任せるまま勢いよく地面を目指し倒れ込む。支えようとする意識も無意識も無くなれば、首は産まれたての赤子のような軟弱さを露呈する。




 大学の講義室の長机に額をぶつけて坂本は飛び起きた。ぶつけた鈍い音が空気と骨に伝わって耳に届いたが痛みはない。

 がらんどう。彼の視界の範囲には学生も講師もいなかった。講義のために座っていたはずだが目の前には解読不能のルーズリーフと読んだ記憶のないプリントが置いてあるだけだ。真面目さが唯一の取り柄と言っていい自分が居眠りをするほど寝不足だった、という自覚は彼になかった。なのでなぜ眠ってしまったのかいつから眠っていたのか考えたが思い出せない。浅い眠りの中で何か変な夢を見ていた気がした。夢の内容だけでも思い出さなければいけないと心に攻め立てられ、わずかな夢の記憶に繋がった細い細い糸を手繰り寄せ始めた……

「頭思いっきりぶつけたな。なんだ寝不足か?」

 背後からの声に驚き掴みかけたその糸は意識の届かないところまで引っ込んでしまった。講義室は無人ではなかった。

 声の主、通路を降りてきた森田は人の弱みを握れたとニヤついていたが大した弱みでは無いことには気づいていない。坂本と森田は幼なじみの腐れ縁で学内外を問わず共にいることが多い。

 軽薄そうに目を細めてからかい調子で森田は口を開き、

「お前おでこ、めっちゃ赤くなってるぞ」

「ほんと? 別に痛くはないんだけど――ていうか森田のおでこも赤くなってる」

「え、まじで? 俺もぜんっぜん痛くないけどなー」

 センター分けの額をぺたぺた触りながらおどけたように言う。かと思えば前ぶれなく声を張り上げ、

「ああ!それより早く行くぞ! 急いで行かないと!!」

「いやどこに行くんだ、よ……あ」

 森田に腕を引っ張られた瞬間、奈落の崖際でバランスを崩したように坂本の意識は際限なく落ちていく。もはや眠気というより気絶に近い。森田に呼びかけたい気持ちは消えてしまい五感も消失、思考すら停止してしまった。



 途端、上半身がバネ仕掛けのおもちゃのように跳ねて坂本は目覚めた。気を失っていたのは瞬く間もない刹那のような数年間におよぶ昏睡のような、時間の感覚は不確かだった。

 背筋の強張りを感じながら状況を確かめると、開放的な上体に比べ下半身は太腿(ふともも)の上に丸太のようなクッション付きの鋼鉄の棒が横たわり座席に固定させられていた。隣には同じ格好の森田がいた。

 いつの間にか遊園地のジェットコースターの先頭に乗っていた。ここは昔懐かしい、地元の子供なら一度は訪れる遊園地。二人も小学生時代には家族ぐるみでよく来ていた。平日は閑散とし、海風による施設の錆と相まってどうしようもなく寂寥(せきりょう)を掻き立てる。ちょうど一周走り終えたところらしい。コースターは発着場で停止している。坂本に乗っていた記憶は全くなかった。

「もっかい、もう一回乗ろうぜ!」

 興奮を隠そうともせず年不相応に騒ぐ森田。その額は先程よりはっきりと赤みを帯び黒っぽい血が滲んでいた。

「お、おい大丈夫か、それ」

「へ? なにが」

「おでこから血出てるぞ――あ」

 自分の額を触り指摘する坂本は己の指先に液体を感じ言葉を止めた。

 人差し指にはべったりと鉄っぽい臭いを放つ赤黒い血が着いていた。

 平気そうにしている森田とは対照的に坂本は違和感を覚えていた。痛みはないのに出血をしている。怪我をした記憶はない。居眠りでぶつけたのは確かに額だった。けれどその時はたんこぶにすらなっていなかったが時間差で出血したのだろうか……

「ああ……まぁ大丈夫だって。せっかく来てんだからさ、もっかい乗ろうぜ!」

 怪我を受け入れたのか、はたまた元々の性格故の無頓着か、森田は降りようとする坂本を半ば無理やりその場に留め、森田の意志と連動するかのようにコースターはそのまま二周目に向けて進み出した。

 心臓近くの神経を他人につつかれているような気味の悪い違和感を坂本はずっと感じていたが、何が原因なのかはわからなかった。

 発着場を出ると線路はすぐ右折しそこから角度をつけて登っていく。頂上で下りに転じるため下から見ると中空で途切れているように見える。

乗客は二人だけ。発着場は無人だった。地面を覗いても園内に人影はなく、太陽は遠方に連なった山の向こうへ隠れようとしている。風景は離れるほど和紙に垂らした薄墨のように不明瞭な滲みとなっていく。目をこすっても遠景はぼやけるばかり。

 太いベルトチェーンがコースターを上へ上へと巻き上げる音と振動のせいなのか、坂本の思考はまとまらない。気づいているはずの違和感から答えを導けない。

 ゆっくり時間をかけて頂上までやってきた。ガチガチという金属の悲鳴を聞きながら車両ごと体は前のめりになっていく。

 落ちそうで、まだ落ちない。

 騒がしかった森田が無口なことに気づき、ふと坂本は隣を見た。

 真横に彼の顔はなかった。森田は体を固定するバーに力なく頭から突っ伏していた。くの字のままピクリとも動かない。その姿を見た瞬間の既視感が坂本の心臓を一段と強く跳ねさせた。

 ――ついにコースターは落下した。轟音と自由落下による加速、加速、加速。塊となった空気が顔を覆い森田への心配を許さない。前に倒れようとする身体は重力に抗う下方からの負荷で押し上げられ、一瞬の浮遊を感じた直後、坂本は背もたれ背中と首に強い衝撃を受けた。

 痛みの反射で目を閉じ、次いで開いたときには負荷も風圧も端から幻だったかのようになくなっていた。講義室、遊園地、そしてここは――車の中。衝撃を受けるたびに場所と時間が飛んでいると坂本は気づく。しかも今度は上半身全体に骨の軋む激しい痛みがあった。

 帰路についたようで、車はとっぷり日の暮れた道路を静かに走っている。坂本は助手席に、運転は森田がしている。弱々しいハンドル握りで普通に運転できているものの表情筋は死んでいる。

 空咳が出て肋骨が軋む。喉が絞まり息は通りにくい。それでも義務を果たすように声をかけた。

「森田、だ、大丈夫か? 運転代わろうか?」

「……」

「さっきからずっと何かおかしくないか? 時間も場所も、なんで俺ら2人で遊園地なんか行ってるんだよ」

「……」

「おい聞こえてんのか?」

 返事はなくひたすら前方に視線を投げるばかりで森田は坂本を見ることもない。だがしかし、唇の隙間からぼそっと、

「……しぬ」

と一言だけ、気管支を無理に引き絞って出したような声が聞こえてきた。

「――は?」

 どういう意味だ、口から出る坂本の問いかけよりも先に真っ白な光がフロントガラスを突き抜けた。金属やガラスの破砕音や物と物が衝突した圧潰音(あっかいおん)が混交した爆音、車は急停止、エアバッグが飛び出し、狂った振り子のように上体を揺さぶる最大の衝撃が二人を襲った。ロボットのように意識のあるまま頭を体から取り外し稼働する洗濯機の中に放り込んだような天地のひっくり返る感覚を延々とリピートした。

 夢と現実の境はもはや曖昧になっていた。真か嘘か薄れゆく意識の中で坂本は森田と共に同じ事故を繰り返しているのではと、妙な既視感の答えを求めた。身体が前後に倒れる現象は眠気でもジェットコースターでもなく事故の衝撃を脳内でフラッシュバックし続けているだけなのだ。

 それに気づいたとき、坂本の消えかけた意識が浮かび上がってきた。暗闇に差す一筋の光明を目指し肉体は上昇していく。柔らかな温もりに包まれて苦痛が霧消する。ほのかに心配そうな家族や友人の声も聞こえてきた。

 助かった。永く短い悪夢から一命をとりとめ、坂本は救われた。

 純白の天井にすべやかなリネン。部屋に漂う消毒液の匂い。病院を象徴する少し嫌な部分にすら安堵を覚える。長く目を閉じていたせいかベッドの周りでがやがや騒ぐ人たちの姿が歪み崩れて見える。

 横を向けば見舞客たちの向こうにもう一つのベッド、掛け布団が膨らんでいる。森田だ。よかった、彼も助かったんだ。

 無事なのか確かめようと坂本は目を凝らす。人々の腰と腰の隙間から横たわる森田の顔に徐々にピントが合う。

 彼は坂本に顔を向けていた。土気色の肌に乾燥した血液がこびり付き白い歯と歯に挟まれた舌がだらりと垂れている。鼻は粉々に潰れて黒目は灰色に濁り輝きがない。常に口角が上がり軽口を飛ばす溌剌(はつらつ)とした若者はいなかった。初めて見た人も本能で分かる、明確な死体が寝ていた。

 覚めてない。これはまだ夢なんだ。だってまさか森田が死ぬなんてそんなわけない。絶対生きてる大丈夫。大丈夫だから大丈夫だってどうせドッキリか何かだろう。こういうとこ昔からやりすぎるんだよあいつ。だってさ森田が死んで俺だけ生きてるはずないじゃん。一緒に事故ったなら二人とも、俺も死んでるはずだしそしたらこれは現実じゃなくて夢に決まってる。大丈夫だぜったい大丈夫。いやもし俺も森田も死んでるならこれってもう夢でも現実でもなくて手遅れ……




 薄暮(はくぼ)から夜へと替わり周囲に赤色の回転灯がいくつも乱舞する。彼方でさらなる応援がけたたましくサイレンを鳴らしている。

 どこの部品かもわからない残骸を乗り越え、ガソリンに鉄分が混ざった刺激臭を掻き分けて救急隊員が車体の前方だった箇所に近づく。

「大丈夫ですかー! 意識はありますかー!?」

 形式上必要な質問を投げかけるが、足を挟まれた二人は仲良さげに同じ姿勢で倒れ込んだまま動かない。

「大丈夫ですかー!? ……駄目だ、早く車から取り出すぞ!」

「だい……ぶ」

「お、おい助手席の方生きてるぞ!」

「声聞こえますか! 大丈夫ですか!?」

 もう動かない肉体の代わりにぶくぶくと血が泡立つ口内で千切れかけの舌が繰り返し動く。

「じょ……だぶ……じゅぶ……だじょぶ……だい゛じょぶ……」

 そう言いながら夢で首を何度も何度も縦に振っていた。

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