第四話
ガシャンガシャンガシャンガシャン
突然屋敷内で荒れ狂いだした暴風が、屋敷内の窓ガラスを次々に割る。それと同時に、応接室から、この国の宰相と彼の護衛達が飛び出してきた。その顔面は、恐怖に歪み、色を無くしている。
騒ぎを聞きつけたグレイとシェリルが様子を見に行くと、唸り声を上げるダークを発見した。
「父上!」
グレイは、父であった存在が、人ならざるものへと变化していくさまを瞬きするのも忘れて見つめた。深い笑みをたたえる口角が、徐々に切れ上がり、真っ赤な血を流しながらシューシューという不気味な排気音を上げている。体に取り込まれた魔力が、ダークを内側から焼いているのだ。
「これは、一体なんなのよ!」
遅れて現れた愛人も、部屋の荒れ様に騒ぎ立てる。美しかった美貌も、完璧だったスタイルも、既に見る影もない。屋敷にある金目のものは、全てこの女が何処かへ持ち逃げしてしまっている。ここに現れたのも、最後のお宝を取りに来た為だ。
「止めてよ!ここにある絵は、買い手が付いているのよ!」
有名な画家によって描かれたグレイ公爵令嬢の姿絵は、好事家垂涎の一品だった。今のムーンと年の変わらぬ頃の少女が、額縁の中で優しい微笑みを浮かべていた。
「母上!逃げて!」
絵にしがみついて離れない母親に、グレイが叫んだ。彼は、どんなに相手にされなくとも、母のことを嫌いにはなれなかった。
「煩いのよ!アンタなんて産まなきゃ良かった!私は、私の人生を生きるのよ!」
彼女は、金目当ての取り巻きにチヤホヤされて、未だに自分を大女優だと思い込んでいる。ここを出て、再び舞台に戻ることを夢見ているが、金の切れ目が縁の切れ目だ。この絵を持っていかなければ、誰も相手してくれないのだろう。
呆然と母親を見るグレイに、シェリルの心もズキズキと痛んだ。
グレイの瞳から、涙がこぼれそうになった、その時、
「グレイ様、危ない!」
風に吹き上げられた椅子がグレイ目掛けて一直線に飛んできた。シェリルは、咄嗟にグレイを抱きしめる。
ガツン
グレイの目には、頭に直撃を受けたシェリルが倒れていくのが、コマ送りのようにゆっくりと見えた。
「シェリル!」
咄嗟に抱きしめたが、九歳の少年が二十二歳の女性を支えられるはずもない。倒木のように二人一緒に床に倒れ込むと、グレイは、必死に彼女の頭を抱え込んだ。
「グレイ様、逃げて」
「うるさい!黙って!」
彼は、必死だった。自分の心を救ってくれた彼女を死なせるわけにはいかない。
しかし、天井のシャンデリアが大きく左右に揺れ、いつ落ちてきてもおかしくない。父らしき存在は、咆哮を上げ、手当たり次第に物を投げている。
「くそ!くそ!くそ!なんで僕ばかり、こんな目に合うんだ!!!」
グレイは、自分の中に秘めた魔力を全開にした。ホワッと体から放たれた光が、自分とシェリルだけを包み込む。
『両親が、なんだ。シェリルだけ居ればいい』
グレイが無意識に張った結界は、ダークが放ち続ける魔法も、飛んでくる家具も、全てを弾き飛ばした。中には、絵を抱えた母親も混じっていたが、気付かず吹っ飛ばした。
たとえ、分かっていたとしても、結界内に入れてやる気など更々ない。
グズグズに泣きながら、グレイは、時が過ぎるのを待った。そうして、物音が聞こえなくなった頃に、シェリルが、彼の背中を撫でた。
「グレイ様、もう、旦那様は何処かへ行かれました」
そして、母だったものは、血痕以外残っていなかった。
しかし、シェリルは、決して口にしない。どんなに毒親でも、グレイにとっては、血の繋がった親なのだ。死を喜ぶようなことはしたくなかった。
グレイは、全てが終わったのだと知っていた。それでも、シェリルを手放せなかった。
仕方がないので、シェリルは、その両手で彼を抱きしめ続けるしかなかった。
この騒動があって、公爵家は、人が住めるような場所ではなくなってしまった。シェリル以外の使用人が残っていなかった為、グレイが頼れるのは、彼女だけだった。
「グレイ様」
「グレイでいいよ。だって、もう、そんな上下関係ないでしょ?それどころか、僕は、君のお荷物だよ」
屋敷を去る日、納屋に置かれていた荷馬車に載せられたのは、シルバー公爵家が代々残してきた貴重な文献だ。金庫並みに頑丈な図書室によって守られていたものだが、置き去りにすることも出来ず、持っていくことにした。
「グレイには、これから、魔法学園に入ってもらいます」
「え?お金なんてないよ」
「特待生制度があります」
シェリルには、算段があった。自分を守ってくれた時、グレイの放った魔力は、あの暴走していたダークすら上回っていたのだ。でなければ、あの攻撃を防げるはずはない。
「そんな、簡単にはいかないよ」
「無理でもやるしかないのです。いつか、『呪われた森』に行って、妹に会いたいならば」
グレイは、俯いていた顔を上げた。自分を見下ろすシェリルの目が、真剣にこちらを見つめている。
「それに、この本は、公爵家の物です。必ず、お返ししないと」
「あ……そうだよね。うん、そうだ。僕は、彼女に会わなきゃ」
もう、血の繋がった家族は、妹しかいない。そして、心の繋がったシェリルが、そばで自分を見守ってくれている。ギュッと拳を握ったグレイは、前を向いた。何年かかろうとも、必ず成し遂げると心に誓って。
ウォーウォーウォーウォー
ここ数日、『呪われた森』が、一匹の魔物の出現で荒れていた。その魔物は、奇妙なことに、人間の服を着ていた。雄叫びを上げ、四足で駆け回り、人だろうが獣だろうが、魔物だろうが、見境なく襲う。無尽蔵の魔力で四方八方へと火炎魔法を放ち、森を焼く様は、狂っているとしか言いようがない。
「ラー、だっこ」
異様な気配に、ムーンは、ランバルトにしがみついて離れない。
「ムーン、俺がやっつけてくるから、離れなさい」
「や!ムー、ラーといっしょ!」
引き離されないようムーンは、ランバルトの背後に回り、首に両手を掛けた。その背中には、ピピも縛り付けられている。
「はぁ……仕方ない」
ランバルトは、パチンと指を鳴らした。すると、雨雲がモクモクと空に広がり、雨が降ってきた。森に広がる前に、これで鎮火出来るとよいのだが。
次に、ワームワームに指示を出す。
「ヤッてこい」
雑な命令だが、的確な命令でもある。地面を司る彼らなら、燃やされることなく地下に潜って接近することが可能だ。
「(ムーンに)気づかれるな」
言われずとも、彼らが証拠など残すはずもない。今までだって、ムーンの薬草畑で『叫び草』を育てる為に、ちょくちょく死体の調達はしていたのだ。
『今回も、活きが良い死体を見事手に入れてみせましょう』
とでも言いたげなワームワームは、気合を入れてニョロニョロと地面に潜り、出ていった。
その颯爽とした出陣風景が羨ましかったのか、さっきまで怖がっていたムーンが、ピョンとランバルトの背中から飛び降りた。
「ラー」
「ん?」
「ムーも、する」
「なにを?」
「エイ、ヤー」
ピョンとランバルトから飛び降りたムーンは、近くにあった枝を拾い、剣の真似事をした。ランバルトが話して聞かせた冒険譚が気に入っているようだ。
「ムーン、お前は、女のコだぞ」
「ムーは、ムー!」
ランバルトが自分と違うことは理解しているが、幼いムーンに性別を語ることは無意味だ。
しかも、剣を振り回すのは、老若男女誰しもがワクワクするものだ。何でもやりたいムーンには、女のコだからと色々制約を設けるのは間違っているのかもしれない。
「ムーも!ムーも!ムーも!」
ジタジタジタジタジタジタ
足踏みをするたびに、土埃と共に、彼女の魔力が金色の粉のように舞う。すると、それに惹きつけられるように、羽の生えた小さな妖精が結界の隙間をぬって入ってきた。彼らは、好き嫌いの激しいイタズラ好きな精神体で、時々、人間を森に誘い込み迷わせては、死ぬまで観察する残忍さも秘めている。
「シッシッ」
ランバルトが虫を追い払うように手を振ると、指先から放たれた魔力で妖精達が結界の外に飛ばされた。
ヴィーーーーー!
耳障りな羽音が、怒りの代弁なのだと見ていても分かるが、ランバルトは、取り合うつもりはない。サッと結界を強固にかけ直すと、妖精達が二度と入れないようにした。
「ラー、こわぃの、メょ!(ランバルト、怖いのは、メッよ)」
深くシワの寄った眉間をムーンに指さされ、ランバルトは、人差し指と親指でおでこのあたりをモミモミと揉んだ。
「しゅわるのょ!(座るのよ!)」
ムーンに命令されたら、ランバルトは、座るしかない。地面に腰を下ろし、足を前に伸ばすとムーンがその上に乗ってきた。
そして、背伸びをして、ランバルトの眉間を小さな手でマッサージする。
「こわいの、めめよ(恐いのは、駄目よ)」
ムーンは、時々、ママがしてくれていたように、ランバルトを世話したがることがある。こういう時は、甘んじて受け入れるに限る。
それに、ムーンが、すっかり冒険ごっこをするのを忘れたのは、好都合だ。
「ごめんちゃいは?(御免なさいは?)」
「ごめん、ごめん」
ムーンをそーっと抱きしめた。この小さな存在を、害する者が居れば、理由の如何を問わず殲滅させる。世界が敵に回れば、世界を滅ぼす。
ただ、彼女さえ幸せなら、人間が生きることくらい許してやらないこともない。ランバルトが幸せを噛みしめているうちは、この世は、平和なのかもしれない。
その頃、命令を受けたワームワームは、地面を沼地に変えて、暴れ狂う魔物を捕らえていた。
「……は、どこだ!……は、どこだ!」
この得体のしれない魔物は、人の言語まで話した。何者かを探しているようで、必死にあたりを見回している。暴れる力も強く、泥沼の拘束から抜け出しそうだ。
しかも、
ヴィーーーーーー
薄暗い森から突然現れた金色の羽虫が、クルクルと先頭するように魔物の鼻先を飛んでいる。どうやら、ランバルトに排除された腹いせに、妖精達が、魔物をランバルト達の住処に先導しようとしているようだ。
「そっち……なのか?」
一歩、二歩、三歩。重い足取りで、
光を追う。一旦沼を抜け出すと、魔物は四本脚で地を駆けだした。
ガサガサガサガサ
草むらを掻い潜り、命からがら泥沼から逃れた魔物は、パッと開けた視界に立ち止まった。目の前には、この地獄に不釣り合いな人家があった。決して、豪邸などではない。
しかし、大きなドーム状の平家建てで、窓から煮炊きの良い香りがしていた。茂みに身を潜めて中を窺っていると、目の前を人影が横切っていった。それは、1人の美しい少女だった。
魔石の驚異的な魔力に翻弄され、自我を失いそうな彼の脳裏に、よく似た少女の姿が浮かんだ。
銀髪に、白い肌。透明度の高い秘宝のような瞳。
「ル………ル、ここに、居たのか」
名前はすべて思い出すことが出来なかった。
しかし、彼女が家族に呼ばれていた愛称が口から出た。物干し台まで行くと、一枚の布を取り出して竿に掛け、
パンパンパン
小さな手で、一生懸命布を叩いて皺を伸ばしている。時折、ウンウン頷き、鼻歌まで歌い出した。この森の凄惨な状況とはかけ離れた夢のような光景に、元ダークだった魔物は、息をするのを忘れて見つめた。
まつ毛は、伏せると顔に影をつけるほど長く、月光のような淡い輝きの髪は、風が吹くたびにフワフワと揺れた。もう少し成長すれば、傾国の美女と呼ばれてもおかしくない美しさ。
もし、もっと早く妻の貴重さと美しさに気づいていれば、彼の人生は、全く違うものになっていただろう。
「あ……」
ダークは、少女の着るドレスから目が離せなかった。何故なら、森に捨てた妻が着ていた物に、そっくりだったからだ。
破れた部分に布を足し、綺麗に繕い直したのは、ランバルトだ。ただでさえ物資の少ない森で、少しでもムーンを可愛くしてあげたい彼の気持ちが込められていた。捨てた者と拾った者の明暗が、くっきりと浮き彫りになった瞬間だった。
もう、殆ど人間としての意識を失ったダークだが、茂みから立ち上がると、吸い寄せられるように少女に向かって歩いた。
ドン
触れるよりも前に、見えない壁に阻まれる。
ドン、ドン
強く叩いても、ビクともしない。ただ、打撃音に気付いた少女がこちらを向いた。
不思議そうに小首を傾げて、ジーーーッとこちらを見つめてくる。視線があったような気がした。
しかし、壁の此方側は、彼女の目には映っていないらしく、再び洗濯を干し始めた。
ダークは、この少女が、自分の娘かどうかなど、どうでも良くなっていた。
『あの子が欲しい』
それだけが頭の中を占め、他のことを考えられない。爪がもげ、血みどろになっている指を壁に押し付け魔力で壁を破ろうと試みる。
しかし、
ガブリ
突然、歯の鋭い何かに噛みつかれ、ダークは、悲鳴を上げた。彼の足には、無数のワームワームが取り付いていた。
足から這い上がった魔物は、服の隙間から中に入り込み、柔らかな部分にも噛み付いていく。
逃れようと地面を転げ回ったが、食らいついたワームワームは、反撃を喰らう程に分裂し、数を増やしていく。
「あぁ、こんな近くにまで入り込んでいたのか。お前たち、お手柄だな」
エプロン姿のランバルトは、地面に転がる人間らしき物を見下ろして笑った。
「俺は、晩御飯の用意で忙しい。そっちは、頼んだぞ」
既に肉塊と化したダークをランバルトは、見ていない。彼の視線の先にあるのは、金色に輝く妖精達だ。
「お前ら、随分と調子に乗ってくれたな」
ランバルトは、一番近くにいた羽虫を素手で掴んだ。そして、徐ろに羽をもいだ。
「ぎゃーーーーー」
断末魔を上げて、その妖精は消えた。それを見た他の妖精達は、我先に逃げようとするが、
「ふっーーーー」
ランバルトが息を吐きかけただけで、次々と消えていく。元々は、実体を持たない精神体だ。その点、神と似通っている。だが、圧倒的強者である竜に睨まれれば、この世に存在すら出来ない弱い立場でもある。
「ったく、ムーンは、変なのを良く引き寄せる。困った子だ」
愚痴りながらも、『我が子最高』と思っている黒竜ママは、ありとあらゆるものからモテモテの娘を内心自慢げに思っている。
汚れた手を水魔法で綺麗に洗い風魔法で乾かすと、台所へと戻っていった。彼には、今晩のご飯を作るという使命が残っているのだ。
結界内に戻ると、ランバルトを探して回っていたムーンが真っ赤な顔をして走ってきた
「ラー!あにょね、あっち、あっち(ランバルト、あのね、あっちあっち)」
ムーンは、ランバルトの手を取ると、先程変な音のした所へと連れて行った。
「ここにゃの(ここなの)!」
指さした場所には、何も居ない。
ただ、さっきまで生えていなかった叫び草がミィ〜ミィ〜と鳴きながらユラユラと揺れているだけだった。
「ドンドンドン!」
ムーンは納得がいかず、ドアを叩くようにランバルトを叩いて様子を伝えようと必死だ。
しかし、ランバルトは、ムーンの頭を撫でて、
「ムーン、そんなことより、洗濯物の後は、書き取りをする約束だっただろ?」
と聞いた。
「はぅっ!」
痛いところを突かれ、ムーンは、胸を押さえた。最近のランバルトは、ムーンに読み書きを教えようと躍起になっている。
ことの始まりは、ムーンの母が残した書籍や日記を見つけたことだった。
そこには、残して逝かなければならない母親の切ない思いと、立派に育って欲しいという思いが詰まっていた。
しかし、ランバルトが書き取りや音読をさせようとすると、ムーンは、口をへの字にしてしまう。
「むじゅかしぃ(難しい)、やー(嫌っ)」
「なら、俺が、本を読んでやる」
「うほっ!ラー、だいしゅき!(大好き)」
「現金な奴め」
ムーンは、読み聞かせしてもらうのが大好きだ。ランバルトのお膝に乗って、優しい声で物語を語ってもらい、うつらうつら眠るのだ。眠る前提なの
が、ランバルトと相容れないところではあるが。
ムーンは、ピョンと飛び跳ねると、一目散に家に向かって走り出した。その後ろから大股で近づいたランバルトは、ヒョイッとムーンを腕に抱き上げて高い高いをする。
「きゃーーーーー!」
両手両足をピーンと伸ばして、ムーンは、歓喜の声を上げた。この時点で、ランバルトも、すっかり晩御飯の準備を忘れている。結局、忘れっぽさでは似た者同士の二人だった。
その後、『黒竜騒乱』と呼ばれる出来事は、思いもよらない最後を迎えた。
永遠の命を得ると言われる黒竜の肉を巡って各国が『呪われた森』に投入した戦力は、その全てが森に喰われたのだ。
その表現がもっともしっくりくる程、誰も帰ってこなかった。ロイスハルク王国は、国境線の戦いに破れ、多くの貴族が離反したことで存在自体が消滅。西側の結界石が一部破損により、市街地の方は魔物が徘徊し、市民達も他国へと流失した。
そのお陰と言うべきか、ムーン達の生活は、至って平和だ。未だに、パンは七つ配られているし、一人で取りに行ってもランバルトに怒られないのだ。
それは、ここ数年でムーンの力が飛躍的に伸びたことと、ランバルトが完全に森を掌握したことも意味する。
ランバルトがムーンに愛情をそそぐほど、愛を糧とするムーンの『月の女神の愛し子』の力が上昇。その力が、ランバルトの力を底上げする。グルグルと回る恐ろしい永久機関の出来上がりだ。
二人によって作り変えられた『呪われた森』は、楽園と言ってもいい。
そこには、もう、誰も訪れることなどないと思っていたのだが、少し奇妙な訪問者が現れた。
「先ずは、コレを直さないと」
「グレイ、無理はしないでね」
「一応、僕、学園始まって以来の天才って呼ばれてるんだけど」
「私にとっては、お子ちゃまです。心配は当然です」
西の結界石を見上げるのは、十三歳になったグレイと二十六歳になったシェリルだ。
「やっと、妹に会える」
「先ずは、シルバー公爵家の者として、結界石を直すのが先です」
シルバー公爵家が崩壊した後、シェリルはグレイを世界一の魔法学校へ入学させるべく他国へと渡った。生活費は、自分が働いて捻出し、学費は、グレイが特待生となったことで無償で済んだ。それでも、金は、かかる。グレイが捻り出した答えは、飛び級だ。
「まさか、四年でここに帰ってこられるとは、思いもよりませんでした」
感慨深げなシェリルの横で、グレイは、サクサク修復作業を行っている。シルバー公爵家に残された貴重な書物は、今では、グレイの頭の中にすべて記憶されている。結界石に刻む言葉も、それに使われる魔力放出法も、諳んじることすら出来るほどに。
父親が魔物と化したあの日、グレイは、いつの日か妹に逢う時は、全てを元の状態に戻してから返そうと思っていた。
残念ながらシルバー公爵家だけでなく、ロイスハルク王国自体がなくなってしまった。だから、せめて公爵家が長い年月の間行ってきた結界石の修復だけでも自分の手で行っておきたかった。せめてもの、罪滅ぼしのつもりで。
ただ、『呪われた森』を目の前にし、少し気持ちが高揚しすぎていたのかもしれない。修復作業に集中し過ぎるあまり、周りを見れていなかった。
「グレイ!」
シェリルの叫び声が聞こえた瞬間、喉笛に大きな牙が食い込んでいた。それは、ワーウルフ。人型の狼で、魔物の中でも人肉を好んで食べることで有名だ。
そんなどうでもよい情報が、一瞬頭に浮かんだ。グレイは、逃げるどころか、ワーウルフを抱きかかえる。
「シェ…リル、逃げて」
血の匂いを嗅ぎ取り、もっと多くの魔物が集まってくるだろう。自分を喰らう間に、シェリルが逃げてくれれば。そんな思いは、彼女に充分伝わっていた。
しかし、それに応えるような女ではない。
「離せ!あっち、行け!」
シェリルは、荷馬車から洗濯物を干す長い棒を掴みだすと、ブンブン振り回した。
ゴン
たまたま棒先が、ワーウルフの頭を殴る。
ガルルルルルル
目標をシェリルに変えた魔物は、血まみれの口を大きく開けて、シェリルに襲いかかろうとした。
「ば……か」
霞む視界に映る彼女を見つめ、グレイは、何処までも熱血で純粋で優しいシェリルが逃げ延びてくれることだけを願った。
「コラ、ムーン、待ちなさい!」
「ラー、こっち!」
突然走り始めたムーンに、ランバルトは、慌てて後を追う。
今日は、たまたま森の西側にある湖に泳ぎに来ていた。パンツと半袖の上着を水着代わりにしてスイスイ泳いでいたムーンが、何かを感じて飛び出していったのだ。
湖で取った魚をさばいていたランバルトは、一瞬気づくのが遅れた。追いついたころには、ムーンが、
「エイ、ヤ~」
と、憧れの冒険譚よろしく、 ワーウルフの頭をキックで粉砕していた。
「あーーーーー、遅かったか」
血まみれで胸を張るムーンに、ランバルトは、ため息をつく。
「ムーン、早く湖に帰って水浴びをしなさい」
「でも、ラー、アレ」
ムーンが指さした先に、喉から血を流す少年と傷口を必死に布で押さえる女がいた。
しかし、ムーンが気になるのは、この光景ではなく、女が首から下げているネックレスだった。
「ムーと、いっしょ」
赤い小さな石がついた首飾りは、ムーンがママからもらった宝物だ。共鳴するように2つのペンダントがいつも以上に輝いていた。同じ物を首から下げる女に、ムーンは興味津々だった。
「なるほど」
ランバルトは、前々から、この赤い石が発する微量な魔力に気付いていた。これは、血を固めて作る人工魔石で、ムーンの母親以外のオーラも感じていた。どうやら、今、目の前にいる女が、あの石のもう一人の製作者らしい。
「おい、女、その首から下げた石を作ったのはお前か?」
突然現れ、ワーウルフを蹴り殺した少女にも驚いたが、身長二メートルはある魔族に話しかけられ、シェリルは、ガタガタ震えている。それでも、グレイの傷口を押さえる手は緩めない。このまま血が流れ続ければ、出血死してしまうだろう。
「は、はい。その……お嬢様と二人で作りました」
嘘を言えば、殺される。そんな殺気に、声がうわずる。怖い。逃げたい。叫びたい。
しかし、今は、グレイを助けるほうが先だ。
「お、お願いです。この子を助けてください……」
頭を下げると、少女がトコトコとこちらに歩いて来て、両手を広げてグレイの身体の上にかざした。何をするのか身構えていると、
「やめなさい。お前の治癒魔法は、強力すぎて人間には不向きだ。叫び草を取って来なさい」
と魔族が少女を止めた。治癒魔法と聞いて、シェリルは、改めて少女を見た。銀髪の髪に、お嬢様に似た面影。
「あーい」
元気に返事をして去っていく姿は、幼き日にともに遊んだ大切な人と重なる。
「お嬢様!」
思わず叫んでしまったが、彼女が振り返ることはない。それならば、可能性は一つ。
「あぁ、やはり生きていらっしゃったのですね、ムーン様」
その言葉に、魔族が反応する。
「お前、ムーンを知っているのか?」
「はい、ムーン様のお母様とは、乳姉妹でございました」
その返答に満足したのか、魔族から発せられていた殺気が収まった。
「ラー、コレー」
少女が持ってきたのは、その昔、公爵家の図書館で、怖いもの見たさで読んだ植物図鑑に載っていたものだ。
ギョェ〜ギョェ〜
断末魔をあげる草は、食べることさえ出来たら死にかけの者すら生き返らせるという『叫び草』だ。
「ホイ!」
少女が、グレイの身体の上に置くと、更に、
ギョェ〜ギョェ〜ギョェ〜
と叫び声を上げる。
シェリルは、怖くて仕方なかった。
でも、コレを、グレイに食べさせないと、このままでは死んでしまう。覚悟を決めた彼女は、叫び草を手に持つと自分の口に運んだ。
「うぇっ」
血のような、腐った肉のような味がする。それでも、なんとか噛み砕き、グレイの口へと流し込む。
「おぇっ」
微かに意識を保っていたグレイも、咄嗟に吐き出そうとしたが、
「飲み込みなさい!」
シェリルの一喝で、なんとか飲み込んだ。
しかし、それが最後の一撃となり意識を飛ばす。
「まぁ、それで死ぬことはあるまい」
魔族は、そう言うと、グレイを小脇に抱えた。
「付いてこい」
「は、はい」
グレイを人質に取られ、シェリルは、逆らうことは出来ない。それに、魔族の横で楽しそうに笑う血塗れの幼女は、お嬢様の娘で間違いない。
「た、助けて下さって、ありがとうございました」
シェリルは、色んな意味を込めて、深々と頭を下げた。
ムーンは、初めて見るママ以外の人間に興味津々だ。しかも、一人は、自分と同じネックレスをしている。難しいことが分からない彼女の代わりに、ランバルトが、これまでの経緯を聞いてくれている。
「なるほど、人間とは、短い命の割に、波乱万丈な営みを過ごしているのだな」
竜にとっては、瞬きする程の時間。そこに愛、憎しみ、感謝、憤怒、様々な感情全てを詰め込む人間の業のようなものに感心した。
「まぁ、そのお陰でムーンと出会えたのだから」
すべてを許し、優しい微笑みをムーンに向けるランバルトを見て、シェリルは、感動に震えた。想像も及ばない広い心は、矮小な人間では計り知れない。
ただ、彼女は、勘違いしている。ランバルトは、ムーン以外どうでもいいのだ。
「ムーン」
「あぃ」
「こっちが、お前のママの友達で、あっちが、お前の兄だ」
なんとも雑な紹介に一抹の不安を感じたシェリルだが、ムーンは、頬をピンクに染めて、
「ともだち!あに!」
と叫んだ。最近読んだ本に乗っていたのだ。今日、書き取りもやった。
「ともだちー」
ランバルトとの暮らしで、少し滑舌が良くなってきたムーンは、シェリルの隣まで来ると、キューッと腰のあたりに抱きついた。
「ム、ムーン様、いけません、そのような無作法をなさっては!」
元公爵家のメイドとしては、シルバー公爵家の血筋を引く彼女が、令嬢らしからぬ行いをすることを許せない。感動の再会のはずが、小言を言う祖母と孫のようになってしまう。
「あに〜。ともだち、こわい」
不安げな表情で見上げられ、グレイの庇護欲が爆発する。まさか、兄と呼ばれる日が来るとは。
感涙に咽ぶグレイに、ムーンは、困惑した表情を浮かべる。『あに』と言う名前だと思っていたのに、違ったのか?そんな不安で、ランバルトの元に戻り、足にしがみつく。
「ムー、まちがえた?」
「気にするな。大したことじゃない」
なんともチグハグに絡み合う四人だが、そこには、何とも言えない温かな空気が流れていた。
その後、ランバルトが作った夕食を皆で囲んだ。こんな森の奥深くなのに、とても滋味深い味わいがした。調味料は、ワームワームが探し出してきた地下に眠る岩塩と、森で取れた香草を使っている。
「美味しいです」
思わず漏れたシェリルの言葉に、ランバルトも満足そうだ。その横で、器用にナイフとフォークを使ってお上品に食べいた。それにひきかえ、ムーンは、手づかみでガツガツ食べている。
その様子を見たシェリルは、深刻な顔をランバルトに向けた。
「あの…ランバルト様、ムーン様の教育はどなたが?」
「俺だ」
「このようなことを申し上げるのは、心苦しいのですが……今のムーン様は、犬猫のようです」
「はぁ?」
「ランバルト様は、ムーン様をペットにでもなさりたいのでしょうか?」
一瞬カッとなったランバルトだが、ペットと言われ、踏みとどまる。実は、近頃どうムーンを育てるべきか悩んでいたのだ。未だに、どこにいても服を脱いでしまうし、今日のように魔物を蹴り飛ばして成敗することもある。
「お前なら、ちゃんと躾が出来るとでも?」
「いえ、そうは言っておりません。ただ、女性特有の身体的特徴も今後出てくるでしょう。その時、お困りになるのではないかと…」
一般的な子供と比べムーンの体はかなり小さいが、十三歳のグレイと3つ違うなら、今年10歳になっているはずだ。あと数年もすれば、初潮も迎えるだろう。
意図を読み取ったランバルトは、気まずげにスプーンでスープをグルグルかき混ぜながら、
「それは、まだまだ先の話だ。ここは、外と比べて時の流れがゆっくりだからな」
と返事をした。
想像していた答えと違い、シェリルは、グレイと視線を交わした。彼も意味が分からないようで、軽く首を左右に振る。
「それは、どのような意味でしょうか?」
「ここでは、人間は大きくなるのに3倍時間がかかる。3年経っても一つしか歳を取らない。だから、ムーンとの時間も3倍過ごせる」
悪戯が見つかった子供のようにバツの悪い顔をするランバルトに、シェリルは、呆れ返るしかなかった。
つづく
あけましておめでとうございます。
今年も、よろしくお願いいたします。