第三話
瀕死の黒龍が、『呪われた森』に落下した。
「何?それは、本当なのか?」
自国に不死の妙薬とも言える黒竜が、棚ぼた的に落ちてきたと聞いたロイスハルク王国のピールロワ王は、玉座から腰を浮かせ、前のめりになった。その表情は、興奮で真っ赤に染まっている。
「撃ち落としたのは、どこの国だ!」
「我が国と西の国境を接している、ブルワルドーです」
ロイスハルク王国と違い、魔力持ちの出生率が低いブルワルドー王国は、その不利な点を逆手に取り、急激な文明的発展を遂げた国である。見たこともない武器を開発し、徐々に周辺国にまで手を伸ばしている。無論、ロイスハルク王国との仲は最悪で、常に国境を挟んで睨み合っている。
「ははははは、ブルワルドーも偶には良いことをする」
黒龍は、魔法耐性が高く、ロイスハルク王国では、捕獲することは難しいと言われてきた。それを、他国民が簡単には足を踏み入れられない魔の領域に撃ち落としてくれた。それを、感謝せずしてなんとする。
「魔法騎士団を『呪われた森』に派遣しろ!」
「それなのですが……」
口籠る宰相に、ピールロワの眉が不審げに上がる。
「総隊長であられた、ダーク・シルバー殿が……」
「あぁ……」
ピールロワの口が不機嫌に歪む。
「あの馬鹿か」
彼自身も、王として後宮を持ち、何人もの女を侍らしている。今更純愛を説くような真面目さなど、端から持ち合わせてなどいない。
だが、王命として、この国一の魔力量を誇る男とシルバー公爵家の娘を縁付けることは、何百年続けられてきた歴史そのもの。それを違えるとは、思いもよらなかった。
「既に魔力は殆ど底をつき、戦闘に耐えうる力は持ち合わせておりません」
「うむ、しかし、奴ほど魔法を扱える者もおらん」
本来なら、公爵家簒奪を目論んだ時点で、死刑が確定する。
しかし、ダークの張る結界は、物理、魔法、全てを跳ね返す力があった。しかも、攻撃魔法にも長け、魔力操作も卓越していた。ムーン達を捨てるまでは、人の十倍ある魔力が、更に倍以上に嵩上げされていたのだ。神にも近い力を持っていたのだろう。
そんな彼も、妻子を森に捨てて以来、徐々に力を失い始めた。ダーク本人も、やっと事の重要さに気づいたが、時既に遅し。妻を取り戻そうと『呪われた森』に向かったが、力の弱まった魔法障壁では、入口付近ですら攻略できなかった。
今回、『呪われた森』で黒竜の遺体を捜索するのに、軍全体に結界を張る必要があり、魔導師は、必要不可欠な人員だ。魔力さえ戻れば、ダークは、適任者と言える。
「分かった。魔石の使用を許可する」
「王、それは、国宝でございます」
「永遠の力を手に入れるなら、それくらい安いものだ」
大したことではないと言いたげに右手を軽く振るピールロワに、宰相は、
『この暗愚め』
と心の中で毒づいた。
魔石は、膨大な魔力を自然発生させる石だ。特に王国保有の魔石は、竜の腹の中から見つかったという伝説が残っている。その底の知れぬ無尽蔵な魔力は、逆に人の体を壊すことから、何重にも結界が張られて宝物庫の奥深くに封印されていた。いくら、ダークが天性の魔法操作能力を持っていたとしても、扱い切れる代物ではない。
もし、進軍中にダークが死ぬようなことが起きれば、全滅必至だろう。
『私達の努力も水の泡か』
宰相は、魔法至上主義のロイスハルク王国に、暗雲が立ち込め始めていることに気づいていた。巷では、資質のある子供の誘拐事件が多発している。実子に魔力がない場合、知らぬ間に全く顔の違う子供と入れ替わっているケースも珍しくない。
『魔力、魔力、魔力!そんなに、魔力が偉いのか!』
喉まで出かかった言葉を辛うじて飲み込む。シルバー公爵家の一人娘が、婚姻と同時にダークと結ばされたのは夫婦の縁ではなく、隷属にも等しい血の契約だった。国一番の魔力量を誇る者をシルバー公爵家の『月の女神の愛し子』と縁付けることは、確かに今までも行われてきた。
しかし、そこには互いを尊重しあえる関係が結べるよう、長い婚約期間を設けてきたはずだ。今回のような王命などという力技で、幼気な少女の人生を変えるなどあってはならないことなのだ。
宰相は、秘密裏に、意を同じくする者を集めている。この極端に魔力に傾倒するロイスハルク王国を、どうにか軌道修正させねばならない。
だが、目の前の王は、醜悪な顔で叫んだ。
「早く、我の眼の前に、黒竜の肉を持ってこい!」
永遠の命を得られると興奮するピールロワは、全ての戦力を『呪われた森』へ向けることを決定した。
だが、そんな美味しい噂は、あっという間に全世界に広まる。各国の王族は、こぞって軍を森に派遣することにした。まさに、『呪われた森』を奪い合う、全世界大戦の勃発だ。
たとえ屍肉となっていようと、永年の命を得られるならば、躊躇なく喰らう。権力に縋る愚か者の考えそうな事だ。森を目指す兵達は、砂糖に群がる蟻のように見えた。
「ラー、どんどん」
ムーンが、西の方を指さして不思議そうな顔をする。連日、ロイスハルク王国へ侵入を試みるブルワルドー王国が、巨大な砲弾を国境沿いでぶっ放しているのだ。
「気にするな、誰かが太鼓を叩いて踊っているんだろう」
「たぃこ?」
「そうだ。こんな風に」
近くにあった桶を、ランバルトがトントンと手で叩いた。
「おぉ!たぃこ!」
ムーンは、ランバルトから桶を奪うと、小さな手でトントンと叩いて音を出した。それに釣られてワームワームも踊りだす。
トントトントトントトン
少しリズムを変えながら、ムーン自身も足踏みをする。その度に、土の中からフワフワと金の光が舞い上がる。どうやら、土を耕すワームワームの力をムーンが底上げしているらしい。フカフカになった土は、益々植物を育て、以前よりも更に大きな実を付けることだろう。数十キロ先で行われる戦争など関係ない。ムーン達は、幸せな一時を過ごしていた。
ロイスハルク王国は、国境沿いに現れた他国軍との攻防が忙しく、なかなか魔法騎士団の出陣の準備ができない。
その間にも、密裏にロイスハルク王国へ潜入を果たした密偵や、金持ちに雇われた冒険者達が、次々に森に吸い込まれていった。
「ギャーーーー」
森に響く悲鳴を聞きつつ、ランバルトは、優雅に散歩をする。勿論、ムーンは、連れて歩かない。彼女は、ランバルトが食い荒らしてしまった畑をワームワーム達と一緒に手入れし直している。
「今日の晩御飯は、鹿肉にでもするか。あと、ムーンは、果物も好きだからなぁ」
市場で買い物をする主婦の如く、夜の献立を考えるランバルトの横を、猛スピードでワーウルフが駆け抜けて行った。どうやら、この先に人間の匂いがするらしい。ヨダレを垂らした姿は、見るに耐えない醜悪さがただよう。
「まったく、低俗な奴は、欲望塗れだな。まだ、熊の方が紳士的だぞ」
思考能力を有する魔族と違い、魔物は、人と見れば喰らい尽くす。あのワームワームですら、ムーン以外には、同じような対応だ。
しかし、野生動物は、瘴気で凶暴化していると言えども、相手を見て攻撃するかどうかを決める。それは、常に人間に狩られてきたものの本能。出来れば、下手な戦闘は避けようとする所に知性が感じられた。
うさぎやリスですら、誰につけば生き残れるのか良く分かっている。ランバルトが歩く後ろに次々と小動物が集まるのは、彼が自分達を襲わないと理解しているからだ。
「お前達は、少し働け」
庇護されたいなら、貢物くらい用意しろとランバルトが声をかける。その掛け声に、一気に散ったチビスケ達は、思い思いの『ごちそう』を持ってきた。
中には、怪しげな虫や腐りかけの魚などもあったが、果物や木の実は、ムーンの腹の足しになるだろう。その後、サクッと鹿を狩ったランバルトは、それを担いで家路につくことにした。
帰宅後、鹿を調理しやすい大きさにザックリと分けた。こういう時、風魔法は、大変便利だ。手も痛くならないし、血に塗れることもない。更に、あまり不要部分は、ワームワームが片付けてくれるので問題ない。ナイナイ尽くしで、最高である。
そして、木の枝に指した肉を焚き火にかざすと、傍で調理を見ていたムーンが、ソワソワし始めた。
川魚しか食べたことのないムーンは、鹿を見るのも産まれて初めてだ。
「ジュワワワワワワワワワワ」
生まれて初めて食べる鹿肉に、ムーンは、涎を垂らして食らい付いていた。とんでもなく可愛くて、けしからん。
ランバルトは、ムーンを喜ばせるべく、多種多様な獣を日替わりで狩ることにした。今や、ランバルトの世界は、ムーン中心で回っていた。
その後、各国が黒竜の遺体を求め、『呪われた森』へ兵を派遣する準備を始めた。その影響で、逆に他の戦争が減り、世間は久しぶりの平穏に包まれることになった。なんとも、皮肉な話である。そんな外界の事情など気にもならないランバルトは、獲物を探し、今日も、日課となった散歩をするのであった。
「父上は、どこだ?」
「どこかは存じ上げませんが、屋敷内に居ることは間違いないかと思われます」
ダークの息子グレイに質問されたシェリルは、慇懃な態度で答えた。それが、逆に馬鹿にされているように感じるのは、決してグレイの被害妄想ではないだろう。
「なんだ、その目は」
「目で、ございますか?2つ付いている以外、特に特徴もない小さな目でございます。シルバー公爵家のご子息が気になさる程のものでもございません」
「その口のききかたは、なんだ!」
「なんだ、なんだと、語彙の少ない方ですこと」
シェリルは、フンと鼻を鳴らして胸を張った。
「殴りたければ、殴ればいいではないですか」
「なんだと!」
「また、『なんだ』でございますか?」
「うるさい!」
グレイが振り上げた手が、ポスッとシェリルのお腹のあたりを叩いた。
しかし、ヒョロヒョロとした拳では、痛みどころか、擽ったさすら感じない。九歳の拳など、こんなものだ。
「お前なんか、嫌いだ!」
「私だって、好きで貴方の世話をしているわけではございません。する人間が、夜な夜な出歩かれるので、致し方なくお世話をしているだけのことです」
シェリルの言葉に、グレイは、ピタリと止まった。彼にとって、一番痛いところを突かれたからだ。
ダークの魔力が激減し、王からの信頼をなくしたあたりから、元看板女優の愛人は、昔馴染みからの呼び出しにちょくちょく出掛けるようになった。午前様も珍しくなく、常に酒の匂いに包まれている。まだまだ母が恋しい子供には、どんな仕打ちより辛いだろう。
「お前は、いじわるだ!」
「こんな事を言わせるグレイ様も意地悪です。弱い者イジメとか、嫌いなんです。私のことなど放って置いてください」
気づけば、二人して泣いていた。泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、気づけば、二人は抱きしめあっていた。
シェリルは、女としての花の時期を、この屋敷でお嬢様を待つことに費やした。結婚適齢期も過ぎ、もう、二十二歳。このまま、ここで朽ち果てていく切なさに、更に、涙が止まらない。
グレイは、グレイで、知っているのだ。自分がここに来たことで、追い出された妹が居ることを。心無い使用人達が、辞める手土産とばかりに、彼に話して聞かせたのだ。
『貴方のお母様が、愛人なんかにならなければ』
『罰当たりめ、お前に公爵家の血など一滴も入っていない!』
大人達に向けられない罵詈雑言を、弱者に向けて鬱憤を晴らす。一番最低なやり方だ。
「ぼ…ぼくが、悪いんじゃない」
泣き腫らした目の彼は、この家に来た時は、まだ、三歳だった。その前のことは、何も覚えていない。
それから、六年の月日が流れ、父は、ドンドン怒りっぽくなり、母は、外出ばかりするようになった。屋敷の中に殆ど人が居らず、彼の世話をしてくれるのは、シェリルというメイドだけだ。いつも、無愛想。だけど、唯一自分をちゃんと見てくれる相手。
「知ってますよ、そんなこと」
シェリルは、腕の中の痩せ細った男の子をギュッと抱きしめた。彼の両親には、憎しみしかない。
でも、彼にだけは、鼠肉なんて出してない。少食な胃袋を傷めないよう、柔らかくてホロホロに煮込んだ鶏肉や、さっぱりとした味付けのミネストローネを食べさせていた。
「ごめん、シェリル……さん」
「シェリルでいいですよ、グレイ様」
その後、二人は、親の目を盗んでは屋敷の中を探検するようになった。倉庫に入れられた本来の主である人々の肖像画や個人所有では類を見ない数の蔵書を見たり、食料庫の甘味をこっそり食べたりした。
グレイは、少しずつだが体重も増え、顔色も良くなっていく。笑顔も増え、そして、自ら勉強もするようになっていった。
「シェリル…いもうとは、なんてなまえ?」
「ムーン様でございます」
「ムーン、いい名前だね」
片親しか血の繋がりはないが、彼にとっては、ろくでもない親以外の唯一の肉親。
「ムーンは、ぼくを、うらんでいでしょう?」
「さぁ、それは分かりかねます。ただ」
「ただ?」
「お嬢様は、誰かを恨み続けるよりも、我が子を慈しんで育てられる方かと。そんな方のお子様ですので、きっと、笑って暮らしていらっしゃると信じております」
「……だったら、いいな」
グレイは、いつか、『呪われた森』に妹を探しに行こうと思った。その為にも、父譲りの魔力を武器に、魔導師になる必要がある。
「シェリル、ぼく、強くなるよ」
「ふふふ、それなら、少しは運動もされませんと」
シェリルに笑われたのが効いたのか、その日から、筋肉のないグレイは、腕立てをしたり屋敷の周りを走ったりし始めた。
これが、将来、民を助け歩き、『草の根の守護神グレイ』と呼ばれる稀代の魔導師の出発点だった。
「わはははは」
存在すら知らない兄グレイが望んだ通り、今日もムーンは、大きな口を開けて笑っている。その理由は、ランバルトが壊した畑をたった数日で復旧したからだ。腰に手を当て至極ご機嫌だ。
無論、そこには、ワームワームの協力とムーンが無自覚に垂れ流す底上げの力が関わっている。
ただ、今までは、収穫までに数週間かかっていた。ここまで最短で育ったのは、ランバルトからの溢れんばかりの愛情が、ムーンの力を鰻登りに上昇させているからだ。
この件に自分も加担していると知らないランバルトは、目の前で踊り始めたムーンとワームワームに、苦笑いを浮かべる。彼は、ここに来るまでの600年、作物には途轍もない手間と時間がかかることを見てきた。こんな反則技のような畑は、見たことがない。
「世の中の常識を、お前に教えるのには、難しそうだ」
諦めの境地に達する黒竜ママだが、彼自身が規格外の常識知らずなのだから、家族としては丁度よいのかもしれない。今だって、
ガリガリガリガリガリガリ
攻撃特化型の硬く鋭い爪を、ムーンを傷つけない為に石で削っている。
しかし、爪の方が硬いので、石の方がドンドン削れていた。
「やっぱり無理か」
ポイッと捨てた石を、ワームワームが溶かし始めた。それを見たランバルトは、自分の爪をワームワームの群れの中に突っ込んだ。
ブクブクブク
彼らの出す泡立つ消化液の中で、爪は、いい具合に溶けていく。
「まぁ、こんなものか」
満足げなランバルトだが、爪切りとは、本来こんなものではない。横で見ていたムーンが、自分も消化液に手を突っ込もうとして、逆にワームワーム達に止められていた。
常識知らずの娘と常識知らずのママ。日々の生活も、どこかズレている。
「ムーン!台所で脱いじゃ駄目だと何度言えば分かる!」
晩御飯の調理をしているランバルトに怒鳴られ、パンツ一丁のムーンは、ビクリと肩をすぼめた。
「風呂で脱げと、言ってるだろ!」
プンスカ怒るランバルトに、ムーンは、涙目で下を向いた。今までは、川で水浴びをするだけだった。ついでに、そこで洗濯もした。スッポンポンで歩いても、咎める人は居なかった。
なのに、ランバルトがお外にお風呂なる物を作ってから、服の脱ぐ場所から洗う順番まで事細かに指示される。頭から洗おうが、足指から洗おうが、違いなど然程ないのに。
「グシュ」
「泣くな」
「ラー、いじわりゅ」
パンツのまま泣き出した可愛いムーンを前に、ランバルトは、心を鬼にする。このままじゃ、この子は、どこでも服を脱ぐ。今は幼いから良いが、大人になった時、ランバルトが困る。何が困るって、色々困る。
「お前は、女の子だぞ」
「ムー、ラーとおんなじ」
「同じじゃない。お前は、人間の女の子で子供だ。俺は、黒龍で、六百歳だ。長く生きている者の言うことを聞け」
「ラー、むじゅかしぃ(難しい)」
ムーンは、床に落ちた服を拾うと、抱えてトボトボお風呂に向かって歩き出した。
チラッ、チラッ。
ランバルトを振り向きながら。
「あー、もう、仕方ないな」
夕食を作っていたランバルトは、竈門からグツグツ音を立てる鍋を外した。
ムーンの細く柔らかな髪は、丁寧に洗わないと絡まってしまう。ランバルトによって腰まであった髪は、肩まで短くされたものの、ムーン1人に任せたら湯だけ被って出てくるだろう。
ランバルトは、袖とズボンの裾をまくり、ムーンに付いてお風呂に入った。彼の魔法によって良い加減に温められた水は、白い湯気を上げて視界を霞ませる。
「ほら、まずは、湯をかぶるぞ」
「あい!」
パンツを履いたままのムーンが、両手をピンと上にあげて目をつぶった。
ザパン
ランバルトが桶に汲んだ湯をムーンの頭から掛けると、髪の毛から洗っていく。灰とハーブの煮汁を混ぜた泥状の物を塗り付け、優しく揉み洗い。
油脂が溜まりやすい根元にも丁寧に塗り込み、絡んだ部分は、指を使って梳いていく。
六百年。
ランバルトは、人々の暮らしを眺めてきた。最初は、トカゲほどの大きさだった為、雨風をしのげる屋根裏は、とてもよい住み心地だった。百年ほど眺めていれば、大体の知識は、頭に入る。それを使ってムーンの世話を焼くのは、思いの外楽しいことだとランバルトは、気づいた。
彼は、十分に頭皮の汚れを灰に吸着させ、ハーブの潤いを髪の毛に与えたのを確認してから再びムーンに湯をかけた。二度三度。ザパンと頭から湯をかけられるのを、ムーンは、一生懸命我慢する。
「ほら、洗えたぞ。他は、自分でしろ」
「あい」
ムーンが、その場でパンツを脱ごうとするので、ランバルトは、慌てて外に出た。
「ふぅ」
今はまだ子供でも、人間の成長は、早い。あと十年もすれば、少女は娘になり、何十年後には娘は老婆になる。
どうすれば、もっと長く過ごすことができるのだろうかと、ランバルトは、頭を悩ませた。
ムーンとランバルトが出会う、約半年ほど前のある日。
パカポコパカポコ
老齢の馬が、間抜けな足音を鳴らしながら幌馬車を引っ張っていた。手綱を握るのは、馬に負けないくらいヨボヨボの老人。一頭と一人は、周辺の村々から委託を受け、一周するのに一週間はかかる『呪われた森』の外周を巡り、4つの結界石にお供えを備えるのを生業としていた。
製作者は不明だが、老人の祖父が、自分が生まれるより前からあったと言っていたので、随分昔に建てられたものなのだろう。巨岩にびっしりと書かれた文字は、今では読める者さえいない古代語だ。
もし、この結界石が壊れれば、修復できる者が居るのかと不安になる。
今日訪れたのは、森の東西南北に設けられている結界石の中でも、最も人里から離れた場所にある東の大岩だ。周りには、村どころか民家の一件すらない。
それなのに、ここ数回、供物がまるっと無くなることが続いていた。一番近い村からでも2日かかる場所だけに、盗む労力を考えると人間がやったとは考え難い。
他の場所のお供えは、雨風で吹き飛ばされない限り、大体同じ個数が同じ場所に置かれたままになっている。なにせ、味付けもない、石のように硬いパンである。カビないことを最優先にされた、ほぼ水分のない小麦の塊は、老人の歯なら確実に折れるだろう。
それが、東の大岩に置かれているパンのみ綺麗サッパリなくなるのだ。獣か魔物が、たまたま喰って味をしめたのなら、突然襲いかかってくる可能性もある。老人が、不安になるのも仕方がない。
念の為、馬車を木陰に停め、周りの様子を確認することにした。歳をとっても目だけは良い老人が、お供物を確認すると、
「お?今回は、残っておったか」
前回捧げたままの状態で残っていた。老人は、ホッとし、鞄の中から新しいパンを4個取り出した。
「それにしても、だーれが、盗んでおるのやら」
石並に硬いパンを齧れる魔物や獣なら、老人の頭くらい一噛みで砕くだろう。キョロキョロと周辺に気を配りながら、草陰に隠れつつ、大岩へと近づいていく。
その時、
カサカサカサカサ
大岩の下に生えている草が大きく揺れた。老人は、ビクリと身を固め、咄嗟に気配を消す。
もし、獣なら、このまま去るのを待つ。魔物なら、食い殺される前に懐に忍ばせたナイフで一太刀だけでも
あびせたい。
死を覚悟しながら目を凝らすと、草むらから小さな子供が飛び出してきたのが見えた。
粉雪のように白い肌
月の光のような銀髪
星が煌めくような瞳
老人が幼い頃から聞かされていた『月の女神』の容姿と酷似していた。叫びそうになる口を両手で押さえ、老人は、少女の様子を見守り続ける。
「あ!」
小さな手で、4個のパンを持つのは難しいようで、コロコロ何度も落としては拾うを繰り返している。そして、最後には自分のスカート部分に包むようにして抱えて去っていった。
「はぁ………女神様がお食べになられておったのか。有り難き幸せ」
老人は、感動でガクガク震える足を何度も叩きながら幌馬車に戻ると、パンを更に3個増やして、7個にした。一週間に一度のお祀りでは、次のお供物まで女神様が食べるパンが足りなくなってしまう。代わりに、他の場所のお供えを、3つずつにすればいい。
「このこと、決して人には言いません。どうか、健やかにお過ごしくださいませ」
老人は、その日から、どんなに雨風が酷くても、東の結界石へのお供えだけは欠かさなかった。他の者が何故そこまでするのかと尋ねると、
「幸せは、人に語ると減るからな」
と語っていた。偏屈で有名な老人が、唯一笑顔を見せる瞬間だった。
ハァハァハァハァ
某国の第八王子は、『呪われた森』の中を走っていた。
「何故、私が、こんな目に合わねばならぬ!」
ただでさえ魔物に追われているのに、大声で悪態をつく彼は、きっともう助からないのだと諦めているからだ。それほどまでに、『呪われた森』は、人間など太刀打ち出来ぬ脅威が溢れていた。
ロイスハルク王国が、西側の国境線を越えようとするブルワルドー王国を必死に抑えている間に、北、南、東と、別の方角からも黒竜を奪おうと各国が軍隊を送りこんだ。
ブルワルドーとの攻防に集中しすぎていたロイスハルクは、簡単に、その侵入を許してしまう。森へと続く街道は、大量の兵士に埋め尽くされるほどだった。そして、この森は、今世紀最大の戦場になると思われていた。
しかし、来てみれば、囁き声すら大声になるほど、不気味な静けさに満ちていた。跡取り問題で一歩先んじる為に、立候補した彼を待っていたのは、まさに地獄。
何百人と配下を与えられて、意気揚々と国を出たのは5日前。
しかし、一歩森に入ると、その殆どが逃げ出した。彼らは、兵隊でもなければ、奴隷でもない。人が足らずに掻き集められた平民達。彼らの職業は、八百屋やパン屋など、戦いとは無関係なものばかりだ。
見たこともない王族を守る使命感なんて持ち合わせていないし、平穏な日常を奪った相手を憎んでさえいる。
しかも、頭ごなしに怒鳴ることしかできない王子に、何故ついて行かねばならないのか。彼らは全員で示し合わせ、別の場所で待つ家族の元へと走った。残ったのは、既に退役した老兵と自分だけ。
ガォ〜〜〜
遠くに、猛獣の咆哮が聞こえた。老兵を盾に逃げ出した王子達、奴等が匂いを頼りに追いかけてきている。どんどん声が大きくなっているという事は、既に殿を勤めた者達は、息絶えたということだろう。
ドシン、ドシン
地を揺るがす足音に、全身の血が凍った。逃げたいのに、一歩も動けない。木の影に隠れ、息を止めることで、何とかしのいだ。
ここに生息する獣達は、あまりにも外界のものと違い過ぎる。想像の二、三倍はある体格は、槍を刺そうが剣で切ろうが、魔法を放とうがダメージを受けた気配がない。既に剣は折れ、全身傷だらけで歩くことさえ困難だ。
『こんなはずじゃなかった』
後悔しても、もう遅かった。涙に暮れる彼だが、そんな人間が、森の中には掃いて捨てるほどいた。賢さは、身分に反比例するという良い例だった。
「ほら、両手を上げて」
「あい!」
下着姿でバンザイをしたムーンの上から、ランバルトは、昨晩縫い上げたワンピースを被せた。スポッと襟口から顔を出すと、嬉しさが溢れる緩んだ笑顔をランバルトに見せた。
「ん、まぁまぁだな」
いつもの『まぁまぁ』発言をしながら、満足げにランバルトが頷く。
ムーンは、嬉しそうにクルクルと回り、スカートをフワフワと揺らめかせた。
使った布は、前のあばら家でカーテンに使っていた物だ。綺麗に洗っても色褪せしていた為、玉ねぎの皮で濃い山吹色に染め上げた。
「やった、やった」
新しい服に興奮気味のムーンは、スキップをしてランバルトの周りをグルグル回った。
「落ち着け。コケるぞ」
言っているそばから、ムーンがつまずいた。ズベッと前のめりに倒れ、ビリッと布が破れる嫌な音がする。
「ラー、ラー、ラー、やぶりぇた(破れた)?」
座り込んだまま、ムーンは、素足が丸見えになっているのも気にせずに、スカートを捲り上げてチェックする。
「ムーン、落ち着け」
ランバルトは、軽々とムーンを抱き上げてベッドに座らせた。
「あぁ、ここが破れている」
ランバルトが、テキパキと服を確認すると、スカートの裾にあしらったレースの一部が取れかけているのを見つけた。
「ラー」
ムーンは、ポロポロ涙を流しながらランバルトを見た。
「大丈夫だ、これくらい。だから、泣くな」
グシュグシュと鼻を啜るムーンは、泣きながらも笑顔になった。ランバルトは、本当に頼れるママ。彼が大丈夫だと言えば、絶対大丈夫だとムーンは信じている。
「ちょっと、待ってろ」
ランバルトは、ポンポンとムーンの頭を軽く叩くと、裁縫道具を取ってきた。
チクチクチクチク
服を着たまま縫うので、針で指を刺しまくっていたが、喜ぶムーンの為なら、たいした事じゃない。縫い終わると、ムーンは立ち上がり、クルクルと回りながら元通りに修復されたのを確認する。
「ほぉ〜」
頬に手を当て感嘆のため息をつくムーンを、ランバルトは、愛しげに見つめた。
この大切な日常をどうすれば少しでも長く続けられるのか。最近は、そればかり考えてしまう。なので、応急処置として、結界内にゆっくりと時間が過ぎる魔法を掛けた。これで、彼女の成長は、人の三分の一になる。仮にあと八十年生きられるなら、二百四十年は一緒にいられるだろう。その間に、ゆっくり対策を練る。
もし、『番』なら、婚姻を結べば、伴侶である竜に寿命が統一される。違う場合は、二百四十年後に、一緒に死ねばいい。
彼は、自分の激重な感情を正確に理解できていない。一人で生きてきた彼に、それだけの経験値がないのだ。それでも、本能で、せっせとムーンの外堀を埋めている。自分なしでは、生きていけないように。
「これが、王から授けられた魔石でございますか!」
「授けたのではない。一時的に貸し出すだけだ」
王の使者としてシルバー公爵家を訪れていた宰相は、頭に痛みを感じ、こめかみを押さえた。昔から、彼は、一方的に喋り、勘違いし、自分勝手に振る舞うダークが嫌いだったのだ。今も、何度も下賜された物ではないと繰り返しているのに、返す気など無さそうな表情で魔石を抱え込んでいる。
ダークは、久しぶりに身体に溢れる魔力に震えが止まらなかった。何重にも結界で抑えつけられていて、これだけの魔力を漏れ出させるのだ。封印箱から出せば、一体どれだけ放出するのだろう。枯渇した身体に、ドクドクと魔力を取り入れながら、これで又、最高の魔導師として返り咲けるとほくそ笑む。
『森に入れるなら、あの女も取り返せばいい』
自分が捨てたくせに、ダークは、黒竜の死体捜索に合わせて、『ママの奪還』も目論んでいた。
「やっと風が俺に吹いてきた!」
目をランランと光らせるダークは、おもむろに箱をこじ開けた。長年押し込められていた魔力が一気に吹き出し、屋敷中の窓ガラスを割る。
宰相は、両腕で顔を庇いながら、数歩後ろに下がった。頭の上から押さえつけられるような重力を感じる。
「いきなり開けるなど、まともじゃない」
飢えた魔物のように魔力を吸い込み続けるダークも、こんな馬鹿に国宝を渡した王も、すべてが狂っている。
宰相は、その足で屋敷に戻ると、家族と屋敷の者全てを引き連れ国を出た。
「ロイスハルク王国は、もう、終わりだ」
民のために、愚王にも媚びへつらいながら、なんとか国を支えていた彼が出国したことを知り、志を同じくしていた清廉な貴族達が、続々とロイスハルク王国を見限った。こうして、元々傾き始めていた国が、一気に瓦解していった。
つづく