第4話
5月の風は気持ちがいい。それは早朝だけに限ったことではないけれど。僕は夜勤明けで眠たい脳をぼやぼやとさせながら自転車を走らせる。もう少し近いコンビニで働けばよかったんだけど、隣人とか来たら気まずいと思ったんだ。
5月も終わって、梅雨入り前の季節の朝7時は少ししっとりしてる。僕はコンビニの夜勤を終えて帰路についていた。ぼうっと自転車を漕ぐ。しゃんしゃんと車輪はスムーズに進んで、時折小石を弾く。ぱちん、ぷちんと小さな音を立てていることを、イヤホンで音楽を聴きながら帰っている僕は知る由もない。
ぼうっと考え事をする。そういえば最近部室に顔を出していない。ずっと家でYouTubeやネットフリックスを流し見しながら課題をやっている。音楽を聴いているとつい音楽にばかり気を取られるので、最近は映画を流している。これが案外課題が進むのだ。
道路から僕の部屋が見える。あ、洗濯物干しっぱなしじゃん……二階だし、男だから取られる心配なんてないけれど、つい干しっぱなしにしているといつの間にか雨に降られて”ダメ”になっている、なんて考えていると部屋の電気がついている。僕は家を出る前に暗くなった部屋を思い出せたので、きっと“彼女”が来ているのだと分かった。合鍵を持っているのは“彼女”だけで、まだ返してもらっていないことを思い出した。
自転車を停めて夜勤明けで疲れてなまりのような足で一段一段のぼる。階段が長い。202号室。3階建ての、202号室。ワンルームの、8畳、一人で生活するには十分で、洗面台も独立だし、台所も広くて2口コンロで使いやすい、まあほとんどガス火なんて使わないのだが。なにより、大学から徒歩10分圏内、スーパーも近いこの家は僕が籠城するにはピッタリだった。
乱雑に紺色のスニーカーが玄関に落ちていて、片方はひっくり返っている。紐もぐちゃぐちゃに結ばれた“ソレ”は僕に「おかえり」と言っているようだった。ただいま、というと「おかえりぃ」と寝ぼけたような、間の抜けたような声がきこえる。カーテンの隙間から朝の気持ちのいい光が差し込みながら。
机の上には彼女のトートバックが置いてある。床には脱ぎ捨てられた服と、靴下と、鍵が落ちていたので、鍵だけトートバックの横に拾って置きなおした。布団から、見慣れたふわふわの茶髪が見える。
「かづきちゃん、また来てたの」
「うぅん、もみじちゃんがバイトだなんて知らなかったの、電話も出ないしぃ」
きっとまた今の彼氏と喧嘩でもしたんだろう彼女は、ベッドの中から僕の方へと手を伸ばすと「こっち、きてぇ」と言った。その手を握ると、ずっと弱い力で握り返してきた。彼女の爪はいつも綺麗にマニキュアが塗ってある。それは僕と付き合っていた頃からそうだった。高校の校則を破ってツヤの出る薄ピンクのマニキュアを二度塗りしていたことを僕は知っている。
天文部の部長であるかづき―――白木かづきは、僕の高校の頃の1つ上の先輩であり、大学の先輩であり、僕の元恋人である。別れたのは今年の年明け。僕が高校2年から、大学1回生の冬まで付き合っていた。別れたら天文部はやめようと思っていたが、部員が減ると困るとかづきが言うので幽霊部員として名簿に名前だけ残しながら、行くアテがなくなったらゾンビのようにあの部室に流れ着くのだ。
二人で過ごした期間は長く、短かった。あっという間だった。どこで知り合ったのか僕はもう忘れてしまったけれど、彼女の提案で付き合うことになったのだ。僕と彼女のはじめてのほとんどはお互いで、きっとこの先も忘れることはないだろう。