8:体面の話
ヤン家では、朝食前に兵たちが鍛錬する習慣がある。
しかしさすがに昨日の今日だ。普段より人数は少ないらしい。それでもあたり前のように朝の鍛錬が行われていることに、フォンは驚いた。
彼も個人的に、早朝に身体を動かしていた。場所を借りようと、ヤン家の裏に広がる修練場へやってきたところで家人たちと出会い、参加させてもらうことにしたのだ。自主練とはいえ、鍛錬に相手がいるのはありがたい。
ヤン家の兵たちも他家の武人に興味を示し、我も我もと手合わせを望むので、フォンも退屈しなかった。
やっとのことで人が途切れ、鍛錬の輪を抜けたところでヤン・リクが話しかけてきた。
「さすがですね。トウ・フォン殿」
「とんでもないです。飛び入りなのに稽古に参加させていただいて、ありがとうございます」
汗を拭いながら、フォンは答えた。族長であるヤン・リクも、朝の鍛錬に参加していることには驚いた。しかし昨日の妖魔との戦いぶりを見る限り、この族長も結構な『武闘派』なのだろうと納得する。
「こちらこそありがたい。彼らは他家の武人と関わる機会が少ないので、良い刺激になります。思う存分、しごいてやって下さい」
「それこそ『こちらこそ』ですよ。さすが武勇を誇るヤン家だ。お強い方ばかりで驚きました。何より、戦うことへの姿勢が気持ち良い。他家の私を前にして、『打ち負かす』ことより『打ち勝つ』ことを意識している」
「なるほど。そう見られますか」
「ええ。少なくとも私は、そう思いました。この差は、大きいかと」
「ええ。同感で…………?」
「? ヤン・リク殿?」
突然言葉に詰まったヤン・リクを不思議に思い、フォンは視線を動かした。すると、彼はなんとも形容詞しがたい表情で、鍛錬場の向こう側、ヤン家の母屋の一画を睨んでいる。その視線の先にあるものを認めて、フォンはため息をついた。
「トウ・フォン殿。……失礼を承知でお尋ねするが、彼女はその、いつも『あのような感じ』なのでしょうか?」
「あー……そう、ですね。だいたい、大抵は『ああいう感じ』です」
※
「へえ。チルさんは、北のリャン領から来たのかい。遠かっただろう」
「ええ。結局二月近くかかりました。でも色々と見てまわれたので、面白かったですよ」
「そりゃあいい!」
チルはヤンの家人たちと共に、井戸で水を汲んでいた。
昨日の解毒薬造りで台所を無理やり借りた挙句、水瓶を空にしてしまったのだ。その礼も兼ねて、手伝いをしていた。
「そうだ。今度の長休みに、旦那と旅行でも行こうかって話してんだけどさ。どこか、おすすめの場所はあったかい?」
「そうですね。あ、カム領の温泉は良かったですよ」
「ああ。温泉はいいわね」
桶を引き上げながら、チルは井戸端で野菜を洗う女たちとの雑談を楽しんでいた。皆、手もとはせわしなく動かしつつ、口を弛めることもない。
「温泉といえば、ヤン領にも良いところがあるから入っていきなよ」
「そうなんですか?」
「ええ。ちょっと山のほうだから、立地はあんまり……なんだけど、温泉の質はいいわよ。肌がつるつるになるの」
「へえ。いいですね。帰りに寄ってみようかな」
「ぜひ行ってみ……て、よ」
ふいに口を閉ざした女たちの視線の先には、ヤン・リクが腕を組んで立っていた。突如現れた長に、彼女たちは慌てふためく。雑談を咎められると思ったのだ。
「ヤン・リク様!」
「す、すみません。無駄口を……」
「手も動いているのなら、別にかまわん。仕事を続けてくれ」
しかしどうも様子がおかしい。眉間にしわを寄せてはいるが、自分たちを叱りに来たというわけではないようだ。怒っているというより、苛立ちと困惑の感情を持て余しているとでも言おうか。
不敬と思いながらも、子を持つ女たちは「息子が十いくつの頃に、こういう表情をよくしていたなあ」などと考えていた。
「それより、リャン・チル殿。こんな所で、何を、なさっているのです?」
苛立ちもあわわなヤン・リクをちらりと見上げ、チルはさらりと答えた。
「おはようございます。ヤン・リク様。ごらんのとおり、水汲みをしています」
「ええ。おはようございます。お訊ねしているのは、何故、あなたが、水汲みをしているのか。ということです!」
「それは、昨日の薬の調合で、台所の水を使い切ってしまったからです。ですのでお手伝いをしています」
「ですから、それを貴女に、やらせるわけにはいきません。家人が代わります」
「大丈夫ですよ。体力はありますので」
「そういうことではありません。はあ……。止めてくださいと申し上げても、聞き入れてはくれないのでしょうね」
「なんです? また体面ですか? それとも他に何か?」
その不穏な空気に、場に居合わせた家人たちはざわついた。長が台所裏に顔を出し、かつ口まで出すのは珍しい。
なにより面と向かって長に言い返しているこの女人は、いったいどこの誰なのだろう? そう顔に書いてある。
あまりにあまりな状況に、フォンが横から口を出した。
「あー。チル様? ちょっとよろしいですか? おそらくヤン・リク殿がおっしゃっているのは、チル様が考えている『体面』とは、少々意味が違うと思います」
「……どういうこと?」
フォンは説明する。
「えっと、例えばですよ? チル様の恩師が、貴女を訪ねて来られたとします。しかしチル様は所用でしばらく出かけなければならない。当然、留守中の世話を誰かに頼むでしょう。ですが、それがなされなかった。食事も出されず、部屋も用意されずに放置されていたとしたら……どうします?」
「……怒る」
「ですよね。では、例えば小さなアルティ嬢が迷子になってしまい、彼女を助けて送り届けてくれた人がいたとします。その相手に十分な礼もせず、悪気はなくとも家人がぞんざいな態度をとってしまったとしたら……どうします?」
「……怒る」
「ですよね。つまり、ヤン・リク殿がおっしゃっているのは、『家の格がどうこう』という権力誇示の問題ではなく、『世話になった客人に、恩を受けた側の長として、礼を欠くことはできない』という礼の問題ではないですか?」
「……なるほど」
「もちろんチル様は、『恩を売るために』ヤン家に手をお貸ししたわけではありません。ですが『手を貸した』というのは事実です。そして我々は、ヤン家を正式にお訪ねした『客人』でもある。ヤン・リク殿は、長として我々に礼を欠くわけにはいかない。昨日は非常時ということで流せたとしても、たとえチル様が気にしないとしても、そんな相手に『雑用をさせる』わけにはいかないでしょう? それが『体面』ってもんですよ!」
フォンの話に、チルはすこぶる納得し、ひどく反省した。素直に桶をヤン・リクに手渡し、頭を下げる。
「すみませんでした。ヤン・リク殿」
「いえ。こちらこそ、申し訳ない。おい。すまないが……」
「はい。こちらは台所の水瓶でよろしいですか?」
「そうです。お願いします」
「お任せください!」
若い家人が進み出ると、桶を受け取り台所へと歩いていく。その姿を見送って、チルは再び頭を下げた。
「本当に、その、申し訳ありませんでした。何というか、意固地になってしまって……」
「もとはといえば、こちらが至らなかったことが原因です。気をつかってくださったのに、申し訳ありません。ですがトウ・フォン殿がおっしゃったように、貴女がたは恩人で客人です。ご理解いただけると幸いです」
「……善処いたします」
しゅん、とうなだれたチルを見て、フォンは意外に思った。ここまで素直に凹んでいるチルは珍しい。
「そうです。チル様。その『意固地』は直したほうが良いですよ。本当、『権力』とか『身分』とか『家柄』とか、そういうのがお嫌いなんだから。貴女の身分と家柄で、権力と無縁でいられるわけがないでしょうに」
「ぐっ」
「トウ・フォン殿。その、そこまでは……」
「大丈夫ですよ。確かにリャン・チル姫は、非常に頑固で意固地ですが、人の話を聞かないわけでも、お馬鹿なわけでもありません。ただ、ちょっと『権力を振りかざす相手』ですとか『ご自身の義と信念にそぐわない相手』には、こう反骨精神というか、手加減できない質なんです」
「うっ」
「周囲は大変ですよ。そういうことに『だけ』は決して自分から折れないし、何が何でも歯向かっていくんですから。相手が誰であろうとも、です。良い機会ですし、今後のためにも、少しその手の忍耐を覚えた方が良いと思います。それは姫の美点でもありますが、早まって、また『十年の蟄居』なんていうのは、馬鹿らしいでしょう?」
「くっ」
「それは……その」
「ヤン・リク殿。姫の性質を知っていながら、お止めできなかった責は、護衛の私にもあります。ですが、どうかご容赦を。誤解があったようではありますが、『こういう方』だとご理解いただけると幸いです。見合い……縁談の件も、ご随意に」
「フォン!」
「なんせ『かの盟主をぶん殴る』くらいの規格外なので、『ちょっと武芸をたしなんでいる良家のお姫さま』ではありません。もしヤン・リク殿が『おしとやかな深窓の姫君』がお望みなら、リャン・チル姫はやめておいた方がいい」
「フォンってば!」
「ふふっ」
そこでようやく、ヤン・リクは表情を弛めた。
「ヤン・リク殿まで……」
「いえ、失礼。リャン・チル殿は、良い護衛をお持ちのようだ」
どうやらフォンの意図に気が付いたらしい。主人の軽率を諫めながらも励まし、かつ彼女の事情や思惑を、自分や家人たちに知らしめようとしているようだ。
「ありがとうございます。ですが、それほどでもありません」
「フォン……」
悪びれもしない彼の態度と、様々な感情が入り混じったチルの表情に、ヤン・リクは重ねて笑った。
「確かに。なかなか面白い姫のようですね。さすがに水汲みに励むのはご遠慮願いたいですが、留意いたしましょう。ああ、武芸の如何についてはご心配なく。彼女の立ち振る舞いと昨日の采配を見れば、武人としても只者ではないことは知れます。それに、亡くなった母も武人でしたから」
そう笑い、ヤン・リクはチルを促した。
「リャン・チル殿。こちらへ」
そうして二人は奥屋敷へと姿を消したのだった。
災難だったのは、残された家人たちだ。
朝餉の準備をしていた女たちや長について来た兵たちは、息をひそめて一連のやり取りを見ていた。彼らが去った後、場は蜂の巣を突いたかのような騒ぎになった。
「どういうこと? チルさんが、ヤン・リク様の縁談相手ってこと?」
「私、思いっきり雑用頼んじゃったわよ!」
「そういえば私、ウルラ様から菓子を用意しておくように言われたわ。近日中に、ヤン・リク様に大切な女人のお客様があるから、できるだけ良いものを、って」
「そんな方が下仕えの恰好で、雑用してるなんて思わないじゃない!」
「でも、そういうのは気にされない、って言ってなかった?」
「それよりリャン・チル姫と言っていたぞ。まさか、トウ家のチル将軍のことか?」
「それって確か、先々代のスイ家の盟主を殴って追放されたっていう……?」
「罪人じゃないですか!」
「馬鹿たれ! あれは、それだけの気概をお持ちだったということだ。若い奴らは知らんだろうが、本来なら処刑されるところを、名だたる家の長や将軍が助命に奔走したんだぞ! その意味を考えろ。……公には口にするなよ!」
「えっ、そうなんですか? うわぁ……わかりました」
彼ら彼女らは集まって、喧々諤々の騒動を繰り広げた。良家の姫、しかもヤン・リクの『久方ぶりの』縁談相手、嫁候補かもしれない人が、自分たちのそばに紛れ込んでいたのだ。非常時とはいえ、複雑なものはある。
しかしそんな空気の中、チルと共に水汲みをしていた若者が、ぽそりとつぶやいた。
「なあ、俺、思ったんだけどさ」
「なんだよ」
「ヤン・リク様。何気に楽しそうじゃなかったか?」
「ああ……」
「俺も、そう思った」
「じつは私も……」
「ヤン・リク様さ。今じゃ縁談話があっても興味がなさそうというか、一回だけ会って大抵そのまま断るだろ? でも、リャン・チル様と話している時、眉間にシワはあっても、楽しそうというか朗らかというか。俺、ヤン・リク様が女の人と一緒に居て、あんな表情してるの、初めて見た気がする」
「確かに……」
「じゃあ……」
「これって……」
「ええ……」
「「「「 脈ありかも!! 」」」」
家人たちはそう結論づけ、活気づいた。何しろ久方ぶりの『お相手候補』である。話はまことしやかに屋敷を駆け巡り、昼には知らぬ者は居ないほど膨れ上がっていた。
しかし同時に、家人たちは主人の気性を鑑みた。
ヤン・リクは尊すべき族長だったが、己に厳しく責任感が強い。家人の前では自分を抑え隠し、『族長』であろうとする。周囲が下手に騒いでしまうと、逆効果になるかもしれない。
族長の『成就』を願う家人たちは、リャン・チル姫を全力でもてなすこと、二人の成り行きについては、陰ながら見守ることで結託したのだ。
騒ぎを聞きつけたウルラ執務官が、頭を抱えたのは別の話である。