3:ヤン領への旅路とチルの思惑
ヤン家の領地は、大陸の南部に位置している。
北東部のトウ領からだと、大陸をほぼ縦断する距離だ。旅順や移動手段にもよるが、それなりに日数もかかる。
それを見越してか、ヤン家からは「期日を三か月とし、それまでに本邸を訪ねて下さればよい」と、実にざっくりとした話をもらっていた。先方としては予定が立てづらくなるのではないかとも思ったが、ヤン領に入った折に報せを入れれば問題ないだろう。
転送術や空を飛ぶ騎獣を使えば、その分早く目的地には着く。チルの騎獣も足は速い。彼に乗れば、一日でヤン領まで駆けるだろう。
しかしチルたちはあえて、のんびり旅をすることにした。なにしろ何年も、リャン領に引き篭もっていたのだ。他領の様子も気には留めていたが、世間はずいぶんと変化しているはずだ。
それを体感しながら旅をしたいと思ったチルは、いくつかの領地をまたぐ旅順と、馬での移動を選んだ。順調にいけば、一月半ほどでヤン領に着くだろう。
「それにしても、どういう風のふきまわしですか?」
ルンが、意味深な表情をチルへ向けた。
チルと侍女のルン、護衛のフォンの三人は街道から少し離れた山の中で、野宿の準備をしていた。次の宿場町で泊まる予定だったのだが、昨晩降った雨で足場が悪く、思いのほか歩が進まなかったのだ。
トウ家も傍流のリャン家も、どちらかというと質素倹約を旨としていたし、そもそも軍籍にあったチルたちは野宿にも慣れていた。今もルンはテキパキと火をおこし、フォンは寝床を整えている。
チルは芋の皮を剥きながら、ルンに問い返した。
「なにが?」
「ヤン・リク様との縁談ですよ。チル様、ぜんぜん乗り気じゃないでしょ?」
その忖度ない言い様に、チルは笑った。トウ家にいた頃と変わらない彼女の態度が、ただ嬉しい。今は侍女としての体面で「チル様」とは呼んでいたが、その扱いはかつての友人だった。自然とチルの口調も砕けたものになる。
「そりゃあ、ね。蟄居明けにいきなり縁談とか言われてもさ。今更だし。でもホク・ヨウ夫人が相手だもの。ただ断るっていうのは難しいよ」
もっともなチルの言い分に、ルンは鼻をならした。
「『だから』変だと言っているんです。断るつもりなんですよね? それなのに、なぜそれほどヤン・リク様との縁談を楽しみにされているんですか?」
思わずチルは手を止めた。
「……そんな風に見える?」
「はい。厳密に言うと、『縁談に』というより『ヤン・リク様とお会いすることに』ですが。チル様。ヤン・リク様と、実は何かあるのですか?」
「げ……」
黙って二人の会話を聞いていたフォンが、眉間にしわを寄せる。そうだとしたら、それはそれで一大事だ。
「ルン。……すごいね」
「なんですって? まさか、本当に何か⁉」
ギョッと目を瞠った二人に、チルはあわてて手を振った。
「待って。早とちりしないで。ヤン・リク殿に直接お会いしたことはないし、交流もなにもないよ。ただ……」
「ただ?」
「なんです?」
ねめつけてきた兄妹に、チルはぼそぼそと答えた。
「ただ、その、ちょっと思い出したことがあって。……それで、ヤン・リク殿に、頼みたいことがあるだけよ」
「頼みたいこと、ですか?」
バツが悪そうに視線をそらしたチルを見て、ルンとフォンは顔を見合わせた。何かあるとは思っていたが、縁談にかこつけて『頼みごと』とは。婚姻に互いの利害が絡むことは少なくないが、チルらしくない。
「そ。今の私では、どうしようもできないことだったから。でも、ヤン・リク殿ならそれができるなぁ、と思って」
「まさか……そのために、縁談を受けるんですか?」
ルンが呆れた声を上げた。
「それはわからないよ。縁談と、その頼みごとは別の話だもの。ただ、お会いすればその機会を得られるかもしれないでしょ?」
「その『頼みごと』というのは、何なんです?」
「うーん。それは、まだ秘密」
二人の従者は顔をしかめたが、チルは「だって……」と続けた。
「頼んでも、引き受けてもらえないかもしれないからね」
「そんなに面倒な頼みごとなんですか?」
「どちらかというと、私の言葉を信じてもらえるかどうか? かな」
チルの飄々とした物言いに、兄妹はため息をついた。
「……がんばって下さい。あいにく、お手伝いはできませんが」
「同じく……」
この人は昔からこうなのだ。肝心な部分はのらりくらりとはぐらかし、煙に巻く。しかしそうする裏には、必ず意味がある。
追及しても徒労に終わることは身に染みていたので、二人はそれ以上何も言わなかった。
二人の気遣いをありがたく受けとって、チルは刻んだ芋を鍋に放り込んだ。