第2話
意識がふわふわとする。まるで、夢の中のようだ。
けれど、頭がずきずきと痛むので、ここが現実だということは容易に想像が出来た。
(……あぁ、面倒だわ)
そう思いつつ、ぱっちりと目を開けた。真っ白な天井が視界に入り、視線だけで周囲を見渡す。
(……ここ、何処かしら?)
見覚えのない天井。見覚えのない部屋。挙句、身に纏っているナイトドレスの布地はとても触れ心地が良い。寝台もふかふかで、いつも使っている寝台とは全然違う。
(いいえ、ある意味それは違うのね)
冷静になれば、記憶が頭の中に蘇った。
『リゼット・メル・グランディエ』として生きてきた二十一年間の記憶。はっきりと、思い出せる。
ゆっくりと寝台から起き上がり、周囲を探る。確か、ここら辺に――と、思って見つける。そのまま呼び鈴を鳴らして、リゼットは寝台から降りた。
(まだずきずきと身体が痛む。でも、打ちどころはそこまで悪くなかったみたいね。バルコニーからの転落ならば、運が悪ければ死んでいるもの)
転落したのは二階からとはいえ、打ちどころが悪ければ死ぬのだ。それを、リゼットは……いや、『アレイナは知っている』。
「こちとら一体何回突き落とされたと思っているのよ。刺されるのも、突き落とされるのも、日常的よ」
だから、これくらいの痛みは特に苦ではない。そう思いつつ、リゼットは寝室にある窓のほうに向かった。
窓から見下ろせるのは、青々とした美しい庭園。
(二階、か)
窓枠に手をついて、リゼットはぼうっと庭園を見つめる。……今まで何度も貴族の邸宅にはお邪魔したが、ここまで立派な庭園は滅多なことにはお目にかかれなかった。
(なんて良い眺めなのかしら。……この身体の女は、興味もなかったみたいだけれど)
口元を歪めながら、リゼットはただ庭園を見下ろしていた。噴水にベンチ。お茶会で使うためのテーブルや椅子。
(まぁ、お茶会なんて開いたことがなかったっけ)
窓枠をとんとんと指でたたいて、リゼットは思い出す。そうしていれば、部屋の扉がノックされた。
規則正しく三回ノックされたのを聞いて、リゼットは「どうぞ」と端的に言葉を返す。
「お目覚めでしょうか、奥様」
深々と頭を下げた女性の格好は、侍女服だ。視線だけで彼女を頭の先からつま先まで観察して、リゼットは口元だけで笑った。
「えぇ、そうね。……けれど、随分と待たせてくれたじゃない」
呼び鈴を鳴らしてから、五分は経過しているだろう。侍女たるもの、主が呼べばすぐに来なければならないというのに。
(この侍女が遠くにいた……という可能性だって、ゼロじゃない。だけど、おかしいでしょう?)
この屋敷は広い。さらには、グランディエ伯爵家はとても裕福だ。使用人の層も厚いし、なにも侍女が一人だけというわけじゃない。ならば――もっとも近場にいる侍女が、来るはずなのだ。
「……奥様?」
「言っておくけれど、今後こんなへまはしないで頂戴よ。……私、気が短いの」
侍女の怪訝そうな顔に向かって、リゼットは唇を歪めた。艶めかしく、唇に指を押し当てて。
「そもそも、旦那さまだとこんなことはしない。……私が、気が付いていないと思っていたの?」
「……」
沈黙は肯定だ。彼女たち侍女にとって、リゼットは主ではないということなのだろう。
(それでも、リゼットは侍女をはじめとした使用人たちを責めなかった。優しくて、気弱な娘だったから)
目を伏せて、その桃色の髪の毛を掻き上げる。その仕草を、侍女がぼうっと見つめている。いや、この場合は見惚れているのか。
「今後、二度と同じことは許しません。ほかの使用人にも、伝えておいて頂戴。……あぁ、もちろん旦那さまに告げ口しても構わないわよ。ま、次いつ帰ってくるか、知らないけれどね」
リゼットの夫アーレンは、基本的に屋敷には寄り付かない。月に一度帰ってくれば、多いほうだ。だから、使用人たちが告げ口するのは早くても二週間後だろう。
「お、奥様……?」
侍女が、窺うようにリゼットを見つめる。……その目には、確かな怯えの感情が映っている。
今まで散々リゼットをバカにしてきた侍女が、こういう風に怯えている。……なんて、滑稽なのだろうか。
そう思いつつ、リゼットは窓枠に肘をつく。
「言っておいてあげる。二度は言わないわ。――今後、今までの私だとは思わないほうが、いいわよ」
「……あの、奥様」
「勤務態度が不真面目な使用人は、減給します」
「え、えぇっと……あの」
「返事をしなさい。……私は、この家の女主人よ」
はっきりとそう告げれば、侍女がびくんと身を震わせた。その姿を見て、リゼットは口元をまた緩める。
「じゃあ、よろしく。……あと、身の回りの世話はいらないわ。あなたたちみたいなのに世話をしてもらうほど、落ちぶれちゃいないから」
緩く波打つ桃色の髪をなびかせて、リゼットは歩いた。侍女の顔が、怒りからか赤く染まっていく。
「……失礼いたします!」
何処となく乱暴な足取りで、侍女が出ていく。どかどかと足音を立てて歩くその姿は、品があるとは言い難い。
(あの侍女は、問題児だったわ。確か、ほかの貴族の邸で不真面目な態度から追い出されたとか)
リゼットは優しくて気弱で。それ以上に――困っている人を見過ごせないほどに、お人好しだった。困っている人がいればすぐに手を差し伸べる。それで裏切られたことは、一度や二度ではない。
「さぁて、準備でもしましょうか」
それを思い出して、リゼットは淡々と部屋を移動する。寝室の隣に続く中扉を開けて、女主人の私室に足を踏み入れた。