prologue
大きな街の、比較的大きな通り。人々が行き交う歩道にて。男女が口論していた。
いや、この場合口論というわけではないのだろう。男性が一方的に女性に縋っている。それだけだ。
「アレイナ、どうか、捨てないでくれ……! 妻も子供も捨ててしまったんだ……!」
男性が女性のワンピースを掴んで、そう縋る。
「もう、僕にはアレイナしか――」
そう言った瞬間、女性は「はぁ」とため息をついた。その際に、彼女の緩く巻いた漆黒色の髪の毛が風に揺れた。
「言っておくけれど、あたしは妻も子供も捨てろと言ったわけじゃないわ。……あなたが勝手に、そう行動しただけじゃない」
「そんなっ……!」
女性が真っ赤な目で、男性を見つめる。その目には、なんの感情もこもっていないようだった。
「そもそも、あたし、あなたみたいな人眼中にないの」
男性の手を振り払って、女性がそう言って笑う。その艶めかしさに、周囲が感嘆のため息を零したのがわかった。
「あたしが好きなのは――あんたじゃ、ない」
はっきりとした拒絶の言葉だった。瞬間、男性がその場に崩れ落ちる。
そんな彼を一瞥することもなく、女性は歩いた。
(あぁ、今回もはずれだった)
緩く巻いた腰までの漆黒色の髪。何処となく気品を感じさせ、色っぽさを醸し出す真っ赤な目。
大きく開いた胸元に、細い腰。男性は女性を見つめて頬を染め、女性は悔しそうに歯ぎしりをする。
けれど、女性にとってそんなことはどうでもいい。
(今度こそあたしの理想の男かと思ったのに……時間の無駄だったわ)
高いヒールの靴で、石畳を踏みしめて。女性は歩く。かつかつという小気味よい音を立てて、ただ歩いた。
(視線はまっすぐ。背筋は正す。そうすれば、誰もがあたしに見惚れる。……この、『稀代の悪女』に)
『稀代の悪女』
それは、数々の男性を破滅に追いやってきたこの女性――アレイナ・バルフについた呼び名だ。
アレイナは男性を弄び、なにもかもを奪って捨てる悪女。そう、噂されていた。
が、実際は少し違う。
(あたしの理想。哀れで、愚かで、可哀想で。……目に昏い色を宿した、絶望した男)
ただまっすぐに歩きながら、アレイナは目を瞑った。一、二、三――。
(そんな男を――手に入れたい。そう、思っているのに)
四、五、六――。
(それだけ、なのにね)
七、八、九――十。
そこまで数えて、アレイナは振り返る。そこには、刃物を持った一人の男性が立っていた。
「アレイナ……。一緒に、死のう」
正直なところ、一緒に死ぬなんてごめんだ。確かにそう思っているのに。
(その昏い目。なんて素敵なのかしら。……点数にすれば、七十五点ね)
冷静にそう分析して、アレイナは笑った。
「正直、あなたと一緒に死ぬなんてごめんだわ」
「……アレイナ」
「だけど――」
――その、行動能力の高さは評価してあげるわ。