第四話 キス
ベロニカは、困り果てていた。
扉は分厚くて、開くような気配がない。窓もないし、壁も厚い。おまけに一緒にいる人間は、心から底からやる気がない。
次第に、焦りが募っていく。
誘拐じゃないとしても、最初はどうせ誰かの悪戯だろう、とたかをくくっていた。
勉強しかしていないベロニカに対する女子の当たりは、やや強い。特に、高位貴族の女子からは、位が低いくせに生意気だ、と嫌われているようだった。
ただ、もうここまで来ると、悪戯とか嫌がらせで終わらせられるレベルではない。
ニコロの発言を思い出す。
重すぎて扉が開かない?
だとしたら、扉の内側にいる自分達には、開けられるような方法がないじゃないか。
明日の式のことを考えると、憂鬱になる。もし、このまま出る手段が見つからなかったら、どうなる?
自分のこれまでの一切の努力が、水の泡に帰してしまう。
しかも、もっと悪い事態も考えられた。
もしかすると、最悪、自分の命も危ないかもしれないのだ。この部屋には見たところ、水も食料もない。こんなところに長時間、居れるわけがなかった。
こんな薄暗い場所で、しかも大嫌いな相手と一生を迎えるかもしれないなんて。考えただけでぞっとする。
「とりあえず、整理しましょう」
ベロニカは、落ち着いて呼び掛けたつもりだったが、なぜかニコロはけろりとした表情で堂々と座っている。
「あのねえ、最悪命の危機なのよ。わかってんの?」
「まあ、いいじゃん。俺ら二人がいなかったら、さすがに周りのやつらもが気づく。そのうち見つかるって。まあ、明日には間に合わないかもしれないけど」
どこまでも楽天的なニコロの発言に、一気に気が重たくなった。
入学してから無遅刻、無欠席を続けてきて、あれほど教師も誉められたというのに、こんな訳のわからない部屋に閉じ込められて、最後の最後で、この結果か……。
本当に、自分の人生はついていない。
「そんなに卒業式に出たかったのか?」とニコロが尋ねてきた。
「当たり前でしょ。あんただって、卒業するためにここまで勉強してきたんじゃないの?」
ベロニカは、苛立ちながら聞き返すが、あまりニコロが気にしている様子は無かった。
「卒業はしたいけど、あのおっさんが厳しいから、あんま卒業式に出るのは好きじゃないんだよなあ」とつぶやくニコロを、ベロニカはあきれ顔で眺めた。
おっさんとは、恐らく卒業式を担当している教師のことだろう。毎回、その厳しい中年の男性教師に、ニコロは「もっと、しゃきっとしなさい」と小言を言われていた。
「あのね、先生はいい人です。あなたような適当な男には、その価値がわからないだけ」
なるほどね、と頷くニコロ。
それを、ベロニカは苦々しい思いで見つめた。
しかし、不思議なことに、この教師にもニコロの評判は良かった。
一回、ベロニカは、苦情を申し立てたことがある。なんで、あんな男を学年の代表にするんだ、と。
心からの疑問だった。
だが、あれほど厳しい教師でもベロニカに対し、「まあ、根は悪いやつじゃないんだ」とニコロの肩を持つような発言をする。
根が良いとは、どういうことなんだ。
さっぱり、意味がわからない。
ベロニカは、もちろん面白くなかった。
自分は、こんな男と同格だと思われている。このちゃらんぽらんで、やる気も努力もせず、ただひたすら遊んで生きているような自堕落な人間と、自分が同じだと、評価されているのだ。
許せない。
「ん?」
ニコロに対する暴言を心の中で吐き続けていたベロニカは、不意にあることに気がついた。
ベロニカが身体を預けていた棚から見て、ちょうど真向かいの北側の壁に、何か見えたような気がした。
立ち上がって、壁の方へとふらふら歩いていく。
「お、どうした?」
ニコロが何事か言っているが、構っている暇はなかった。ベロニカの視線より遥かに上だから、何事か気がつかなかったが、よくよく見ると、文字が書いてあるように見える。
近づいてみるが、やはり高い位置にあって、どういう文字なのか、意味を読み取ることができない。
「なんて書いてあるんだ」
「うわっ」
ベロニカは思わず、後ずさりをした。心臓に悪い。すぐ横に、ニコロがいた。
「なるほど、文字が書いてあるのか」
へえ、と言いながら、ゆっくりとニコロが指で文字をなぞる。
「誰かが掘ったみたいだな」
「読める?」
ベロニカは下から聞いた。
これは自分にも運が向いてきたと言えそうだった。何かヒントがあれば、この部屋から出られるヒントさえあれば、何とかなるはず。
しかし、次のニコロの発言によって、そんなベロニカの希望的観測は木っ端微塵に、粉砕されることとなる。
「んん、何々」
一瞬、ニコロが止まる。
「何なの? 早く言ってちょうだい」
「いやいや、これは……。面白いな」
心底楽しんでいるような、ニコロの口調。
見るからに楽しそうに、口元がにやけている。
「『○○をしなければ、出られない部屋』って書いてあるな」
「はあ?」
ベロニカは思わず聞き返していた。
「○○って何よ」
そこを伏せ字にする意味がわからない。
「違う。読めないんだって。堀り方が下手くそなのか、何なのかわからないけど。とりあえず読めない」
あ、でも待てよ、とニコロが言う。
「二文字はギリギリ読めそうだ。『ス』って文字だ」
背伸びをしていたニコロが、再び座り込む。
「何とか、進んだみたいだな」
「まあ、そうね」
不承不承、ベロニカは頷いた。
目立つだけで、他には何の意味もない高身長だと思っていたが、今回はそれに救われた格好になった。ニコロがいなかったら、ヒントすら掴めなかったかもしれない。
「じゃあ、お互いにこの単語を特定するか。で、なんだと思う?」
なんでお前が主導権を握っているんだ、と言いそうになったが、ぎりぎり堪えた。こんなところで争っても仕方ない。
こんなアホとは、さっさとおさらばだ。
「しなければならないってことは、動詞なんじゃないの?」
腕を組んで考え込む。頭の中で可能性を列挙していくが、スで終わる二文字の動詞なんてあまり思い浮かばなかった。
「二文字って難しいわね」
「あの学院が誇る首席様でも分からないのか。どうしようもないね」とニコロがからかってきた。
カチンと来た。
「じゃあ、あんたの案を言ってみなさいよ! どうせ出てこないんでしょ。出てこない癖にぐちぐちと人の足を引っ張って……」
「キスだ」
ベロニカは、口をあんぐりと開けた。
耳を、疑う。
この馬鹿は、一体何を言っているのだろう。自分達は謎の部屋に閉じ込められて、危機的状況に陥っている。
今の時間はわからないし、明日の卒業式に間に合うかすらもわからない。外部からは遮断されて何もかもわからないのだ。
いや、もしかしたら、このまま命を終えるかもしれない。そんな絶体絶命の状況。
それにも関わらず、ここで出てきた言葉が、キス……だと。
もうたくさんだ。さっき若干見直そうと思ったのも、前言撤回である。
ベロニカは、ありとあらゆる憎しみを込めて、ニコロを罵った。
「馬鹿っじゃないの!!! この変態!!!」