第二十話 喰えない男
それから、どれだけ時間が経ったのだろう。
一時間か二時間か。ひょっとしたら十分も経っていないかもしれない。
頭が、ぼうっとしてきた。
キスをしていないような、何回もしてしまったような脱力感。
どろどろと意識が溶けていく。
もう、何も考えられない。
そうこうしてうちに、もうニコロにすべてを任せてもいいのでは、と思い始めてしまった矢先、突如、物凄い音が鳴り響いた。
無理矢理、何かをこじ開けるような、酷い音が轟く。
大勢の掛け声のような音に、どたばたと、階段を降りてくる音。
意識が、覚醒する。
ベロニカは我に返った。
明らかに自分達以外で、階段を駆け降りてくる人間がいる。
地下室に、人が入ってきた。片手には、小型のランタンが揺れている。
人影は、入り口で息も絶え絶えに大声を出していた。
「ベロニカ! いるの?」
自分を呼ぶ声が、聞こえた。
「……ピーアなの?」
懐かしい友達の声に、ベロニカは放心状態で返事をした。
ピーアだ。
大体の人は、ベロニカとピーアが仲良くしているのを見ると、不思議そうな顔をする。
二人の性格が、正反対だから。
成績優秀だが、人付き合いの悪いベロニカと、顔が広く話好きなピーア。二人で話すときだって、マシンガンのごとく、基本的にピーアが喋りっぱなしになる。ベロニカだって、寮の部屋が同じじゃなかったら、恐らく関わることもなかっただろう。
それでも、ピーアはやはり駆け付けてくれた。本当に頼りになる友達だった。
涙が、溢れそうになる。
声を聞いて安心したのは、ピーアも同じだったようだ。
ほっとした様子のピーアが堰を切ったように話し出した。
「良かったあ。寮のみんなで探してたんだよ。みんな心配しててさ。そしたら、男子も手伝ってくれたんだ。男子も、この辺でニコロ君を探しているらしいよ。それにしても、変なところにいるね。表の扉は何なの、あれ? 男子十人がかりでやって開けられたよ」
のんきな声が近づいてくる。
そのとき、ベロニカは自身のミスに気が付いた。
まずい。
現状、部屋のある光源は二つしかない。
ピーアの持つ手持ちのランタンと、ソファの横に置いてあるランタンである。ピーアの持つ小さな光源では、手元しか照らせないし、部屋に置いてあるランタンも燃料が尽きかけているのか、光が弱くなっている。
それに、ちょうど階段側の入り口から奥のソファの間には、ちょうど柱があって、直視することができない。
つまり、ピーアには、こちら側がよく見えていない。
「ちょ、ちょっと待って! そこで、そこにいていいから!」
部屋の入り口にいるピーアに、必死で呼び掛ける。
「え~、なんでよ。せっかく迎えにきたのに~。退寮の準備も終わってないんでしょ。もうみんな荷物まとめちゃってるよ~」
ピーアはベロニカが遠慮していると思ったらしい。
「水くさいなあ、もう」と言いながらどんどん近づいてくる。
「お待たせ~」
無邪気な顔で寄ってきたピーアの笑顔が、一瞬で固まった。
ベロニカは、恐る恐る自身の格好を客観的に捉えてみた。
ソファで密着する男女。
息を切らし、乱れた服装。そして、おそらく真っ赤になっているであろう自分の顔。
「え、なに、どういうこと」
口をあんぐり開けたピーアは、もう一人の人間がニコロだと認識した瞬間、ニコロに食って掛かった。
「あんた、どういうつもり? ベロニカに何しようとしていたの?」
どうやらピーアは、ニコロがベロニカを襲ったと解釈したらしい。
ありがたいことに、学院の人気者にも怯まない彼女の友情に涙が出そうになるが、ここで騒がれると、話がややこしくなってしまう。
ベロニカは、服を整えながらピーアに説明しようとした。
「いや、違うの。これはね、いやあの、そういうことじゃなくて」
「ベロニカ。全部言わなくて良いわ。私が一発ガツンと言ってあげる」
ああ、もう最悪だ。
完全にピーアは戦闘体勢に入っていた。普段は姉御肌の彼女に何度も助けられているが、今度ばかりはタイミングが悪すぎる。
「こ、これは無理矢理とかじゃなくてね」
「ええ?」
ピーアが不思議そうな顔をする。
「ってことは、合意なの? あんなにニコロ君のこと、ボロクソに言ってたじゃん。反吐が出るほど嫌いとか、遊ぶことしか能がない男とか、顔が良いだけの性格がねじ曲がったクソ男とか」
ベロニカの背後から、「お前さあ」と呆れたような声がした。
「いや、あの、それは別で……」
ベロニカはもじもじ言うが、なおもピーアの追撃は止まらない。
「え、じゃあこれは、ベロニカがやりたくてやってることの? ベロニカはこういう格好が好きなの? 一瞬、二人が抱き合っているようにも見えたけど、ベロニカは誰かに抱きつくのが好きなの?」
「いや、やりたくてっていうか、その、何て言うか。べつに抱きつきたいって欲望がないこともないけど……」
ベロニカはもごもご言葉を濁した。
「ああ、完全に合意だ」
何気ない顔をしてニコロが入り込む。
「というか、さっきベロニカの方からキスしてきた」
「あんたは黙ってて! というか、さっきあれはキスじゃないって言ってたじゃない!」
ペラペラと余計なことを喋り出さないようにと、釘を刺そうとしたベロニカは、後ろを振り向いて、言葉を失った。
目の前には、既に服を完璧に整えて、落ち着いた表情で微笑むニコロがいた。まるで、誰かが来るのを待ちわびていたような余裕っぷりである。
「ピーアさんだっけ? ありがとう。上のやつらに、ニコロがいたって言ってくれないかな?」
「ああ、たしかにそうだね」
そう言い残して、我に返ったピーアが急いで再び、階段を駆け上っていく。
だだだ、という音が連続的に聞こえた。
「ど、どういうこと? なんで、ピーアがこの場所に来たの?」
事態をさっぱり飲み込めなかったベロニカが尋ねる。
「言っただろ。やれることはやったって」
そう言いつつ、ニコロが自身の首の部分を指差した。
さっぱり、意図が読めない。
「首? 首がどうかしたの?」
「一応、俺は明日の総代だぞ。いくら遊ぶしか能がないダメ男でも、ネクタイくらいちゃんと準備してるに決まってるだろ。大体、俺、寝ないで式に参加するつもりだったし」
――本当にだらしない。ネクタイくらい、ちゃんとすればいいのに。
あっ、とベロニカは口を抑えた。
そうだ。自分はニコロの服装があまりにも乱れていて、それが気に入らないって、ずっと思っていた。
気付いたか、とニコロが笑う。
いたずらが成功した子供みたいな笑顔だった。
「そっちが嫌そうに見つめてるのは気付いてたさ。ただ、仕方なかったんだよ。この建物に入るときに、表の方に目印として掛けておいたからな」
「なにそれ。何も教えてくれなかったじゃん!」
ベロニカは愕然とした。
そんな重要情報を全く教えてもらっていない。
「だって、教えてなんて言われてねーもん。聞かれたら、全然教えるつもりだったけど」
してやったり、というニコロの顔。
「あんたねえ……!」
憎たらしい顔だ。
そういう大事なことは、さっさと話すべきだろう。
「教えてくれてたら、あんなに焦ることなかったのに!」
「いやあ、俺も不思議だったよ。なんで聞いてこないのかなってずっと思ってた」
「この…」
ベロニカは、歯をぎりぎりと噛み締めた。
得意気に高笑いするニコロ。
ああ、もう。本当にこの男は……。
ドタバタと階段を降りてくるピーアの足音が聞こえた。
まず第一に考えるべきはこの状況をどう説明するかだな、とベロニカは思った。
常日頃から、あんなに言い合いをしてる男と二人っきりだなんて怪しすぎる。あまりにも怪しすぎる。
「ニコロ君! みんなわかったって。今、上の扉を固定しているとこ」
ありがとう、とニコロが答えた。
息を切らしたピーアが続ける。
「ベロニカ! 式間に合うの? もう、早朝だよ!」
「えっ」
ベロニカは、固まった。
「ほ、ほんとですか……」
見れば、いつも余裕な態度を崩さないニコロも、やってしまったという顔をしていた。
「だから、不味いんだって! 寮の荷物も運び出してないし、何もやってないじゃん! スピーチも考えたの? 早く表に出なって。もうみんな準備し始めてるよ! 服整えて! お風呂入って! スピーチも!」
部屋が活気付く。
大慌てするピーアに、魂が抜けたような顔で「スピーチが……」とうろたえるベロニカ。
上からは、がやがやと声が聞こえた。ニコロの友人たちだろうか。
大騒ぎは、当分続くような気がした。
しかし、ベロニカは気がつかなかった。
そんな狂騒の中、一人だけ嫌に落ち着きを払っていた男がいた。
ニコロ・ボレルだけは、頭を抱えているベロニカを楽しそうに見つめていた。




