第十九話 キスの定義を述べよ
ベロニカは、条件を提示した。
まず、出られたとしても、ここであった出来事を誰にも言わないこと、だ。
ニコロを疑っている訳ではないが、あのベロニカとキスをしたぜ、なんて噂が立ってしまったら困る。
自分はそれほど尻軽な女ではない。
次に、キスをしたとしても、それでイコール、付き合ったという訳ではないということだ。
「勘違いしないでね」
きっぱりと宣言する。そうしておく必要があった。
「このキスは、あくまで非常用。確かに仲直りはしたけど、全部が全部、昔のことを忘れた訳じゃない。ここに来てくれたことへの感謝としてキスするだけであって、別に昔のような関係に戻るってことではないから」
「了解、了解」
全く理解していなさそうなニコロの口調が気になるが、放っておくことにした。
「そして最後に、ここから出たら元通りの関係を維持すること」
つまり、いつものように犬猿の仲に戻りましょう、ということだった。
仲直りしたというのは、二人だけの秘密で良い。誰にも言う必要はなかった。
自分たちの中で、思い出にすればいい。
だって、
「これからは、別々の人生を歩んでいくんだから」
「おっけーおっけー」
「ねえ、本当にわかってるの?」
ニコロのにやけたアホ面を睨む。
目の前の男は、露骨にテンションを上げていた。あのまま、床に放置しておくべきだったかもしれないと思うが、後の祭りというやつである。
「じゃあ、キスしますか」
散歩でも行くか、みたいな軽さで、ニコロがキスを始めようとした。
「え? も、もう?」
ベロニカは思わず後ずさりをした。
心の準備が、全然できていない。
「そういう話だったろ?」
ニコロが、余裕ありげに笑う。
「大丈夫だって。任せろよ」
「え、何を? 何を任せるんですか」
パニックのあまり、口から丁寧語が飛び出す。思考が、追い付かない。
「もうちょっと、こう、余韻というか、なんかこう、段階を踏んだっていいじゃない!」
「ふうん、どんな?」
「どうって、デートとか、もうちょっと、時間を使ってさ」
ニコロが何か残念なものを見たような顔をして、天井を仰ぐ。
「あのなあ。ここは地下室だぞ。どこでデートするんだよ。地下室を一周でもしてみるか? それに、これ以上、どう時間をかけるんだよ。卒業式を一番心配してるのはそっちだろ」
「うっ。いや、まあ、それはそうだけどさ……」
「あ、そうか」
わかったぞ、とニコロが頭を撫でる。
大きな手がベロニカの髪をわしゃわしゃ解かす。
まるで、愛しいものを扱うように優しく撫でられた。
「なに、その変な手の動きは」
やめなさいよ、とニコロの手を振り払う。
「ごめんな、ベロニカ。やっぱ怖いんだよな。気づいてやれなくて、ごめんな」
にこやかな笑顔で放たれた発言に、ベロニカは、イラっときた。
いや、イラっとしてしまった。
たった十数分前に、六年ぶりの仲直りを果たしたとしても、ここ数年間、ベロニカはニコロとしょっちゅう言い争いをしていた。
朝に噛みつき、昼に喧嘩し、夕方には捨て台詞を吐く。そのような間柄だった。だからこそ、今のような見下された発言には、我慢ならない。
ベロニカの負けず嫌いに火がついてしまった。
元々、ベロニカは筋金入りの負けず嫌いである。だからこそ、並みいる名門貴族の子息を押し退けて総代にまでなれたのだ。もちろん、名門貴族の方が教育環境も整っている。それに対抗できるほど、ベロニカの競争心は強かった。
「いいわよ、やってやるわ」
そう言って、ベロニカは佇まいを正した。ソファの上で体勢を整える。
目の前には、ニコロの顔。
――あの人いるじゃん。ベロニカがいつも喧嘩している人。あの人、イケメンだよねえ。
ピーアが前にそんなことを言っていたような気がする。
それに対してベロニカは、「目が悪いんじゃない? 一回病院に行くべきね」と冷たく言い返したのだ。
今、ニコロの顔を目の前にして、やっとベロニカはなんであれだけ女子がニコロを見て騒ぐのか、理解できた。
格好いい。
悔しいことに、格好良かった。
ニコロは、目鼻立ちがくっきりとしている。それだけだったら、学院の中でも、同じくらい整っている男子はいそうだが、ニコロが他の男子と違う点は、その笑顔だ。
何と言えばいいのだろうか。ニコロの顔立ちだけを見ると、少し冷たそうな印象を与えるのに、笑うと、絶妙に隙がありそうな優しい雰囲気になるのだ。
今だってそうだ。ぼんやりとした灯りに照らされたニコロには、匂い立つような色気があった。
まずい、とベロニカは危機を感じていた。
普段は、ヘラヘラしていて知性のない顔だ、と散々ニコロに文句を言っていたが、いざ目の前でキスするとなると、緊張し過ぎて、相手を直視できない。
「まだ決心がついてないのか?」
からかうニコロに、ベロニカは慌てて指を指した。
「いいけど! してもいいけど、目を瞑って! こっちを見なくて良いから」
これはベロニカの譲れない部分だった。
キスでさえ恥ずかしいのに、それを間近で見られるなんて、とんだ恥だ。絶対に阻止しなきゃいけない。
はいはい、とニコロが素直に目を閉じる。
「くっ……」
よかった、と思ったのもつかの間、ベロニカは瞬時に後悔した。
目を開けさせといてといた方が、よっぽどマシだった。
さっきまでのへらへらした感じが消えた今、ニコロの顔面をダイレクトで見なければならない。
真顔で目を瞑るニコロは、元々の端正な顔そのままである。優しい雰囲気が消えたが、これはこれで悪くない。こういう冷たい感じも悪くない。
ベロニカは思った。
いや、違う。これでは、わざわざ視線を封じた意味がないじゃないか。
急いで、顔ではなく、その下のニコロの身体を眺めることにした。
「うっ……」
しかし、これも大した打開策にはならなかった。乱雑に着崩したシャツの中から、鎖骨が見えてしまう。
ちらりと見える鎖骨。ただの骨だ、と自分に言い聞かせたが、妙に惹き付けられる。
変態だ、とベロニカは戦慄した。この男は、自分に鎖骨を見せつけようとしている。なんと破廉恥で、なんと変態的な行為。
ちゃんとシャツを着ろ。ネクタイを巻け、と言いたかった。
こんなの許されるはずがない。
「いつまで、目を閉じてりゃいいんだよ」
そわそわし始めたニコロに一喝する。
「うるさい、黙って!」
落ち着いて、深呼吸をする。
そうだ。逆にこう考えればいいのだ。たしかに、ニコロはいい男だ。顔もいいし、家柄も良く、頭もいい。学院の人気者。
やっぱり、自分とは違う。勉強くらいしかできない自分なんかとは、何もかもが違う。
ニコロが何でキスをしたい、と言い始めたのかは、わからない。
ただ、ここで、キスをしたとしても、それはここだけの話だ。ベロニカが宣言した通り、どうせ、キスだけすれば、また次からは元通りの関係に戻るのだ。
明日には卒業するから、もう当分話す機会はないのかもしれない。それでも、何年後かにぱったりどこかであったとき、前のように自然な感じで話せたら、それで満足だった。
そうだ。こんなのはただの確認作業……。
ごくり、と唾を飲み込む。
もうさっさと、終わらせよう。
ベロニカは意を決して、自分の顔を近づけた。
反射的に、目を閉じる。
唇が、触れ合う感触が伝わった。
もう、何が何やらわからなかった。わかったのは、何か柔らかいものに触れた、という事実だけ。
その後、ベロニカはすぐさまに距離を取った。
キスの余韻も何もない。ただ、自分はとんでもなく恥ずかしいことをしたという自覚はあった。
「はい! これで終わり! 終了!」
大声で、宣言する。
地下室に目一杯、ベロニカの声が反響した。
急いで扉の方に耳を澄ませると、予想通り何の音もせず、開いたような形跡もない。
安心した。
よかった、良かった、とベロニカは心の底から思った。やはり、キスごときじゃ、何も変わらないんだ。脱出には失敗したが、まあそれでも良い。
とりあえず、もう二度とあんな恥ずかしい行為をしたくはなかった。
これで終わりだ、と安堵しきっていたベロニカの耳に、ニコロのあきれ声が届いた。
「お前さあ……なに、今のキスは」
面を食らう。
「なにってキスじゃない。それ以外に何があるの?」
はあ、とニコロが大きなため息をついた。心なしかちょっと怒っているようにも見える。
「本当、昔から、ベロニカってそういうところがあるよな。そういう空気読めない感じ?」
「どういうことよ。別に、空気が読めないってことはないと思うけど……」
「一つだけ、聞かせてくれ」
いつになく真剣な顔をしたニコロが尋ねる。
「お前は、あれが、キスだと思ってるんだな」
「ええ、そうよ」
ベロニカは思い返していた。
唇と唇が触れあう。どこから見ても恥ずかしくない立派なキスじゃないか。
「いいや、違うね」
もう一度、ニコロが大きくため息をついた。
「やっぱり、ベロニカはベロニカだな。どれだけ勉強ができるようになったとしても、根本的なところで、何かずれてる」
小馬鹿にしたようなニコロの言い方に、カチンときた。
「どういうことよ」
矢継ぎ早に反論する。
「言っておきますけど、別にどこもずれてませんから。まあ、どっちにしろ、開かなかったんだから、部屋を出るのにキスなんて関係がないのよ。はいはい、これでキスの話は終わりだから」
ニコロが耐えられないといった様子で、頭を振る。
「これだから、ガリ勉のお子ちゃまは困るんだ」
「何ですって……?」
ガリ勉に、お子さま。
ベロニカの嫌いな単語が、続々と出てくる。ベロニカは子供扱いされるのが、特に嫌いだ。
ベロニカも、ソファの上で、ニコロと向き合った。
「キスの定義を、言ってみろよ」
不意に、ニコロ言った。
「キスの定義……?」
聞きなれない単語に耳を疑う。
「優等生なら、答えられるだろ」
小馬鹿にしたような、ニコロの笑み。
いいわよ、そんだけ言うなら答えてやるわ、と思ったが、暫し、ベロニカは黙り混んだ。
あれ、そもそも、キスってどんなものだったっけ。
ベロニカには、キスの経験がなければ、手を繋いだ経験もない。ニコロの一件以来、すべてを勉強に捧げてきたからだ。男子に話しかけられても相手にせず、誰か紹介してあげるよ、という話にも首を横に振り続けてきた。
結果、ベロニカの恋愛に関する知識と言えば、数少ない友人たちの体験談を何となく聞いているのみであった。
「その……あれじゃない」
ベロニカは、今まで聞いたことのある経験談を高速で思い返していた。
「やっぱりキスっていうのは、その、こう、好きな人とするやつで……」
「その通りだ」
他にないか、とニコロが聞いてくる。
「そう言えば、友達は……相手と離れたくないって言っていたような」
そう言えば、ピーアも、デートがずっと続けばいいのに、とぼやいていたような記憶がある。
「じゃあ、それを踏まえて、さっきの自分のキスをよく考えてみな」
ベロニカは、ゆっくりと先程の自分の行動を振り返っていた。
目を閉じて、相手の唇にふれた。うん、ここまでは問題ない。我ながら、完璧なキスだ。
その後はどうだったか。
たしか自分は、キスして、恥ずかしさのあまり、速攻で距離をとって、ニコロを遠ざけていたような……。
「なあ」
ニコロが呼び掛ける。声に謎の圧力があった。
「どこのカップルが、キスした瞬間に、速攻で離れるんだ?」
わかるだろ、と笑うニコロ。しかし、全然眼が笑っていない。
「今のは唇と唇が、ぶつかっただけだ。単なる事故」
「な、なるほど。わかったわ、今度から、今度から気を付けます」
ベロニカは、じりじりと後ろに下がった。
聞いていない。こんなニコロは知らなかった。どうやら、ニコロはベロニカが思っていたよりも、情熱的なタイプだったらしい。
「じゃ、じゃあ、今回はこれで終わりということで……」
「気を付けるじゃないだろ? 次は、俺の番だ」
「ちょっと待ってよ! 昔は、そんなキャラじゃなかったくせに!」
「ああ。あの時、勇気を出さなかったせいで、六年間ずっと後悔した。今回は絶対に譲らない」
真剣な表情のニコロが迫る。
後ろに下がろうとするが、もうソファは行き止まりだった。
「ねえ、ちょっと待って。なんで急に手を握るの?」
握りかたもすごい。ベロニカは握手くらいでしか、他人の手を握った経験はない。
しかし、ニコロの指は、ベロニカの指に絡め取るように、動いていた。気が付けば、右手は完全に固定されていた。
所謂、恋人繋ぎという形だ。
「なに、このタコみたいな握りかたは!」
「手を握るくらい普通だろ? どこのカップルもやってる」
「別に私たち付き合ってるわけじゃ……」と抗議をするが、ニコロは構わず迫ってくる。
集中力が続かない。
心なしかベロニカは、息が荒くなっていた。
もう、密着するほどの位置にニコロがいた。右手は握られていてコントロールできないし、左手は、ソファの端に寄り掛かっていて使えない。
ベロニカは懸命にこらえた。左手を離せば、ニコロを押し退けるのに使えそうだったが、それはそれで、完全に自分がソファに寝転ぶことになり、ニコロがそれに覆い被さるような形になってしまう。
「不味いよ。不味いって!」
ベロニカは必死に抵抗した。
「ねえ、もうすぐ卒業式なんだよ。外の時間はわからないけど、もう日付は変わってるって。もう、今日だよ! ねえ、本当にわかってる?」
「どうだっていいだろ。俺だけを見てろ」
普通に言えばいいのに、なぜかニコロは耳元で囁くようにいう。
「普通に喋れ!」
「顔、真っ赤だな」
「ああ、もううるさい! うるさい! この馬鹿!」
思いっきり手をじたばたさせる。
こんな恥ずかしめを受けて卒業式に出られる訳がない。ベロニカは必死だった。
「そういうとこも、可愛いよな」
「はああああああ????」
なんで、このタイミングでそんなことをいうのか、ベロニカは理解ができなかった。
頭がぼやける。
さっきまでに何とか形になりかけていたスピーチの案も、とっくに吹っ飛んでしまった。せっかく、いい感じのスピーチの完成図が思い浮かんでいたのに。
「黙れ変態!」
悔しさのあまり、ベロニカは吠えた。
「みんなに言ってるくせに! みんなにこういうことやってるくせに!」
馬鹿馬鹿馬鹿、と罵る。
気がつけば、ベロニカは完全に抱き締められていた。密着したニコロの身体から熱、鼓動が伝わってくる。
背中には、ニコロの手の平が添えられていた。
息もできないくらいに、ベロニカは混乱していた。
何とか脱出しようともがくが、ゴツゴツとしたニコロの身体は――意外に筋肉もしっかり付いているせいか――ベロニカを離してくれない。
「ベロニカにしか言ったことはないよ。大丈夫だって」
優しくニコロが顔を撫でる。
ああ、なんでこういう時に限って、少し昔のような口調に戻るんだろう。
ベロニカは、夢中で叫んだ。
「だいじょばないから!」
ベロニカが記憶しているのは、ここら辺までだった。
それ以上の記憶はない。
恥ずかしくて、自分自身覚えていないのだろう。
薄れ行く最後の記憶で、ベロニカは無我夢中になって、ニコロに言い返していた。
「馬鹿じゃないの! どさくさに紛れて髪に触んないでよ! ダメ! 首もとに触るのも禁止! 太ももを勝手にさわるな! 脇腹も! 変態! ばか!」