第十八話 そんなのあり得ない
「おい、なんでそんな遠くに行くんだよ。こっち来いって」
当たり前だという表情をするニコロを、ぽかんとした顔で、ベロニカは見つめた。
衝撃だった。
何かを言おうとするが、あまりの衝撃に口をぱくぱくさせる以外に方法がない。
「え、え、な、なんで?」
いまだに、放心状態である。
「だって、キスしなければ出られない部屋なんだろ。そう書いてある」
ニコロが顎で壁の方をしゃくる。当然だろ、とこちらを見つめてくる。
むしろベロニカが間違ったことを言っているかのような言い方に、ベロニカは必死に反論した。
「いやいや、おかしいでしょ、どう考えても。というかさっき、どうせ噂話だって結論が出たじゃない!」
慌てて下がってきた眼鏡を手で抑え、もとの位置に調整する。
おかしい、おかしい。絶対におかしい。急にどうしてこうなった。
「噂話だってのは、あくまでベロニカがそう言ってただけだろ。もしかしたら、本当にキスしたら、出られるかもしんない」
完璧だ、と頷き拍手するニコロを見て、頭痛がしてきた。
こいつ、正気か?
もしかして、体温が下がりすぎた余波で、頭がどうにかなってしまったんじゃないだろうか。
「俺は正気だぜ」
こちらの疑問を見透かしたかのように、ニコロがさらりと答える。
信じられない思いで、ベロニカは階段を上がった先にある分厚い扉を思い起こした。
キスしただけで、あんな扉が空くというのだろうか。
全く意味のわからない仕組みだ。
大体、意図が読めない。
もし、閉じ込められたのが、男性二十人とかだったらどうなる。全員で組を作ってキスし合え、とでも言うのだろうか。
狂ってる。狂気の世界だ。
というか、部屋にいる人数が奇数だったら、どうするつもりだ。その場合も、全員が過不足なくキスするように、ちゃんと計画的なキスをしなければいけないのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。
ベロニカの頭脳は、すぐさま結論を下した。
これでも、自分は首席だ。伝統あるこの学院の首席兼総代である。学院の歴史に名を残す存在だ。
追い詰められたときほど、冷静に客観的に反論しなくては……。
「そんなのあり得ないわ」とベロニカはびしっとニコロを指差した。
「第一に、キスしたら出られるっていう仕組み自体が意味不明だし、第二に、ニコロの話じゃ、ここに何かを仕掛けたのは、サブリーナなんでしょ? 彼女が、キスをすれば部屋を開けるという仕組みを作る理由もわからない」
動転しすぎていて、最早、ニコロの名前を呼ぶかどうか迷っていたことすら、忘れてしまった。
一旦、呼吸を整える。
「そして、最後にキスだけして、何も起きないって場合もあり得るわ」
ベロニカは言い切った、と確信していた。
ここまで理由を述べたからには、ニコロだって諦めてくれるはず。
さっさと、昔の純粋な少年に戻ってほしかった。ベロニカの知っているニコロは、おとなしいけど、優しくて素敵な少年だったはず。
あの頃のように、ふんわり笑う少年に……。
断じて、かつてのニコロは、キスキス言うド変態ではなかった。元のニコロに戻ってくれ、と切に願う。
もう何年も心の中で思っていた男性が、こんなのって……。
まるで、詐欺である。
しかし、さっきまでのシリアスな感じを全て忘れてしまったかのように、ニコロは「いいじゃん」と言い切った。
「やっぱ、あんた女の敵ね」
ベロニカは、軽蔑の視線を向けた。
そうだ、忘れていた。ピーアからの情報を思い出す。この男は学年一の遊び人なのだ。
油断してはならない。
今までもどうせ、散々遊んできたに違いない。ニコロと遊びたい女子生徒なんて大勢いるだろう。キスもお手のものというわけだ。
こっちは、ずっとニコロのことを思っていたというのに、これじゃ余りにも不公平である。
なぜか、胸が異様にムカムカする。
「せっかく仲直りできたのに、なんでそういうこと言うのかな」
「そうじゃない」
イライラするベロニカとは打って変わって、ニコロはふてぶてしいほどに余裕だった。
「あくまで可能性を模索すべきだってこと。明日まで、見つからない可能性だってあるし、最悪、もっと長引く可能性だってあり得るんだぜ。いっそ願掛けでもいいから、キスに頼るのも悪くないんじゃないか」
ニコロの真剣な眼差しが、こちらに向けられる。
「あと、別に俺はそんな遊んでる訳じゃない」
「はいはい、そうですね」
普段のニコロの女性人気を聞いていた身としては、信じられなかった。
どんな犯罪者だって、最初は自分が犯人ではない、と言い訳すると聞いたことがある。ニコロもどうせ、そういう類いだろう。
「あんなに、女子と遊んでるじゃん! いつも、カッコいいとか、きゃあきゃあ言われちゃってさ」
ついつい、すねるような口調になってしまう。
「私、聞いたことあるから。隣の部屋の子がニコロと遊んでるって言ってたの」
「いや、それは違うって!」
目の前のニコロが慌てる。
「言っておくけど、こっちは結構一途だからな。いつも遊んでる面子に聞けばわかる。俺は誰ともキスする訳じゃない。たぶん、その子はたまたま、パーティーかなにかで会ったんじゃないか」
「ふうん」
「ごめんなって。なあベロニカ、怒ってるのか?」とってつけたように優しく言うニコロに対し、
ベロニカは「別に怒ってません」と無表情で返した。
「じゃあ、あなたの素敵な婚約者とは? さぞ、もう色々してるんでしょ?」
「よく部屋に来ないかとは誘われるけど、行ったことはない」
ニコロが、部屋の隅を見つめながら言った。
「まあ、あいつは関係ないさ。どうせ、家の格式がなんだとかいって、親同士で決めた婚約だ。貴族の結び付きだよ」
「まあ、そう言われてみれば……」
たしかに、ニコロの弁解は多少は信頼できそうだった。
というのも、ベロニカは今まで、ニコロが誰か特定の女子と付き合っているという噂を聞いたことがなかったのだ。
どちらかと言えば、ニコロは男女の区別なく、分け隔てなく接するタイプだと言われていた。
そして、サブリーナについても、むしろ二人きりでいることを避けているような気配すらあった。
そう考えると、今までずっとベロニカのことを思っていたというニコロの決意は、嘘じゃないように思える。
「う~ん」
「それとも……俺が嫌なのか?」
目を伏せて、下を見るニコロ。
急にしおらしく、俯いた。
「俺のことが嫌いだって言うなら、強制するつもりはない。」
その落ち込んだ声に、罪悪感が刺激される。
「別に……その……嫌いって訳じゃないけどさ……」
「本当か?」
ニコロが顔をほころばせる。
「あんたねえ…」とベロニカはため息をついた。
一体どういうテンションの差だろうか。
正直なところ、ニコロが嫌な訳ではない。自分だって、ずっとニコロのことが心の片隅にあったのだ。そんな相手が、自分を助けるためだけに、この部屋に閉じ込められることを選んだ。
嫌いなわけがない。嫌いだったら、ここまでドキドキしてはいないだろう。
キスくらいなら、してもよかった。
ただ、六年間前のような関係に戻るには、時間が経ちすぎてしまった。
もう自分達は、あのころには戻れない。
気持ちを振り払うように、ベロニカは言った。
「いいけど、条件があるわ」