第十五話 かつて
「それ、本当の話か?」
卒業式の前日。
ニコロは普段通り過ごしていた。本来ならば、何事もなく終わるはずだった。
しかし、小耳に挟んだ噂話を聞いた瞬間、ニコロは思わず走り出していた。
――ベロニカが、一人で、校舎とは反対の方向に向かった。
嫌な予感がした。
この時期に移動するような理由なんて、そうそうない。それなのに、なぜそんな場所へ行くのか。
「あの女……」
ニコロの脳内に浮かぶ名前は、ひとつしかなかった。
サブリーナ。
ニコロと彼女の関係は微妙だった。確かに婚約はしているものの、別にニコロは殊更に仲良くしようと言う気持ちもない。
「私のニコロ様」と声高に叫ぶサブリーナを白けた目で眺めていた。
学年が上がるごとに、サブリーナの評判は下がる一方だった。
しかし何よりも、ニコロが危惧していたのは、サブリーナがベロニカに目を付け始めていることだった。
もちろん、ニコロはベロニカとの過去を誰にも話したことはなかったし、匂わせたことすらもなかった。
それでも、サブリーナにとって、ベロニカは「ニコロとわざわざ話したがる泥棒女」らしい。
その事実を知ったときから、ニコロはできる限り、ベロニカを守るように努めた。
ベロニカがサブリーナに人気のない場所に呼ばれたと聞けば、わざと友人を連れて馬鹿騒ぎをしたし、ベロニカについても、できる限り情報を集めていた。
だが、まさかこんな時期に、動き始めるとは。
卒業式の前日、誰もが浮かれる期間に動き出すとは思いもよらなかった。
サブリーナは執拗だ。ただ、無駄に歩かせて終わるとは、到底思えない。
一方で、ニコロはこうも思う。
一番悪いのは自分だ、と。
そもそも、自分がベロニカに一切関わらず、サブリーナの相手だけしていれば、こんなことにはならなかった。
けれども、自分は抗えなかった。ベロニカと、どうしても話したいと言う欲求に抗えなかった。
だからいつも、こんな結果を招いてしまう。
ニコロがベロニカを見つけたのは、校舎からかなりの距離を歩いたところだった。
焦って途切れがちになる息を、整える。
ベロニカを見て、ニコロは一応安堵した。何とも無さそうだった。
声をかけようか迷ったが、結局やめておいた。わざわざ話しかけて、ベロニカに疑問を抱かせるのはまずい。
自分はただ、裏方でいい。
木が生い茂る方をわざと選び、バレないように細心の注意を重ねる。そのまま、ニコロは後を追った。
やがて、開けた場所に、ぼろぼろの建物が姿を表した。
思わず、舌打ちをする。
その建物を見て、ニコロはおぼろげに思い出していた。
「ねえ、ニコロ様ぁ」
ねっとりしたサブリーナの声。
サブリーナは、どうしてもニコロを名前で呼びたい、と何度も媚びた目線を送っていた。
「わたくし、すっごい場所を発見しちゃったんですわ。知っていますか、学院の端の方に、一軒すっごく古い建物があるんですの」
「へえ」とそっけなく返事をする。
「本当に薄汚いところなんですが、面白いことに、地下室があるんです」
「地下室?」
ニコロの興味を引けたとわかったサブリーナは、嬉しくてたまらないといった様子で、身体を揺らした。
「そうなんですよ。なんと、かつては捕虜を閉じ込めるための牢屋だったとか」
「ふうん」とニコロは空を見上げながら答えた。
真っ昼間からそんな話を聞かされてもな、という感じだった。
ただ、一応相槌は欠かさない。父からは、サブリーナ嬢の機嫌を損ねるな、と厳命されていた。
「その扉がまた凄いんですよ。とてつもなく重いんです。つまり、罠ですよ罠」
楽しそうにサブリーナが、にたにたした笑みを称える。
「ちょっと扉に押すだけで、中に入ったが最後、扉は閉ざされるというわけですわ。生意気な学生一人や二人くらいなら絶対開けられませんの」
サブリーナはそう言いつつ、恍惚とした笑みを浮かべた。きっと、自分の気に食わない相手を中に入れる妄想にでも浸っているのだろう。
「君は、やったことが?」と、問いかけるが、それを素直に認めるほど、サブリーナの頭の回転は悪くなかった。
「いやですわ、もう! ニコロ様ったら。ご冗談がお上手なんですから」
口を手で隠し、サブリーナは笑った。
かすかに見えた口元からは、ぞっとするほど真っ赤な唇が見えた。
罠だ。
ニコロの直感は、そう訴えていた。
ご冗談?
あの女なら、平気でやりかねない。
間違いなく、サブリーナが言っていた建物。
確信があった。
頼むから何事もなく終わってくれ、と願うが、そんなニコロの心情にも気付かず、ベロニカがさくさく建物の中へと入っていく。
ニコロは、密かに建物に近付いた。
ベロニカに見られぬよう、慎重に。
窓の外から、室内を盗み見る。
建物の中は薄暗くて、よく見えなかったが、何とかベロニカの輪郭だけは確認できた。
「先生、いらっしゃいますか」というベロニカの声が耳に届く。
ふと、歩き回っていたベロニカの足音が、止まった。
よく、見えない。
ニコロは決心して、より建物の中へと入っていった。
幸運にも、夕暮れのせいで辺りの視界は悪化しているし、屋内は広い。少しばかり中にいても、音を出さない限り、気付かれる可能性は低いだろう。
奥の方では、ベロニカが立ち尽くしていた。
彼女の目の前には、錆びた分厚い扉がぽっかりと口を開けていた。
ニコロは声にならない悲鳴をあげた。
どうか、このまま何事もなく帰ってくれ。
そんなところに、教師なんているわけがない。
だが、ニコロの意思に反して、ベロニカは少しためらってから、「先生いらっしゃいますか」と声をあげた。そのまま、彼女の姿が扉の中へと消えていった。
コツコツと足音が、遠退いていく。
知っていた。
そうするだろうと、心のどこかで思っていた。
自分が知っているベロニカだったら、絶対に中に入るはずだ。
中に入って、確かめる。そのくらいはする。
だって、彼女は、ああ見えて誰よりも優しく、責任感が強いから。
その時、予期していなかった方向――ちょうどニコロがいる方向と逆側に、人影が動いた。
「これで、閉めればいいんだよな」
「ああ。楽だろ? ちょっと脅かすだけだってよ」
「ふうん。女も大変なんだな」
扉の前で、二つの人影が会話する。
そのまま、男たちが扉に手を置き、体重を掛けた。
一瞬、判断が遅れた。
自分だけがこの場にいたんじゃない。同じことを考えている人間が、他にもいた。
「おい、お前ら!」
ベロニカから隠れていたことも忘れて、ニコロは飛び出していた。
「うわっ」と間抜けな声が聞こえた。
他には誰もいないと高をくくっていたのだろう。目の前の男たちは、ニコロの存在に気がついてなかったようだ。
扉の前から、退かさなくては。
ニコロの感情はそれだけだった。
しかし、一瞬の躊躇いが命取りになった。
扉が、ぐらつく。
男たちが押したせいで、あれほど重そうな扉が、きいと錆び付いた音を立てて、動き始めた。
我慢しきれず、ニコロは男たちを跳ね除けた。
男たちは、悲鳴を上げて逃げていった。ニコロに顔を見られたと思ったのだろう。
だが、今は追いかけるような状況でもなかった。
見間違えではない。ゆっくりと、扉がずれる。
ニコロは、扉を手で支えた。
重い。手に伝わる圧倒的な重量感。
金属製の扉は、予想以上に重かった。しかも、単に扉を押すのと支えるのでは難易度が違う。勢いがついた分、それを支えようとするのは、骨が折れる。
「ぐっ……」
どうする? 今すぐ、誰かを呼ぶか?
いや、だめだ、とニコロは瞬時に否定した。そんな暇はない。周りには、一人っ子一人いない。
学院に戻るという手もあった。今から、学院に戻ったときの時間を計算する。
大丈夫だ、今からでも遅くはない。教師にでも知らせることが、できれば。少しの間、ベロニカには待っていてもらえば……。
いや、それでいいのか。
最悪の想像が、頭に浮かんだ。
ここから校舎までは、かなりの時間がかかる。もし万が一、ベロニカが怪我でもしたらどうする?
地下室に何があるのかは、わからないし、ベロニカの姿だって見ていない。安全かどうかすら、わかっていないのだ。
だが、そうこう考えている間にも、腕がしびれ、手が千切れそうになる。
腕だけでは支えられなくて、身体を入れて扉を押し留めた。
しかし、どちらにしろ、じり貧だった。長続きしないだろう。その証拠に、身体は悲鳴を上げている。
痛い。苦しい。
呼吸がおかしくなる。肺が、焼けるように痛む。
腕を、離してしまいたくなる。
ニコロは思った。
本当に、なんで、こんなことをしているんだろうか。
こんなことをしても、別にベロニカと今さら仲良くなれるわけでもないし、過去の行いを無かったことにすることができるわけでもない。
完全に、自分の自己満足だ。
いくら罪滅ぼしをしようが、ベロニカを裏切った事実には、代わりないのだから。
離してしまえば、楽になる。そんなことはわかっていた。
あとは簡単だ。ベロニカに少しの間だけ、我慢してもらって――その隙に、助けを呼びに行けばいい。
自分が姿を見せる必要もない。それとなく教師に口止めをしておけば、ニコロが助けたのだと、バレずに済む。
いつもように、姿を見せず、ひっそりと。
逆に、ここで飛び出したら、もう後には引けない。
ベロニカは、警戒するだろう。なぜ、ニコロがいるのか、と。
彼女の頭の良さは、自分が一番よく知っている。ニコロがどんなに言い訳をしようと、ベロニカはきっと真実にたどり着く。
なぜここへ来たんだ、と問われたら……。
それが、自分にとって一番聞かれたくないことだった。
自分の弱さが、ベロニカに知られてしまう。こそこそ、ずっとベロニカのことを考えていたのが、バレてしまう。
あれほど、ベロニカに勇気を語っていた自分の弱さが、最も知られたくない相手に、知られてしまう。
何年もかけて、ここまで来た。
もう、自分達の関係は終わってしまった。自分達が、笑い合うことはないのだろう。それでも、やっと、話せるようになった。
だけど、この選択次第では、最早、話すことすら叶わなくなるかもしれない。
なんで、あのとき来てくれなかったの、とベロニカに聞かれてしまったら……。
自分はどう、答えればいい?
目が、眩む。
それでもなぜか、手は扉から離れようとしなかった。
歯を噛みしめ、力を出し尽くす。
本当に、笑えてくる。
まったく。なんでこんなに、必死になっているんだか。
もう、そういう生き方は、とっくにやめたはずだった。
そうだろ、とニコロは自分に呼び掛けた。
なにかひとつに執着して、なにかひとつを大事にするような、そういう生き方は。
そういうのは、世間知らずの馬鹿がやることだ。
適当に生きればいい。最初から、なにも望まず、なにも必要としない。
そうやって、ふらふらと生きていけばいい。
貴族なんてがんじがらめだ。
親に決められた結婚。服。マナー。友達。食事。
自分で決めたことなんて、ほとんどない。
それら全てを受け入れたはずだ。それでいいと、自分で決めたはずだ。それこそが賢いやり方だと、自分で納得したじゃないか。
それなのに、なぜ。
薄れゆく意識の中で、ニコロが最後に思い出したのは、かつて、自身がベロニカに語った言葉だった。
――誰だって、そんなものさ。だからこそ、そこから一歩踏み出せる人が偉いんだと思う。
ガツンと頭を殴られたかのような衝撃が、走る。
自分は確かにそう言っていた。
ベロニカに偉そうに語っていた。
――これが、自分の姿なのか?
ずっとわかっていた。全ては言い訳だと。
散々言い訳を重ね、楽な方へと逃げてきた。
傷付かない方へ。痛みの少ない方へ、と。
本当はどうすべきか、とっくにわかっていた。
思ったよりも、身体は、自然に動いた。
最後の力を振り絞って、扉をこじ開ける。身体全体を使って、扉を押し戻す。
一瞬、できた隙間に、身体をねじ込ませた。
低い音が、鳴り響く。
扉は完全に閉じてしまった。押してもびくともしない。
「やっちまったよ……」
ニコロは、大きく息を吸った。
適当に生きる。
適当な結婚して、適度に遊ぶ。
そういう人生設計だった。
「こういうことするタイプじゃなかったんだけどな……」
これで、外部との接触は絶たれた。一応、やれるだけのことはやったが、後は運を天に任すしかない。
やることは、山積みだった。
今、一番不安なのは、ベロニカだろう。絶対に、ベロニカに不安を抱かせてはならない。彼女が一番、心細いはずだ。
どんな言い訳でもいい。適当な言い訳を、考えなければ。
それに、どうにかしてここを出る。絶対に、出るべきだ。自分はどうでもいいが、卒業式にはベロニカが必要だ。
真っ暗な中、壁を手探りで進む。
ふと、手に当たるものがあった。
金属音。手で確かめる。
形からしてランタンのようなものだと、思った。
壁に引っ掛かっているそれを、手元に引き寄せる。中の燃料も充分にあった。
ニコロは自身のズボンを探った。マッチが、あったはずだ。本当なら今夜、一晩中騒いでそのまま卒業式に出席する予定だった。
明かりが灯ると、だいぶ視界が開けた。
階段は下へと続いている。一段一段、確かめながら降りた。
降りる度に、かつかつと、乾いた音が反響する。
ニコロは自身の顔を触った。自分は、ちゃんと笑えるだろうか。
笑え。
道化になっても、構わない。どんな形でもいい。憎まれようが、嫌われようが。彼女に不安な気持ちだけは、抱かせてはいけない。
降りるごとに肌寒さを感じた。
そう言えば、地下の方が冷えやすい、と聞いたことがある。厚着をしていてよかった。
持ち物を確かめる。急いでベロニカを追ってきたせいで、何も食べていないが、幸い、手持ちには、食糧もある。
不安がないこともない。
ベロニカはどういう反応をするだろうか。ここから、出ることができるだろうか。
ただ、そんな不安も、すぐに頭から消え去った。
不思議な気持ちだった。本来、焦りを感じるはずなのに、気持ちはこれまでになく、落ち着いていた。
そうだ、あのときとは違う。何もかも逃げ出してしまった、あのときの弱い自分とは違う。
ずっと、後悔していた。
いざとなれば、服なんかどうでもいい。食べ物なんて、どうでもいい。
自分がいくら凍えようが、いくら空腹を感じようが、構わない。
部屋が、近づいてきた。ランタンが部屋の中を照らす。
薄暗い部屋は意外に広く、雑多な印象を受けた。
部屋の中央には、女子生徒がいた。
急に照らされて眩しそうに顔をしかめる。
「よお」
精一杯、余裕な表情を作る。
「なんであんたが……」
ベロニカの怪訝そうな顔。
こんな状況なのに、顔が見れただけで、嬉しくてたまらない。
口の中は、カラカラだった。緊張、しているのか。
笑え、と自分に言い聞かせる。
「いやあ参ったよ。俺たち、閉じ込められちゃったみたい」
運命だね、と心にもない台詞を吐きながら、ニコロは笑った。
ヘラヘラと。