第十四話 ニコロの罪
ニコロ・ボレルは、引っ込み思案な子供だった。
ボレル家といえば、社交界ではよく知られた名門貴族で、ニコロは厳しくしつけられた。
しかし、生まれつき気が弱かったため、小さい頃から「もっと堂々としろ」と叱られてばかりだった。
学院に入学しても、同じだった。学院の中等部では、高位の貴族の子どもが集まる。案外、子供は家柄や家同士の争いに敏感だ。
人一倍大人しいニコロは、周りと馴染めなかった。
寮は居づらい。かといって、人がたくさんいる場所も落ち着かない。
そうして探し出した場所が、学院の廊下の中でも、最も人通りが少ない廊下だった。
普段人が使っていないせいか、暗いし、至るところに埃があった。
でも、そこが気に入った。それだけ、人の通りも少ないということだろう。
廊下の両端には、ちょうど人が座れるくらいの長椅子が置かれていた。汚いが、座れないほど汚れているわけではない。
張っていたクモの巣をどけ、両端を綺麗に掃除した。
うん、いい。
満足だった。
教師ですらほとんど通らない。
誰にも知られていない、自分だけの場所。
ある日、普段のように廊下で時間を潰そうとしたニコロは、先客がいることに気がついた。
見たことのない女子だった。
眼鏡を掛け、小さく座っている。まるで、リスみたいにちまちま食事をしていた。
ニコロが所属する中等部では、授業も同じような位階の貴族で固まらせる傾向があった。
上位の貴族と、そうでない貴族の子を混ぜるのは良くないらしい。中等部で、しっかりと貴族としてのマナーを習得させ、自制心を身に付けさせた上で、高等部でごちゃ混ぜにするそうだ。
子供は大人が思うより、その辺の階級を強く意識している。だから、高等部になるまで待つのだろう。
自分が見たことがないってことは、きっとあまり高位の貴族じゃないんだろうな、とニコロは思った。
でも、問題はない。
家の格なんて、関係がなかった。ここにいる時点で、どっちも一人ぼっちには変わりない。
「ここ、いいかな」とニコロが了解を求めると、立ち上がった女の子は、「いや、でも、私、すぐに退きますから……」と消えそうなほどの小声で答えた。
その姿がおかしくて、ニコロは「気にしないでもいいのに」と笑いながら声に出していた。
ニコロは不思議とその子に好感を覚えた。
こんなところで、他人に気を使う必要なんてないのに。
お節介だ、と自分でも思いながらも、ニコロは、ついつい手を差し出していた。
「ニコロって言うんだ。よろしく」
少しためらった後、女の子も手を握り返してきた。
なぜか、その子の手は、暖かかった。
「私は、ベロニカ……です」
小さく答えるベロニカに、くすりと笑いかける。
きっとこの頃からだろう。自分が、ベロニカを好きになっていたのは。
「ベロニカは責任感が強すぎるんだよ」とニコロは口にした。
あまりにも相手のことを考え過ぎるあまり、遠慮しすぎて、他人との距離がつかめないのだろう。
「せっかく優しいところがあるんだからさ」
勿体ないよ、とベロニカに言う。
ベロニカが大慌てで否定するが、ニコロは心の中で続けた。
君の優しさと責任感は、僕が一番よく知っている、と。
それからは、幸せな日々が続いた。
ニコロはあまり話すのが得意な方ではなかったが、ベロニカとなら話すことができた。
ベロニカが笑う。ベロニカが楽しそうに話すのを見ているだけで、満足だった。
最初、向かい合わせに座っていたが、次第に距離は縮まり、いつしか二人は肩を合わせるほどの近さで、会話するようになった。
目線が会うと、なぜか気恥ずかしくて、お互いすぐに、目をそらした。
どこかで、こんな日々がずっと続くのだろう、と思いながら。
ところが、久しぶりの休暇に顔を会わせた父の一言で、ニコロの状況は一変した。
「父上。なぜですか」
父に問いただす。自分にしては珍しく、語気を荒げた。
「いくらなんでも、急すぎます」
「お前が選り好みできる身分かい? ええ?」
冷たい父の眼が突き刺さる。
「せっかく婚約者を選んでやったというのに」
全く、サブリーナ嬢のどこが嫌なんだ、と父が愚痴る。
「家柄も申し分ないし、金だってある。聞けば、同学年だというじゃないか。あっちはお前がいい、と言っているそうだ。それ以外に何を望むことがある?」
品性は金で買えないんだよ、父さん。
ニコロは心の中でつぶやいた。
サブリーナの評判は最悪だった。
学院で、サブリーナの名を知らぬ者はいない。自分の家柄を絶対視して、それ以外の人間なんか知ったものかと威張りくさる。
教師も彼女には強く出れず、手を焼いているという。入学して間もないが、すでに取り巻きを従えて悦に浸っているらしい。
間違っても、婚約者にしたい相手だとは思えなかった。
大方、父は金が目当てなのだろう。ブラウアー公爵といえば、多数の銀山を所有し、その財力は社交界でも一目置かれていた。
先代の遺産を食い潰して生きてきた父にとっては、喉から手が出るほどありがたい相手に見えるはずだ。
「わしの決定に、異存があるのか?」と父が問う。
一応、聞いているだけだろう、とニコロは思った。父の中ではもう既に、ニコロとサブリーナの婚約は決定事項なのだ。
今考えれば、その時、自分は勇気を振り絞って、父に言うべきだったのだ。
自分には気になっている相手いる、だから、婚約を結ぶことができない、と。
もちろん、貴族社会における婚約の意味合いは、一般的な意味の結婚とは全く異なる。貴族にとって婚姻は、協力関係を結ぶ際の最も有効な手段になり得るからである。
父も、ニコロが断れないとわかっていて、話を持ってきているに決まっていた。
好きな相手がいる、と言ったところで、何も変わらないのかもしれない。
しかし、自分は言うべきだった。いくら引っ込み思案でも、父が怖かったとしても。勇気を出して、抗うべきだった。
一歩踏み出せば、何かが変わるかもしれない。
これは自分がずっと、ベロニカに言っていたことだ。
あれだけ、ベロニカに言っていたのに、いざ、自分がやらなくて、どうする。
言え。
言うべきだ。
「父上……」
ニコロは口を開いた。
父が、不機嫌そうに唸る。
「何か、問題でも?」
だが、現実の自分は弱く、父に刃向かうだけの勇気もなかった。
口をついて出てきた言葉は、「わかりました」という情けない言葉だった。
休暇が明け、学院に帰ってからも、憂鬱な時間は続く。
サブリーナ嬢をそれとなく眺めてみるが、ひどいものだった。
口を開けば、他人の悪口。他人の弱味を見つけて、憂さ晴らしするのが大好き。周りには、自分を肯定してくれる取り巻きだけを抱えていた。
あれと婚約するのか。
ニコロだって貴族の端くれだ。婚約の重要性くらいわかっている。それでも、彼女との婚約を考えると憂鬱になる。
例の廊下にいっても、気分は晴れないままだった。いつもは楽しいはずの空間なのに、どうも落ち着かない。
なんて言えばいいんだろう。どう言っても、ベロニカを裏切ることになる。
横に座るベロニカが、無邪気に笑う。
自分はベロニカが好きだ。でも、こんなに楽しそうにしている彼女に、なんて伝えればいい。
頼むから、このままでいてくれ、とニコロは願った。
何も言わず、このままいてくれれば、このままの関係が続けば、それでよかった。
薄い氷のような関係だ。
一度、踏み込んでしまえば、容易く割れてしまう。どちらかが望みをもてば、この大切な空間が、壊れてしまう。
自分たちは、ぎりぎりのバランスの上で成り立っているにすぎない。
しかし、ある日、ついにニコロの恐れていたことが起きてしまった。
「明日、話がある。もし同じ気持ちだったら、ここにきてほしい」と言って、ベロニカは足早に去っていった。
真っ赤な彼女を見て、ニコロの心中は複雑だった。飛び上がるほど嬉しい気持ちと、冷水を浴びせかけられたような気持ちが交差する。
時が来てしまった。
自分は、選ばなければならない。
ニコロは、夜通し悩んだ。
婚約のことを話したら、どうなる? 結果は、簡単に想像できた。ベロニカは優しい子だ。自分から進んで身を引くだろう。
婚約を無視する、という案もあった。
ベロニカに自分の気持ちを伝える。そのうち、サブリーナについての不服を申し立てて、両家の婚約を解消してもらえば、堂々とベロニカと付き合うことができる。
ベロニカには、それまでの時期、待っていてもらえばいい。
しかし、
「馬鹿か俺は……リスクが大き過ぎるだろ……」
ニコロは、自分の考えの甘さに、頭を抱えた。
どんなに考えても、二人で交際を始められるような明るい未来は見えなかった。
ベロニカは、二人で隠れながら付き合うことを拒否するだろう。
そんなこそこそした関係性は、彼女だって望んでいないはずだ。
もしも、仮にベロニカを説得できたとしても、上手くいくはずがない。
普段会わない父親には隠せるかもしれないが、サブリーナに見つかったら、どうなる?
何かの拍子に、彼女に知られてしまったら……。
もちろん、サブリーナは怒り狂うだろう。プライドの高い彼女のことだ。自分が断られて、ベロニカが選ばれたと知ったら、プライドを汚された、と思うに決まっていた。
そうなったら、間違いなくベロニカが、サブリーナの標的にされてしまう。
そして、最悪の場合、自分が家から放逐される可能性だってあるのだ。
家名を失うほどの覚悟は、まだニコロにはなかった。
答えは出ず、ただただ、時間だけが過ぎる。
ここでも、ニコロは、ベロニカが待つ場所へ行くべきだった。
婚約者ができた、と言って断ってもよかったし、婚約を無視してベロニカに思いを伝えてもよかった。
どちらでも、よかった。
どちらにしろ、行動に移すべきだったのだ。
だが、自分のとった行動は、そのどちらでもなかった。
ニコロは行かなかった。
そう、自分は逃げたのだ。
失望されるのが怖くて、逃げ帰った。廊下に何度も行こうとしたが、怖くて行けなかった。
後一歩を、踏み出せなかった。
気が付けば、約束の時刻はとっくに過ぎ、日が落ちていた。
要するに、ニコロ・ボレルはどこまでも弱かった。
傷付く覚悟も何もなく、ただただ、何もしようとしなかった。
それが、自分の罪だ。
それ以降のことは、ほとんど覚えていない。例の場所には、あのときから一回も近寄ったことがない。
わかりやすく、ニコロは身を崩した。
皮肉だった。あれほど、ベロニカを励ましていたのにも関わらず、自分に一番勇気がなかったのだ。
気持ちを伝えたい、と口に出したベロニカの方が、よほど勇気がある。
口先だけの自分とは、大違いだった。
寮の門限を破り、授業を勝手に休む。
気がついたら、いわゆる遊び人のグループには入っていた。
楽だった。遊んでいれば、気が紛れた。
馬鹿なことをやっていれば、全てが忘れられる。ベロニカの笑顔も、自分の弱さも、何もかも思い出すことなく、生きていける。
年月が経つに連れ、身長も大きくなり、女子から声をかけられることも増えた。
婚約も成立したが、サブリーナとは、適度な距離を保っていた。あまり噂にならないように、慎重に立ち回る。
そうやって、だらだら生きていくんだろう、とぼんやり考えていた。あの頃のように情熱をもって生きていくことはできなかった。
自然と話し方が軽くなる。
友人も増えたが、どこか満たされない思いは続いていた。
ただ、それでは、終わらなかった。
高等部に進学した十六歳。
一瞬で、わかった。
あの頃と、なにも変わっていない。
目の前に、ベロニカがいた。
心臓が、痛いくらいに鼓動する。声をかけようと思った。しかし、ここでもニコロは勇気を出せなかった。
今さら、なんて言えばいいのか。
あんなに酷い裏切り方をしたのだ。今さら、素知らぬ顔で、「久しぶり」とでも言うのか。
それよりも、怖かった。もし、反応してもらえなかったら……。
自分は変わってしまった。
最近では、父すらも「遊びすぎだぞ」と眉をひそめる始末。
結局、あれから一度も会うことはなかった。会おうとしたら、会えたのかもしれないが、怖くて会うことができなかった。
自分を嘲る。
あれから何年経ったと思っている。彼女だって、自分のことなんて吹っ切れて、忘れているはずだろう、と。
それでも、思いは断ち切れず、結局、ニコロはベロニカに声を掛けることにした。
「おい、お前」
そう言ったが、ニコロは我ながら吹き出しそうだった。
ベロニカだとわかりきっているのに、なんて白々しい発言。
「勉強ばっかしてて、楽しいのかよ」
笑いながら、問い掛ける。
ベロニカが振り向いた。
何も、変わっていない。
少し顔付きが鋭くなっただろうか。でも、根っこの部分は何も変わっていなかった。声も表情も、そのすべてが。
「あんたに関係ないでしょ」
ただ、言葉の冷たさだけは、前と変わっていた。
落胆したが、それはそうだな、と納得した。たしかに、自分には関係ない話だった。
今さら、昔の続きをしようだなんて、図々しい話だ。
きっと彼女も、愛想をつかしているか、ニコロのことなんて忘れてしまったのだろう。四年も前のことを、後生大事に覚えているのは、自分だけだ。
久し振りに見た彼女は、美人になっていた。周りが放っておかないはずだ。
しかし、ベロニカとの交流は続いた。というより、自分が強引に話しかけたのだ。
ニコロはそれでいい、と満足していた。
四年前とは全く違うが、彼女と関係を続けていられる。たとえ、自分に笑いかけてくれることなくとも、それでいい。
どんだけ冷たく返されても罵倒されても、ニコロは笑ってちょっかいを出し続けた。
それだけではない。
彼女と言い争うためだけに、彼女に意識されるためだけに、ニコロは必死になって勉強した。
ベロニカはきっと、ニコロが遊び歩いているのに、頭がいいと思っているのだろう。
だが、そんなことはない。
彼女に追い付くためだけに、泥臭く勉強しているだけだ。
試験の時期になると、ニコロは遊びも何もかも断って、すべてを勉強に費やしていた。
ずっと努力してきた彼女に並ぶのは、並大抵のことではないから。
必死に教科書をめくった。遊び仲間に心配されても、寝不足でふらついても、どれだけ辛かろうと、自分にはこれしか残されていないから。
こうやって、彼女の前に立ちはだかることでしか、自分はベロニカと関われない。
こういう方法でなければ、自分はベロニカに近付けない。
必死の努力が実ったのか、それとも才能が急に開花したのか、ニコロの成績はめきめきと伸びた。
「お前、そんなに勉強しているわりには、俺より成績が悪いんだな」
必死に努力したという様子は、全く見せずに、ベロニカに話しかける。
少なくとも、それだけがニコロ・ボレルのプライドだった。
そうやって過ごしているうちに、一年、二年が経った。
ずるずると、ここまで来てしまった。最近では、学院きっての犬猿の仲、と呼ばれる始末。
すべては、勇気を出せなかった自分が悪いのだ。あのまま行けば、ベロニカの隣で笑っている未来もあったのだろう。
ただ、そんな関係はもう望めない。
お互いに憎まれ口を叩くような関係性にしかできなかったのは、自分のせいだ。
総代として選ばれたときも、ニコロが真っ先に喜んだのは、自分ではなくベロニカが選ばれたことだった。
総代なんて地位には、少しも興味がない。あるとすれば、一番近くでベロニカを見れることだけは、嬉しかった。
厳しい表情でスピーチをする彼女を、舞台袖から見つめる。
正装を着たベロニカは、誰よりも綺麗だった。
自分はふざけることしかできない。ヘラヘラと馬鹿をして、笑いをとることくらいしか、自分にはできない。
でも大丈夫だ、と思う。
ベロニカならば、自分の欠点も埋めてくれるはずだった。ニコロが緩めた雰囲気も、ベロニカの挨拶で、引き締まる。
スピーチが終わっても、彼女はにこりともしない。そのまま、無言でニコロの横を通りすぎる。
悪くない。
一番好きな相手を、誰よりも間近で見つめることができる。
一番最後に、ベロニカの横に立つことができる。
学生生活の終わりとしては、悪くない終わり方だった。
いつも、読んでくださる方へ
ブックマーク、評価等ありがとうございます。とっくにストックは尽きましたが、毎日更新頑張ります!