第十三話 お前だけを
ランタンを開けると、中の蝋燭が顔を出した。ほぼ溶けかけている蝋燭に、真新しい一本を近付ける。
火が移った。
運が良いことに地下室には、燃料の備蓄がかなりあった。火種さえあれば、灯りが尽きることはない。
再びランタンの炎が揺れる様を、ベロニカはぼんやりと見つめていた。
先ほどまでと同じような光景。
唯一、違うとすれば――真横にニコロがいることだろう。
真横と言っても、ただ並んでいるだけではない。
密着するように、二人はソファに背を預けていた。大きめのセーターとコートが、二人を包む。
本当に気が進まなかったが、これがベロニカの考える最善の方法だった。
こうやって、二人でくるまれば、冷気による体力の消耗を防げる。
北の方では、吹雪の中で遭難したときに、こうやって暖をとるのだという。教師の雑談で聞いたことがあった。
まさか、こんな変な部屋で実践するとは思わなかったが。
横に眠るニコロを見た。唇の色はさっきよりも断然よくなっている。どうやら、ニコロの体調はひとまず心配なさそうだった。
「うう……」
ベロニカはうめき声を上げた。
この方法の難点だ。たしかに、二人同時に暖まれる。どちらか一人だけが暖まるよりも、よほど効率的だろう。
しかし、ベロニカは全く集中できなかった。
ニコロの顔が、すぐ近くにある。耳元に吐息を感じる。それに、規則正しい呼吸の音。
普段は意識していなかったが、見れば見るほど、顔のパーツは整っていた。
悔しいが、ベロニカだって認めない訳にはいかない。形の良い眉に、大きな瞳。
不意に辛くなって、ベロニカはそっぽを向いた。右にいるニコロを見ないように、左側を向く。
それにしても、とベロニカは思った。
だいぶ、懐かしいことを思い出していた。もう、何年もあの頃を思い出すことなんてなかったのに。
横に、本人がいるからだろうか。
同時に、何となくベロニカは気付いていた。
キスなんて、すればよかったのだ。もし、これが違う男子だったら、ベロニカは迷うけど、最終的にはキスをしていたのかもしれない。
一瞬唇を交わして、扉が開かないことを確認する。たったそれだけの作業じゃないか。簡単な方法だ。
でも、相手はニコロだ。
キスなんてしたくなかった。
いや、本心では、一瞬、嬉しく思えてしまうのかもしれない。でも、それが辛かった。
そんな義務感で、キスをされたら……。
自分だけが意識しているのに、仕方なく相手からキスされたら、余計に惨めさを感じるだろう。
自分はまだ割りきれてないんだな、とベロニカは小さく笑った。
まあ、いい。どうせ、自分達はもう終わりだ。
何もかもわからなかった。
今の時間も、外に出る方法も、明日の卒業式に間に合うのかも、そして、ニコロの気持ちも。
ベロニカにわかることは、何一つなかった。
やがて、もぞもぞと横で動きがあった。男の身体が、動き出す。
ニコロが、目を開けたような気配がした。
「これは……」
混乱するニコロが呆然とつぶやく。
「どういうつもりだ?」
起きたら、さっきまで近寄らないで、と言っていた女子が真横で一緒に身体を暖めている。そんな状況は、誰だって驚くのかもしれない。
「起きた?」
視線を外しながらベロニカは聞いた。
「ローヴァイン……」
理解できない、と言ったニコロの声。
「お前、なんでこんな……」
「あそこ、寒かったでしょ」と言って、石畳の床を指差す。
「わざわざあんなとこに座るなんて、馬鹿みたい」
「ああ、あれね」
途端、いつもの調子を取り戻したように、ニコロが軽口を叩き始めた。
「いや、涼しいかと思ってさ。暑がりは困るよ、ほんと」
ベロニカは、それを冷めた気持ちで聞いていた。
たしかに、あの頃よりもかっこよくなったのかもしれない。あの頃よりも、話しやすい性格になったのかもしれない。
それでも、ベロニカの好きだったのは、そんなニコロではなかった。
口数が少なくても、大人しくても、昔の真っ直ぐなニコロの方が好きだった。
聞いてみようか。
不意に、そう思った。
どうしても、確かめたいことがあった。
ベロニカだって、この状況に疲れ始めていた。明日の式には、間に合わないかもしれない。そもそも、生きて出られるかもわからない。
それならば、本当のことを聞きたかった。どうせこんな状況なら、真実を知りたかった。
「ねえ」
意を決して、一気に核心を突く。
「わざと、地面に寝転がったんでしょ」
今まで散々口を開いていたニコロが、急に押し黙った。
ベロニカは、構わずそのまま続けることにした。
「あんたがソファに座ったら、絶対に私は一緒にソファになんか座らない。だから、床に寝たんでしょ。確実に、私がソファに座るように。足を見るだの、何だの言って」
横目に見ると、ニコロはうつむいて、無言を貫いていた。
しかし、ベロニカは止めるつもりもなかった。
「他も全部そうでしょ。コートやセーターだって。自分で着てればよかったじゃない。それなのに、わざわざ嘘をついて、私に渡してきた」
暑い、とニコロは言っていた。そんなわけがない。倒れるまで体力を失っていたのに、暑くて服を着たくないだなんてことは、あり得ない。
そして、お腹が一杯で何も食べたくない、という発言もおそらく嘘だろう。ニコロが寝ている間、何度もニコロのお腹が鳴った。
ベロニカの耳には、しっかり届いていた。
視界が、滲む。
「ねえ、一体どういうつもりなの?」
明らかに、ニコロの行動はおかしかった。
状況的に見れば、一番怪しいことには間違いない。平気で嘘をついているし、何か隠し事をしているのは確実だ。
疑っていい。
しかし、不思議なのは、それが全て、ベロニカのためになっているという点だった。
わざわざ自ら体温を下げるような行動をし、それどころか食糧すらも、ベロニカに与えた。
なぜ。
心臓は、痛いくらいに鳴っていた。
密着しているせいで、ニコロの身体の感触が、ダイレクトに伝わる。二人の間を隔てるものはほとんどなかった。ベロニカは元々それほど着込んでいるわけではなかったし、ニコロもシャツ一枚しか着ていない。
ニコロの身体の熱さが、ダイレクトに伝わって来る。
「たまたまだろ」とニコロが笑う。
「それとも、あれか。最初っからこうやって近くにいたかったか?」
いつも通りの飄々とした笑み。
話を逸らそうとしているのだろうか。だが、もうベロニカの覚悟は決まっていた。
「それに、あんたの返答もおかしかったよね。今考えても、やっぱりおかしい」
「何を……」と言い掛けたニコロを遮る。
「本当は一人だったんでしょ。大勢で来てたんだったら、遅かれ早かれ、誰かがここに来るはずじゃない。でも、実際は人が来たような気配もない」
我慢し切れず、ベロニカは至近距離でニコロの眼を見つめた。
淡い色をした瞳が、気まずそうに揺れる。
「なんで、ここに来たの?」
「だから、それは、偶然……」
「だったら、他の人はどこ? いないんでしょ。だから、あんたは、最初から長くなると確信していた。周囲に誰もいないことが、わかりきってたから」
ベロニカは混乱の極みだった。過去の答えと現在の対応が、ずれている。
わからない。自分が嫌われているのかすらも、わからなかった。
「それは……言えねえ」
苦々しく、ニコロが呟いた。
「じゃあさ、なんであのとき、私に話しかけてきたの?」
ベロニカは、真正面からニコロを見続ける。
耐えきれないといった様子でニコロが目線を外すが、ベロニカはずっとニコロを見たままだった。
「四年間、一切連絡がなかったのに……あのまま、放っておいて欲しかったのに……なんで話しかけに来たの?」
「言えない」
視界が濡れていた。涙で、前がぐちゃぐちゃになって、何も見えない。
あの日以来、泣くことはなかった。あれほど泣くことは、絶対にないと思っていたのに。
ベロニカは思った。
言おう。言ってやろう。どうにもならないなら、せめてすっきりしよう。何もわからないなら、せめて本当の気持ちを知りたかった。
「ねえ、なんであの日……来てくれなかったの?」
言葉を、絞り出す。
「ずっと待ってたのに……」
「言えない」
ニコロも答えるが、いつもの元気はどこにも見えない。
しばらく、無言が続いた後、ニコロが観念したように言った。
「言ったら……軽蔑される」
短く、吐き捨てる。
「俺は、お前に嫌われたくない……!」
「はあ?」
思わず、言葉が飛び出す。
「なんで私が、嫌うのよ」
呆然として訊ねる。
先ほどの苛立つかのようなニコロの発言。
これほど感情を露にするニコロは、ほとんど見たことがなかった。
それに、嫌うなんて言ったら、よっぽど自分の方が嫌われるべき人間だ。六年前に振られたくせに、まだ未練たらたらで生きている。
本当に、どうしようもない。
ニコロが、深々と息を吸う。
「ローヴァインのために生きてきた」
「へ?」
話が、見えない。
「どういう……こと?」
「俺は、お前だけを見ていた。初めて会ったあのときから……」
ここに来て初めて、ニコロがベロニカの顔を真正面から見た。
――熱を伴った視線が、燃えるように絡みつく。
普段のへらへら笑い隠すようなニコロの眼とは、全く違う。
「ずっと」
その瞳の中に、反射するように、自分の姿が写ったような気がした。