彼女と別れる話
波の音だけが聞こえる。海の向こうには何があるのか。地理や方角を意識すれば、何があるのかは分かるが、視線に向ける感傷はそんな知識は求めていない。
「空も海も混ざり合えばいいのにね」
彼女の声が聞こえてくる。まるで耳元で囁いてくるようだ。波の音も、風の音も、掻き消してはくれない。
肌寒いな。太陽が暮れていく中で、最も遠くに届く色が赤だという。だから夕焼けは赤く、未練がましく大地を染めている。
空も、海も、きっと世界も今は赤い。
「別れよう」
「君にそれができるかな」
笑い声が続く。懐かしく愛おしい彼女の声だ。夕焼けは彼女の好きな景色。
俺は一生この光景を忘れられないだろう。
「デートに行こう」
冬休みの頃だった。前髪に白髪が目立つ少女、志々目涙は唐突に押しかけてきた。赤と黒のチャック柄のロングスカートに白いシャツ。その上から濃い赤色のコートを着ていた。彼女とは年明けまで会わないつもりだったので来訪は意外だったが嫌ではなかった。
「いきなりだな。体は大丈夫なのか?」
快く家に上げながら尋ねた。涙は体に欠陥を抱えている。半年ほど前に一度倒れているが、冬休みに検査入院をするという話を聞いていた。
「大丈夫だよ」
柔らかい口調で肯定されると、それ以上追及はしなかった。玄関から二階に移動して、この寒い早朝に訪れた彼女を部屋に招き入れる。家族は特に何も言わず、慣れた反応だ。
「どこ行くんだよ」
充電器に刺しっぱなしだったスマートフォンを手に持ち直す。
「海がいいな」
「寒くないか?」
「今から行けば大丈夫だよ。今日は暖かい」
確かに今日は風も落ち着いて、雲も少ない。
検索をして近場に良い場所がないかと物色していると、涙は勝手に部屋を荒らし始める。
「あっこれ好き」
畳まれた服を取り出して、ベットの上に放り投げていく。
「白髪増えたな」
「あぁこれ。やっぱり目立つかな? まぁ今回はそんなに抜けなくてよかったよ。気にするなら染めようか?」
「いや」
自分で言っておきながら、彼女の答えには詰まる。きっと薬の副作用なのだろう。互いに言葉にはしない。口にしたらどうしても暗くなってしまうから。
「そんな傷つくなよ。イサナは良い奴だな」
「うるさい。……彼女のことぐらい心配するだろう」
「付き合い始めるまでろくに知らなかったくせにね」
「嫌味か」
「分かんない。けど私はきっと、イサナが私のことで困るのが好きなんだ」
こちらを見る彼女は晴れやかな笑顔を浮かべていた。無邪気で快活に笑っている姿は、いつ見ても可憐であるがどこか痛ましい。痩せた手首や、色の抜けた髪が視界に映ってしまうからだ。そんな理由で俺は涙に興味を持ったんだ。
二年の夏休み明けの頃だった。新学期のクラスでは浮ついたカップルの姿をいくつもできており、気づけば自分の友人も彼女と付き合い始めていた。
疎遠になっていく友達を横目に、俺は変わらない日々を過ぎていくはずだった。
志々目涙は隣のクラスで噂の不登校児だった。痩せた体に、黒髪に混ざる色の落ちた髪。良く休む薄幸の美少女がいるらしい。当時の俺が知っていたのはその程度だ。
ホームルームが終わり、放課後の集中課題も終えて一人帰路につき廊下に出た。赤い夕焼けが目に眩しく、夏が秋になっていく気配を感じた。
気まぐれに隣のクラスを覗けば、白髪の生徒がポツンと座っていた。その影が急に倒れた。一つ遅れて、ガシャガシャ椅子と机が跳ねる音が無人の廊下に響いた。
「おい。お前!」
思わず駆けより、体を起こすが驚くほど軽い。頭を打っていないか確認するが、幸い血はでていない。
「誰?」
「隣クラスの生徒だ。それより意識ははっきりしてるか?」
病欠の多い美人な生徒という噂を思い出す。
「うん?あぁわかる。ここは学校かな。私はどうしたのかな?」
「急に倒れた。持病か? 発作か? 分かるならどうすればいいか教えろ」
「うんうん。君は冷静だ。助かるよ。カバンの外側を見て」
言われてスクールバックを手に持つ。意を決してカバンの外側を漁ると、小さなメモ帳のようなものが入っていた。親と学校と病院と思われる電話番号が記されている。
「あぁ学校の先生はいない。なーにただフラッとしただけで意識ははっきりしているよ。そんな不安そうな顔をするなよ」
俺よりもずっと冷静な声が耳に届く。感情的になるのは疲れるとでも言いたそうな声だ。
「分かりやすく言うなら、ただの貧血だよ。派手にこけただけ」
「お前俺がいなかったらどうしたんだよ」
「別に誰か見つけてくれたでしょ。私も倒れるなんて思っていなかったし。久しぶりに頭を使うと疲れるね」
どことなく顔色も良くなってきている気もした。彼女は床に手をついて、体を起こそうとする。
「おっと」
両足で立ち上がるとまた少しバランスを崩し、慌てて背中を支えた。
「本当に大丈夫なのか?」
「あぁ大丈夫だよ。よくあること。私の身体は欠陥ばかりなんだ。やってられないよ」
見上げる目が夕焼け色で、泣いているように見えた。視線から逃げるように、彼女のカバンと自分のカバンを持つ。
手持無沙汰な彼女は改めて俺に尋ねる。
「ところで君は誰? こんな時間に何してたの?」
「はぁ。俺は八川勇魚。課題があったから残ってたんだよ」
「わぁ鯨だ。そっかぁ、私と一緒か。まぁ私は単位が足りないから補修だけど」
「鯨っておい」
「あれ?イサナってそういう意味じゃなかった。君は器が大きい良い奴みたいだ」
真っすぐ言われた言葉が妙に照れくさくて、視線を逸らした。
「そうだ私は志々目涙。涙と書いてルイと読むんだ」
「そうかよ」
感涙というし、ありえない読みではないのだろう。立ち話をしながら教室を出ようとすると、彼女の頭部が揺れ俺の腕にしがみつく。
「フラフラじゃないか。大丈夫か?」
「ふふふ。わざとだよ。少しこうさせてくれないかな。なんだか普通を味わえるから」
か細い彼女の声を俺は聞かなかったことにした。休んでばかりである少女の普通と、俺たちの普通はきっと違うのだろう。
それから数日が過ぎたころ、友人から俺たちが付き合っているという話を聞くことになって驚いた。誰がそう言っていたのかを尋ねたら噂だと答えられて、なんと身勝手な話だと思った。
「という話があるらしいぞ」
放課後、空が赤から藍に移ろいすっかり暗くなろうとしていた帰りに涙に何気なく切り出してみた。噂話はこうして広がっていくのだろうな。
あの一件以来、時間が同じなら一緒に帰るようになっていた。少しだけ関わった人間が気がつく範囲でぶっ倒れてしまうのは少し気が引けてしまう。俺はきっと退屈していたんだろう。
「ふーん。イサナは迷惑だった?」
「迷惑はしてない。お前の方こそ迷惑じゃないのか」
「友達なんていないよ。私は厄介ものだからね」
「そういうものか」
「うん。メリットがないもの。私と一緒だと苦労するから。だからイサナには感謝してるよ」
「一緒に帰ってるだけだろ」
「そうだよ。だから帰り道いつ倒れても大丈夫だ」
涙と自分は同じ景色にいても、感じるもの違う。見慣れた通学路も、そこに潜む危険はまるで違う。
涙が足を止める、暗くなった空の下彼女の表情はよく見えなかった。
「君が良ければ、本当に付き合ってくれないかな。いつでも捨てていいから。なんでもあげるから」
「そういう言い方するなよ」
まるで自分を安売りするような言い方。見返りが欲しくて、一緒にいたわけじゃない。心配で放っておけなかっただけだ。
「お試しでもいいからさ。別に何か特別なことはしなくていい。いや違うな。こんな執着したくない。そうじゃないんだ。ちょっと待って」
「待たされるのか」
ぶつぶつ涙は呟いている。真面目というか、律儀な奴というか、変な奴だ。人と距離を取りたがろうとする奴が、無理に距離を詰めようとしているんだろうな。
きっと涙が混乱している分、俺の方が冷静になっているのだろう。
「家につくまでにまとめろよ」
「あっ待って」
先を歩く俺の裾を彼女が掴む。俺はどうしたいのだろう。少しだけゆっくり歩く。
涙のことは嫌いではない。ほっておけない。ただ、こいつとカップルめいた関係になってどうなるのだろう。友人の彼女との話を聞くことはあるが、休みの日にどこにいったのか、どこまでしたのか、そんな話ばかりで憧れみたいなものはなかった。
面倒くさいと思ったのは、自分とは縁遠いものだったからなのだろうか。期待も不安もしたくない。高二の頃から勉強して、そうそうに進学を決めてしまいたい。上を目指せそうなら、背伸びをして漠然とした将来に有利な選択をしたかった。
そこに恋愛を挟むことはきっと不利だ。だけどそんな頑なに拒否をしたいわけでもない。
分からない。何が正しいのか、どうしたいのか。恋心を抱くほど涙と時間を共にしたわけでもない。心底では惜しい話と思うのは、俺の心の弱さなのだろうか。
「ついたぞ」
彼女の家は学校からそう遠くはない。彼女の身体を考えて、近くに引っ越したという話だ。
「ねぇもうちょっと歩こうよ。ほら金曜だからさ」
「……そうだな」
金曜だから遠回りするのだろうか。自分の動きも、涙のこともよく分からない。
「怒ってる?」
「怒ってない? ただ分からない」
「分からないんだ。じゃあ私のこと嫌いじゃないよね? 迷惑じゃないよね?」
「どうしてそんなこと聞くんだ?」
「怖いから。君に捨てられるのは怖いよ」
「それは突然倒れた時一人だからか?」
「違うよ。イサナともう話せなくなるのが怖いんだ。イサナは私にとってもう特別。だから、そう。私は残った時間、私の為に、イサナと一緒に居たいんだ。それだけ、それだけなんだ」
話ながら泣き声に変わっていく。
「あぁ本当はこんな重たい子じゃないんだけどな」
夕闇に消えてしまいそうなか細い声。
同情だろうか。感傷的になっているだけなのだろうか。
「早く答えて。わりとヤバいから」
「どのみちぶっ倒れそうだな」
「分かってるなら早く答えて。もう目の前ぐるぐるしてるから」
「しかたないから一緒に居てやるよ」
涙の肩に腕を回して、体を支えた。彼女の方を見なかったのは少し照れ臭かったからだろうか。
慣れない券売機に苦戦しながら獲得した切符を改札に通して二人で電車に乗る。昼前に家を出て特急で四十分ほどの駅に向かう。そこからは徒歩で進んでいけば海が見えるちょっとした観光地だ。
「なんだか修学旅行みたいだね」
「今年なかっただろ」
「私は今年どころか行ったこともないよ。爆弾持ちだからね」
「そうかよ。楽しいか」
「楽しい!」
俺の涙への印象は少し変わった面白い奴になっていた。世の中のカップルとはきっと少し違うものかもしれない。
車窓から見える景色は都市部から、少しずつ郊外に変わっていく。
「ねぇ人には魂があると思う?」
「なんだよ急に」
「考えていたんだ。私が死んだらどうなるのか。人間の体に魂なんて器官はないじゃん。私、人体にはちょっと詳しいけど魂なんてものはない。けど信じられてる。なんでかなって」
「知るかよ」
「怒らないで、私は真剣だし悲観もしてない。こんなもの話のタネだよ」
「分かったよ。聞いてやるから言ってみろよ」
「イサナは私の死に、私より敏感になったよね」
それは十一月の前に倒れたことと、先日あった検査入院の話のせいだろう。自分と違うルールの中で生きている彼女は、ある日急にいなくなってしまいそうで、今はそれを考えるだけで心がざわついてしまう。
「イサナが優しいのが嬉しいよ。生きてるって気がする。魂ってそういうものだといいなって思うんだ。真理じゃなくて願望の話かな。アリストテレスは言いました。『友情とは二つの肉体に宿れる一つの魂である』とね。イサナの中にも私の魂があって、それが涙という人間を想っているんだよ。死者を忘れないでねって」
「つまりどういうことだよ」
「死んだら終わりというけど、死んでも周りの人が覚えていたら魂は生きているんじゃないかな。肉体の死は、魂の死とはならない。けれど魂の欠落は、分け合った魂を引っ張ってしまう。だから辛かったり、悲しくなるんだよ。違うか。だったらいいな。君の中に、私はいるかな?」
指差されるが答えに詰まってしまう。あまりにも哲学的であり、どこか死の香りがする問いに答えが戸惑ってしまう。視線を外にずらせば、山肌と森林ばかりで風景なんて楽しめるものではない。
「ルイの中に俺はいるのか?」
「いるよ。困ったように私をよく見てるよ。今の君みたいにね。挫けそうな私に勇気をくれる。生存意欲を湧かせてくれるよ」
「じゃあ俺の中にもいるんだろうな」
答えるが俺の中に涙はいるのだろうか。苦しむ彼女の姿は思い出せない。俺を困らせて得意げに笑ってばかりだ。
「わぁ海だ!」
車窓に視線を向ければ、青い空と海が視界に飛び込む。波が光を反射して綺麗だ。よくよく見れば、往来する船や小型ボートの姿もあり、あの場でいま生きている人もいるのだと思った。
「そうだな。良い天気だ」
「着いたらどうする。何があるんだっけ?」
「待て待て落ち着け、倒れるぞ」
身を乗り出して外を眺めようとする涙を制する。彼女の骨の様な白髪を風に棚引かせる。
座り直した涙は子どものように笑っている。対面に座っていたのにわざわざ隣に座り直して、二人で液晶を眺め始める。
「あっ私アイス食べたい」
「今冬だぞ」
「それがいいじゃんか」
「確かに何か食べたいな」
昼前に家を出てから何も食べていない。
「じゃあここは後回しで、駅の近くなんかないの?」
「それは現地でいいんじゃないか。見て回るのも楽しいだろ」
「そういうもの? じゃあちょっと貸して」
持っていたスマートフォンを奪われてしまう。肩を寄せる涙の方をみれば、薄い胸板と淡いピンクの下着が見えてバツが悪くて視線を外した。
無邪気にはしゃぐ涙は隙だらけだと思ったが、何も言わないおくことにした。
茜色が空も海も燃やしていた。
こんなにも赤いのに、吹きすさぶ海風は俺を容赦なく冷えしていく。
「綺麗だね。私、赤色が好き。命の色だから」
繋いだ右手をより強く握りしめられる。涙は海をじっと見ている。
「遠くに行きたかった。病室と家と時々学校。それが私の世界だった。目新しい風景は、空ぐらい。雲も、星も、季節が廻れば顔を変えていたから。不完全な私の身体でも、美しい自然の一部と思いたかった。……人間は生き辛いよ」
涙は俺の手を引いて歩いて、前を行く彼女の顔は見えない。
「私死ぬかもしれない」
「人間なんていつか死ぬだろ」
「そうじゃない。そうじゃないんだ。長く生きられそうにないかなって」
「……成功したんじゃなかったのか?」
「成功はしたよ。けど一時しのぎかな。数年後にまた手術すると思う」
整備された散歩道の途中にベンチを見つけて、その場に座ることにした。涙の絡めた指を握り締めたくなるのを堪える。
「私が死んだら、私の魂を一緒にいさせてくれないかな」
「縁起でもないこと言うなよ」
「違うよ。人はいつか死ぬんだ。これは準備だよ。悲観なんてしてない、私が急に死んでしまったら遺言も残せないでしょ」
この手にある温もりがなくなってしまう。人がいつか死ぬ。当たり前だ。誰だって知っているはずだ。
だけど俺にはまだそんな経験を持ち合わせていない。婆さんの葬儀に参列したことはあるが、それぐらいだ。近しい友人も、家族の死も、俺は知らない。
怖いとは違う。ただどうしようもなくざわつく。
「そうだね。たまに私のことを思い出してほしいな。それぐらいかな。君の見た景色に小言の一つでも言えたなら私は十分幸せだ。そんな未来は、私には望めないけど、君の中の私には頼むとしようかな」
蕩けるように甘く、心底幸せそうに涙は言葉を紡ぐ。
「あのなルイ。途中で別れるかもしれないだろう。夏休みぐらいから付き合いだしたカップルなんて何組も別れているんだし」
「それは強がりだよ。まぁイサナが私を嫌いになったのならしかたないかな。けど君は顔も見たくないと思っているのかな? ありえないね。私はそんな臆病なイサナを好きになったりはしないよ。あの日からずっとおせっかいなイサナに、私はずっと甘えているんだから」
繋いだ手とは反対側の腕を回される。体重を預けて覆いかぶさるように抱き着く。軽く、そして確かに生きている人肌を腕の中に感じる。
涙は今俺の腕の中にいる。今はそれが現実だ。いつか死ぬけど、今は生きているんだ。
「イサナが私を捨てたなら、私はもっと簡単に死ねるんだよ。薬って結構しんどいんだ」
「脅しかよ」
「違うよ。これは事実だ。まったく私が誰のせいで生にしがみついてると思ってるんだ。……こんな風に君と話せなくなるのは怖いんだ」
後頭部を支えられて、唇と触れ合う。
水気を含んだ柔らかさと、やたら近い目を閉じた涙の顔。何かを理解する前に、彼女の気配が離れていく。
「なんだ緊張したけど、意外と何か変わるわけじゃないんだ」
唇に手を当てながら涙は小さく頷いていた。
「待て。急にするな、何も覚えてないぞおい」
「じゃあ次は舌でも入れてあげようか?」
「そうじゃない!不意打ちをやめろ」
「馬鹿だなぁ。予告なんかしたら、恥かしくて倒れちゃうよ」
跳ねるように立ち上がり、涙は背を向けて駆け始める。
「おい、走るな! 危ないだろ」
「じゃあ捕まえてよ」
片手を上げて鈴の様な声が返ってくる。慌てて追いかければすぐに追いついて、背後から抱きとめた。
「危ないだろ」
「大胆だね。まっ君なら、そうしてくれると思ったよ」
コツンと彼女の頭が俺に当たる。体に預けられる彼女の体重が少しだけ重く感じる。
「もたれるな」
「なさけないことにちょっと気分悪い。少しだけ体を貸して」
「馬鹿野郎。どうして無茶ばかりするんだ」
「どうしてだろう。イサナがいると、したくなるんだ。悪い気はしない。今は私の人生を踏みしめていると思えるよ」
波と風の音が強くなる。気づけば空は夜の色が濃くなり、薄暗くなっている。
「帰ろう。また来たいね」
「今度は無茶するなよ」
「心配性だな、君は」
涙は慣れた手つきで俺の手を攫っていく。ギュッと握り締める手は温かく、小さく骨ばっていた。
「次は駄目かもしれないな」
薄緑色の入院服で、ベットに背を預けながら涙は呟いた。彼女は外を見ていて、後ろ髪はほとんど抜け落ちてしまっていて胸が締め付けられた。
彼女は戦っていたのだろう。俺の知らない場所で、自分の体の為に。
かける言葉が見つからない。無責任な応援は避けたいが、付き合い始めてからの日々が呼び起こされて声がひっかかる。点滴のついた彼女の手に触れれば、血管と骨がすぐわかるほど痩せていた。
「ありがとう。何も言わないでくれて。君に頑張れって言われたら頑張ってたよ」
「……言うなよ。別に死んでほしくはないんだよ」
「けど苦しんで欲しくもないんでしょ。そういう顔をしてる」
何も答えられなかった。
「俺にはお前の苦しみが分からない」
「そうだよ」
「涙が俺を病院に呼んだのは初めてだな」
「そうだっけ?会った事はあるよ」
「いいや。お前が来てと言ったのは今日が初めてだ。お前の親や学校の先生が俺に行くように言ったことはあるが、お前は言わなかった」
だから覚悟をしてきたつもりだった。けど何の覚悟だ。結局俺は知らないんだ。大事な人の死という体験。想像上の欠落しか持っていない。
こんなにも無力で、不甲斐ないとは思わなかった。できることなんて何もない。
「律儀だな、イサナは。じゃあイサナ、今日で別れようか?」
「お前」
「私の側にいるのは辛いでしょ。未来あるイサナの時間をこれ以上奪ってもしかたないよね」
「本気で言ってるのか」
「少しはね。私がイサナにできることなんてもうないんだ。去年の冬に海を見たことも、春に君が泊まりにきたことも、夏にこっそり抜け出したことも、全部、全部かけがえない宝物だ。これ以上はきっと贅沢だ。イサナはもう自由でいいんだよ」
「ルイ」
「そしたら私も意外と簡単に死ねるかな」
振り向いた彼女の瞳は潤んでいて、雫が落ちていく。反射で彼女の手を強く握りしめてこう言った。
「俺は最期までいるからな。お前が死ぬまでいるからな」
「駄目だよ。君は絶対傷つくよ。傷は浅い方がいい」
「お前はそんな奴じゃないだろ」
「不器用だね、イサナは」
白髪が彼女の目にかかる。涙を湛えた赤い目と合い、一瞬歪んだ口から言葉が漏れた。
「じゃあ私が死ぬまで一緒にいてね。そんなに長くないからさ」
淡く微笑む彼女の手を、壊れないように強く握りしめた。
「別れよう」
「君にそれができるかな」
鈴のような声は優しく笑い飛ばす。
空の赤さは、夜の闇と混ざり始めて紫色の空が広がっていく。
「昔言ったよね。一人の時間が増えたら、考えることが多くなるって。私は人生とか、生きる意味とか、運の悪さのことを飽きるまで考えてた。けどね、終わりは違ったんだよ。イサナのことを考えるのは楽しかった」
そんな話をしたこともあった。すっかり闇に呑まれて、轟音を上げる海はあの日みた景色とはずいぶん違って見えた。
同じ場所に来ているはずなのに、こんなにも印象は変わるものだろうか。
「別れたいなら、私のことを忘れればいい。わざわざこんな場所に来て、思い出を掘り起こさなくていい。それとも私をまだ連れて行ってくれるのかな」
痛みなんてない。何度も何度も、いなくなるとは言われ続けた。それでも俺は傍にいることを望んだ。
誰の為だったのか、分からない。
「お前はここにいるのか?」
「知らないよ。君に聞こえる私の声はどうだい? 決めるのは君だ。イサナが寂しくてしかたないなら忘れてしまえばいい。夜が終わっても朝は来るんだ。イサナの好きにすればいいよ。私は死んだんだから」
これは幻聴だ。涙は死んだ。だけど俺の中にある涙の輪郭は偽物なのだろうか。妄想なのだろうか。だったらもっと、俺に都合が良い事を言ってくれよ。
馬鹿みたいに精巧であいつが囁いてくるみたいで、まだ涙がいるみたいだ。
「これはお前の魂なのか」
「そんな器官は存在しないよ。だけど私の魂なら、君は捨てないでくれるよね。だって最期まで手、握ってくれてたものね」
空の両手を握り締めて、膝から崩れ落ちる。最後の理性で声は上げずに泣いた。涙は黙って俺を見ている。なんとなく複雑な顔をしていると思った。
しばらく泣いた後、空を見上げたら満天の星空が視界に入った。
「綺麗だね。イサナはすぐに帰ろうとするから、こんな空を見たのは初めてだよ」
「それはお前のことが心配だったからだ」
「知ってる。私はもっと求めてくれても良かったのに。結局一回だけだったし」
「うるさい」
自然と言葉が漏れていく。語る涙の声は明るく嬉しそうだった。
きっと彼女はようやく自由になったんだ。そう思い込もうとした。なんて身勝手な考えだ。一番元気だったころに想いを馳せて、自分の孤独を埋めているだけだ。
「孤独を埋めることの何がいけないのかな。私の為に泣いてくれるのは嬉しいよ。最初に言ったじゃん。私の全部あげてもいいって。楽しかったよ、イサナ」
涙は穏やかに笑う声が、闇の中で耳に届く。もう一度空を見上げれば、夜空は変わらずそこにあった。
住み慣れた町を離れて一人暮らしを始めた。
「随分賑やかな街だね。あっアイスが売ってるから、食べに行こうよ」
「まだ春先だぞ」
「それがいいじゃんか」
亡霊の声は変わらず俺に話しかけてくる。まるで彼女が生きているかのように好き勝手に振舞い俺を困らせてくる。
「また後でな。先に買い物させろ」
「はーい。そうだ私のスペースどうする?」
「そんなものはない」
「えぇーせっかく同棲できるのに。私の夢を叶えてよ」
想像上の恋人と住んでいるなんて誰にどう説明すればいい。俺の頭がおかしいと思われて終わりだ。それか可哀想な奴だと思われるに違いない。
「アイス買うから我慢な」
「なんか子ども扱いしてる。まっいいか。そういう君も悪くない」
百円ショップや雑貨屋に向けて歩き始める。
「イサナにもしも新しい恋人ができたら私はどうなるのかな?」
「さぁな。消えるのかもな」
小さな棘が胸を刺した気がした。すぐに折れたような小さな痛み。
「じゃあそれまで一緒にいたら寂しくないね。私、イサナは寂しい思いをしてほしくないな」
「案外すぐ別れるかもしれないぞ」
「そんな弱気でどうするんだい。私を忘れられるぐらい、幸せになりなよ。あっけどその前で買い物か。このままじゃ食器なしで過ごすことになっちゃうね」
「うるさい」
内なる彼女は自分の死を受け入れて話しかけてくる。生きていても、死んでいても、そういうからかい方をされるのは慣れないようだ。
「イサナ」
「まだなんかあるのかよ」
「私の魂を連れてくれてありがとう」
雑踏の声に紛れて聞こえないフリをして歩を進め始めた。そんなことに意味はない。彼女の声は俺にしか聞こえないのだから。