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琵琶湖上。
漆黒の湖に、白い船体が浮かんでいる。
琵琶湖汽船が導入した最新鋭の船舶、「megumi」。バイオディーゼルを搭載した、オープンデッキ主体の中型遊覧船である。
この船には日蓮宗の僧侶が乗船している。日蓮宗と言っても、内部対立を繰り返し多くの分派が形成されてきた。日蓮宗系統の新興宗教団体も入れれば、その数は更に多くなる。本尊や総本山等で違いが分かるが、今回招集されたのは、その中でも身延山久遠寺を総本山とする、古来からの日蓮宗宗派である。
その僧侶はデッキに整列し、数珠を手に、大津港の方を向いて御題目を唱えていた。
小鳥は、突如聞こえたあやめの悲鳴に、イヤホンマイクを掴んだ。
「あや姉、どうしたの?答えて!」
同乗していた信義僧侶が、船の外を差した。
「小鳥君!」
彼女が見たのは、信じられない光景だった。
ニンギョウの左手から放たれたキーチェーン。それが柵もろ共巫女の体を縛り上げ、その強さは増す一方だ。
「そんな・・・」
その混乱に、船上の僧侶も、木魚を止めた。
小鳥のイヤホンマイクに、声が聞こえた。
「つづけ・・・て・・・」
「あや姉!!」
陸上
あやめの体は、ゆっくりと縛り上げられる。
腹に、腕に、足に、鎖が食い込む。
体内の水分が逆流する感覚。
しかめる顔。口からこぼれる涎を拭く暇もなく、彼女はイヤホンマイクで叫ぶ。
「私に・・・奴は構って・・・る。だから・・・小鳥っ!」
通信が切れる。
船上の小鳥は、大津港を傍観する。
再び放たれたぬいぐるみ。市街のビルが爆音とともに崩壊した。
「小鳥君!」
信義僧侶の声で、彼女は振り返った。
「このまま続行します。頼みます!」
その声と共に、スカイデッキに並んだ僧侶から経文、題目が斉唱され始めた。
「私は、私の仕事をするまでです。姉と同じように」
小鳥は大津港に向けて右手を伸ばした。
「まさか、太極!」
「そう。陰陽と天地、万物の根源を司る太極」
「しかし・・・」
「前回の事件で、仏門にも通用することは証明済みなのは、貴方もみたでしょうに」
そして
「・・・我は巫女なり。我は姉ヶ崎の陰陽師なり。
しかし我、陰陽を持たず、天地に対して対極する。
故に其、究極へ通ずる・・・」
叫ぶ!
「救世 両儀!!」
鎖が一層きつく縛り上げる。
「いやあああっ!」
「あやめ!」
大介が立ち上がり、鎖に数発の弾丸を撃ち込んだ。
「びくともしない!?」
その時、2人は確かに聞いた。
近江八幡で聞いた、その声。
「たす・・・けてく・・・れ・・・」
「まさか?」
「おれは・・・ころし・・・たくは・・・なか・・・った・・・」
「お前、俵田か?」
「頭で考え・・・ても・・・止められ・・・なかった。だ・・・から・・・。
しないと・・・しない・・・と・・・苦しい・・・」
その言葉に、あやめは言った。
「大丈夫。もうすぐ・・・あなたは楽になれるから」
瞬間
「馬鹿め!」
背後で声が聞こえる。
大津港桟橋に停泊する練習船。
その甲板に大勢の白スーツ。
「デュオ!」
先頭にいたのは、あの太った男。
「そのニンギョウの元は、ブードゥーの呪術。そこに陰陽道と鎌倉仏教とは笑わせる。
カクテルを作ろうってんじゃないんだ。そんなの、無理に決まってるさ!」
そう言って笑った矢先。
「よし!」
ニンギョウの足元、4つのビー玉が動き出したのを、あやめは確認した。
無音で時計回りに円を描き、円周を幾遍も廻る。
次いで大きなS字を描きながら、中心点を通過しながら反対側へ。
太極を作り上げていく。
最後に2つのビー玉がぶつかり、互いの領域へ。小さな円を描き、完全な太極が完成した。
聞こえてくる経文の声が大きくなっていく。
瞬間!
ニンギョウの体を電流に似た閃光が幾つも走り、断末魔とも似ない声を上げた。
「うっ!」
それと同時に、あやめを縛り上げていたチェーンが砕けた。
小さな球の連続構成物が、微粒子へ分解されて。
「あやめ、大丈夫か?」
「なんとか」
近づいた大介は、咳き込むあやめの手を掴んで立たせた。
「後数分遅かったら、内臓をやられていたわ」
口元の涎を、大介が差し出したハンカチでぬぐうと、そっと目を閉じて呼吸を整える。
そして振り返った。
「デュオ・・・でしたか?
貴方が勉強家であることは、褒めましょう。ですが、1つだけ忘れていることがありますわ」
「なんだと?」
「この太極を司るのが、私の妹であるということです」
「は?」
「そう、異なる3つの要素において相手を圧倒する。そんな事は不可能よ。特に水と油を交わらせるような事なんて」
「そこまでわかるのなら、何故」
「その理由は―――」
作戦前 (拷問まがいな)取り調べの後
滋賀県警本部の廊下を歩きながらエリス、あやめ、小鳥は話をしていた。
「成仏?」
エリスの驚きの声から始まった。
「そう。私の術で動きを封じ、そこに京都中から集めた僧侶にお経を上げてもらう」
「上手くいくか?」
「既に経験はあるわ」
「使う術は?」
とのあやめの問に、小鳥は言った。
「太極を使うわ。と言っても、私が使うのは陰陽思想から外れた、姉ヶ崎独特の理論の太極なんだけど・・・前に話したわよね?」
そういわれて、あやめの表情は驚きに変わった。
「ああ、そうか!だから、ニンギョウにも鎌倉仏教にも対応できる・・・」
「除霊ができなくても、あの太極なら、術次第で、周囲の事象を取り込み、増幅できる」
「説明してくれないか?」とエリス
「陰陽思想ってのはね、元は混沌の状態であり、この混沌から明るい澄んだ陽の気が上昇して天となり、重く濁った陰の気が下降して地となる。この二気の働きによって万物の事象を理解し、また将来までも予測しようってものなの。
混沌から2つを精製できるのなら、混沌そのものを万物ととらえることも可能ではないかと姉ヶ崎の血は考えて理論を追い求めた。
そこからでた1つの理論が“究極”」
「究極?」
「その道を“究め”ようとする者は、そこにある全てを“極め”ることができる。この理論を“究極”と呼ぶの。
これを応用して私は、自らの中に1つの太極を完成させたわ。
私の周囲には、その道―陰陽師という血を“究める”時点において、周囲に複合要素が存在し、理解を示していたわ。あや姉やじいちゃんがいて、エリスさんがいて、信義さんがいた。そこから知見を広めて、自分の中に入れた。
それが私の力となり技となった。“極める”ことが簡単だったの」
「―――私も、その事実に気づくべきだった。近江八幡、いえ、彦根の事件が起きるずっと前に。
デュオ・・・いえ、萬蛇教が大手を振って、異端審問を開きたかったのなら、私たちを1人残らず殺すべきだったのね」
「たわけ!」
恫喝にも応じず、あやめは高らかと言い放った!
「彼女の太極は、“太極”であり“対極”!
姉ヶ崎小鳥の“両儀”は、あらゆる信条に対して味方となり、脅威となる。無差別に全てを叶え、全てを打ち砕く。
砕いていえば、ブードゥーだろうが仏教だろうが関係なく、全てを駆使してニンギョウを破壊することの出来る、“究極”の“太極”。
姉ヶ崎小鳥。彼女が私の反対を押し切った時点で、貴方たちの負けだったのよ!」




