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10月12日 AM6:38
夜が明けた。
この夜も、ニンギョウによる殺人事件は起きなかった。
仮眠を取っていた大介は、欠伸を押さえながら本部へ。
しごと館を丸ごと再利用した本部は、天井に宇宙ステーションがぶら下がる、どこか異様な場所。
「おはよう。眠れた?」
中央にあるデスク。乱雑に重ねられた本の中から、眼鏡をかけたあやめが、ひょっこりと顔を覗かせた。
「とりあえず。
あれ?お前、眼鏡なんてかけていたんか?」
「これ?ちょっとね・・・。
私、夕方と明方になると、一時的に視力が落ちるの。雪女と烏天狗、2つの遺伝子の衝突が原因で」
「エリスが、吸血鬼になるときに動悸がするのと、同じような感じか・・・」
「そうね。あれと同じと思ってくれれば・・・大抵、明方は眠るようにしているから、影響は無いんだけど。
最も、私とエリスは、そうなんだけどね」
そう言いながら黒縁眼鏡を外す彼女は、大介が寝ている間、ニンギョウが抱えていた、マスタードガスについて調べていた。
「寝ていれば、影響は無いのかい?」
「ローマで、エリスと会った日の朝、血が不足したり、あなたの血を体内に入れたのを差し引いて、彼女が苦しんだ記憶は?」
「・・・確かに無いな」
「こればかりは、私達でも何故かはわからないんだけど、とにかく睡眠をとっている間に、DNAの衝突が起きた場合、何も副作用が起こらないのよ。
ナヴォナ広場で変身の際に苦しんだのは、単なる貧血と、恐らくあなたの血液の後遺症」
「じゃあ、FBIのリオさんは?」
「ああ、彼女は稀なケースでね、アドレナリンの放出、つまりは興奮したり戦闘状態に入ると、DNAの衝突、というより交換が起きるの。
表立って副作用は無いから、見た目普通の妖怪と大差はない。でも、極度の興奮状態になると、性格が変わるからね。
・・・まあ、カオス・プリンセスの事は機会があれば話すとして」
重要なのは、奴が平和な滋賀県のどこで、あんなものを手に入れたのか。
「どうだった?」
手元に重なった古今東西、カラフルで分厚い本のタワーの1つを撫でながら、答えた。
「ある程度の手応えは。ただし、これはあくまでも推論に過ぎないけど」
「聞かせてくれ」
大介は、部屋の隅に置かれたコーヒーメーカーへ。
「コーヒー、要るかい?」
「いいえ、結構よ」
熱々のアメリカンを淹れて、彼女の傍に腰を降ろす。
「第二次大戦が終わって、この国はアメリカの占領下に置かれたのは、学校で習ったわね?」
「モチのロンです」
「でも終戦後、旧日本軍が戦争中に製造した化学兵器を、各地に遺棄したことは習っていないわね」
それは初耳だった。
「遺棄?日本国内にか?」
「そうよ。
化学兵器遺棄は中国でも行われたけど、これは国際問題になったから、周知の事実。
でも、自国で行われた遺棄については、極秘に早急に行われたから、全く知られることなく現在に至っている」
「でも、どうして」
あやめは一冊の本を見せた。
「1928年に発効したジュネーブ議定書。これは戦争における化学兵器や生物兵器の使用を禁止した国際条約で、日本も署名しているわ」
「これが理由?
でも保有を禁止した条約でもないし、ましてや署名だけで批准したわけでもない」
「そうね。
でも1945年当時、日本は敗戦国。占領国のアメリカに、いかなる嫌疑をかけられてもおかしくは無い。そこで、事実を隠ぺいするために火急に行った。
勿論、公式資料にも残っていないし、口外厳禁。
その証拠に北海道、福岡、神奈川で、遺棄された化学兵器が発見されているわ」
「まさか、琵琶湖にも?」
あやめは頷いた。
「その可能性を、峰野さんに調べてもらっているわ」
その時、ご本人さんが現れた。
情報担当の峰野刑事は、眠たそうに目をこすりながら、2人の前に現れた。
「あやめ君の注文だけどね、国会図書館のデータベースを探ってみたよ。
滋賀県と、その市町村の歴史から、新聞に関連書籍。結果、めぼしい結果は出てこなかった。
念のため、一般のネットワークでも情報解析をしているけど、数が膨大で時間がかかる」
2人の前のデスクに、峰野が腰掛けた。
「そうですか・・・」
「まあ、北海道のケースは関係者の証言、福岡のケースは噂を半世紀後に調査、神奈川は偶然、工事中に出てきて、初めて判明しているからね。見つけるには当時を生きていた人の、生の声しかないのかもな」
「当時の人の声、か」
大介は黙って、手を顎に置いて考える。
そして
「確か、琵琶湖には遊覧船が走っていましたね?」
「それが?」
「琵琶湖に船を浮かべていた船舶会社、現在でも過去でも構いません。その社史を探せば、何か出てくるんじゃないでしょうか?」
加えて、あやめは
「昔から琵琶湖は、水上交通が盛んな場所よ。確か、日本最初の鉄道連絡船も、琵琶湖を走っていたハズです。
琵琶湖に遺棄したなら、船舶が必ず絡む。どうして見落としていたのかしら!」
それでも、峰野は乗り気じゃない。
「ええーっ!調べるんですかぁー?」
「大至急。マスタードガスの出所を調べないことには、対策も・・・とにかく事態は一刻を争います!」
「OK。キミ専用冷蔵庫のレッドブル、いただいていくよ」
そう言い残して、再び峰野は通路の奥へと消えた。
「それで、峰野さんの調査を待つ間に、俺たちは?」
「今、最も近い萬蛇教の信者-と思しき人物、野々市孝太を洗うわ」
「関西芸術産業大学に行くんだね?」
「ええ。キャンパスは、梅小路公園の近く。10時ごろに、向こうに着くようにしたいから」
「分かった」
コーヒーを飲む彼に、あやめは
「ねえ、彼の第一印象は、どうだった?無論、先入観は捨てて」
コップを置き、唸りながら考える。
ぼそっと、一言。
「あの人、何回生なんだろう?」
「え?」
「あの野々市って人、どう見ても4回生以上に見えたんだよ。それだけ、彼が大人びていたんだけど」
「20代?」
「そんな気がする」
「一般的に大学は、8回生まで容認しているわ。そうでなくても、大学生に大人や高齢者がいても、全然おかしくないしね」
「そうだな」
大介は、手元の腕時計を見た。
黒塗りの安いデジタル時計だ。
「もうすぐ7時か・・・朝飯を取って、京都に向かおう。腹が減っては、戦はできないからな!」




