28
乾いた鈍い音が、現場に響いた。
大介には、何が起きているか理解することはできなかった。
山岸の右腕が動いたと思いきや、あやめの顔面を力一杯に殴りつけた。
背後のボンネットに倒れかけた彼女。追い打ちをかけるように、左手の拳も飛ぶ。
大介の処理能力は限界を超え、脳がフリーズした。
体勢を崩した巫女。ヘッドライトの前に倒れ込んだ彼女の腹に、漆黒の革靴が突き刺さる。
「はぐうっ!」
目を見開き、口から反吐を出す。
山岸は足にかかる力を緩めようとしない。それどころか、足首を動かし、下腹部に靴をねじ込ませ始めた。
息苦しい。下着が濡れていくのを、彼女は感じていた。
「ううっ・・・くっ・・・」
「ほう。化け物も漏らすのか・・・こいつは傑作だ」
正気の無い、冷たく尖った目は、明らかに生き物を見る眼ではなかった。
その瞬間、非現実から正気を戻した大介が、素早くCZ-75を抜いた。
「あやめから離れろ」
「ほう。下等階級の奴が、警視正に銃を向けると?
お前は“特別”扱いの警官だ。たった一声でお前は、銃を持つ犯罪者にだってなれるんだぞ」
「黙れ。彼女から足をどかせろ。
女の子を痛めつけるなんて、人間として最低だぜ」
その途端、山岸は笑い声をあげた。
ヘッドライトに照らされた、黒いシルエットが動きながら。
「彼女?女の子?お笑いだよ!」
「何がおかしい?」
彼は、そっと大介に目を向けた。
「お前、ヒトとモノの区別すらつかないのか?」
「何だと?」
「カオス・プリンセスは人間とも妖怪とも認められない存在。そうだろ?
・・・おっと、どうして知っているんだって顔をしているな。
そうだろ?トクハンを組織したのは警察庁だ。日本政府すら、妖怪の存在を超法規的に認めている。
宮地メイコもそうだ。日本最初の妖怪の警察官なんだからな。
なら、この姉ヶ崎はどうなる?
人間というのは、簡単で理解可能な理由をすぐに求める生き物だ。それが良いことでも、複雑で重大なことでも。
・・・そう、コイツの存在、いや、抽象化されたカテゴリーの分化を行う上で明確な理由をつけるとしたら、姉ケ崎あやめはモノだ。不可解犯罪を捜査し、人間に危害を与える存在を駆逐するマシーン」
「あやめは・・・あやめはモノじゃない!」
「どうして、そう言える?」
「アンタも見れば分かるだろう?
息をしている。心臓も脈打っている。そんな彼女を、アンタはモノだって言うのか?」
山岸は鼻で笑った。
「そうだよ。
君はあくまで警官だろ?法律を知らないのか?
犬や猫は、モノとして扱われる。人間と同じく息をし、心臓が動く存在であるにも関わらずな。
そういう意味では、こいつもモノだ」
「俺は法律の話をしているんじゃない。倫理としての―――」
「倫理というのは、あくまで人間主体で作られている、人間のための倫理に過ぎない。
分かったか?コイツの存在説明のために、司法や倫理を持ち出した時点で、その議論は意味を持たない。
今までペットを殺した人間が、殺人罪で起訴されたか?無論、動物裁判が横行した中世じゃなく、この現代日本でだ」
それでも、大介は反論する。
「分かった。司法や倫理では意味が無い。
それでも、あやめの周囲には、お前みたいな扱いをする人間はいないぜ。その点で、あやめは人間として扱われている証拠じゃないのか?」
「君との議論は全く意味が無い」
「なにっ!?」
「では聞こう。その周囲の人間の何人が、イリジネアの存在を知っている?妖怪が空想上の生き物でないと認知している?」
「・・・」
「そう。誰も認知していない。
ローマのナヴォナ広場事件はガス爆発として、難波事件はテロリストの電車ジャックとして表面上の解決はされた。伊豆の事件も、会社御曹司の暴走が招いた果てとして報道され、殺し屋妖怪の事なんてこれっぽっちも伝えられていない。それでも、国民は疑問を抱かない。当然だ。誰も妖怪の存在も、彼らが起こす犯罪の影すら知らないのだから」
「・・・」
「コイツが人間と変わりない暮らしができているのは、政府の寛容さと、無知な国民の振る舞いから生まれた偶然に過ぎない。
だが、それを知るお上の意見は満場一致。そう、人間の暮らしと正義を守る“モノ”」
「それでも・・・それでもっ!」
言葉を詰まらせる大介。
「認めろ。これが現実だ。姉ケ崎あやめはモノ、我ら人類を守る兵器だ」
そこに隼と小鳥が。
「あや姉!」
「何してるんだ!山岸!」
彼を見ると、山岸は言う。
「これは負け犬の隼」
「黙れ」
「有名国立大学法学部というキャリア路線を捨てて、叩き上げの道へ向かった、俺からしたら実にくだらない人種だ。
そのおかげで、今は動いて言葉を発するモノのお世話なんて、クソみたいな仕事をしている」
「俺も、お前と友達じゃなくてよかったよ。
そんな話はいい。早く俺の部下から、足を放せ」
こんな口調は、子である大介も初めて聞いた。
「そいつは、コレ次第だ。
どうする?バッジを渡すか、妹の前で、もう一回漏らすか」
すると、小鳥が叫んだ。
「いい加減にしなさい!すぐに、あや姉から離れて。でないと・・・」
「何をする?どうしようと、お前を公務執行妨害で逮捕するまで」
依然と、あやめを睨みながら話す。
「もう、その辺で・・・いいでしょ?
バッジは渡すから・・・もう・・・皆に関わらないで」
その言葉を聞くと、山岸は巫女の腹から足を引き抜いた。
「早く言っていれば、恥ずかしい姿を晒すことも無かったのに。さあ」
伸ばした右手に、あやめは金のバッジを渡した。
お菓子を貰った子供の如く、満足した顔であやめの元から急ぎ足で立ち去った。
「待て!」
大介が叫ぶ。
「お前に、これだけは伝えておく。
“現実なんて、どうとでも変えられる”。これが俺の信条だ。覚えておけ」
「意味が分からん。論理的な話し方を学ぶんだな」
吐き捨てた彼は、赤いランプの中へ消えていくのだった。
「あや姉!!」
小鳥がぐったりとしたあやめの元へ。
その眼には、涙。
「しっかりして、あや姉」
「大丈夫よ。いつもの事だから」
「いつもの事って・・・」
呆然と立ち尽くす大介に、あやめが話しかけた。
「大介」
「・・・」
「大介?」
彼は銃を下ろしたまま、俯いている。
「金のバッジって・・・まさか」
「そうです警部。このままじゃ・・・うっ・・・」
何かを言いかけた時、お腹を押さえながらあやめがうずくまった。
「あや姉!」
「あの野郎、どれだけの力で。
すぐに本部に運ぼう。丁度、“れいせん”が駆け付けているから、車ごと」
すると小鳥。
「まず病院へ運ぶのが先決じゃあ」
「いや。今のあやめは妖怪の状態が濃く出ている。人間の病院より、イリジネアの住民用に特化した治療ポッドに入れた方がいい。そのポッドはこの近くじゃ、トクハン本部にしかない」
「わかった」
「車に彼女を乗せて運ぼう。大介・・・おい!大介!」
父の声に応答せず。無言であやめの元へ。
ゆっくりと抱きかかえると、隼が運転してきたレパードに向かう。
右手に鼓動、左手に湿り気を感じながら。頬にできた痣も生々しい。
「大介」
「黙って寝てろ」
ぶっきらぼうに答えた彼に、あやめは何も言おうとはしなかった。
車の助手席にあやめを乗せると、運転席に回り、シートを倒して小鳥を後部座席にのせた。
そのすぐ後に、眼前に着陸する大型輸送ヘリ、CH-47T改 “れいせん”。
後部ハッチが開き、一直線にレパードを進ませる。
収容を完了した大きな機体は、深夜の空へと吸い込まれていくのだった。
一方、現場から離れた名神高速道路上。
名古屋方面へ疾走する、黒塗りのメルセデスベンツ S600。
車内後部座席に腰掛けた山岸は、ケータイで話をしていた。
「ええ。バッジは私の手に・・・分かりました。適当なパーキングエリアのゴミ箱にでも。
マスコミ対策は、どうします?・・・了解しました」
通話を終えると、運転手に話しかける。
「例の逃走車は?」
「無線によると、琵琶湖付近で消えた、と」
「そうか・・・次の養老SAで停車してくれ。トイレに行きたい」
車窓に目を向けた男。その満足した笑みに、緑色のサービスエリアの標識が写るのだった。
「これで、世はこともなし」




