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奈落の眼

作者: 石崎 大岩
掲載日:2026/09/25

祖父の手紙は、雨の降る夜に届いた。


封筒の表面には、宛名すら書かれていなかった。ただ、差出人の欄に――震える老いた筆跡で――「森の奥、ホダ木の傍に行け」とだけ記されていた。祖父が死んでからすでに三年が経っていたが、消印の日付は昨日のものだった。


俺の名は柊一。三十二歳。特に何も持っていない男だ。仕事も、恋人も、帰る理由も、もうずいぶん前に手放した。


だから手紙を受け取った翌朝、鞄に水と懐中電灯だけを詰めて、祖父の遺した山奥の土地へと向かった。理由を問う相手も、止める声もなかった。


山に入るにつれ、空気が変わった。


湿度が高い、という言葉では足りない。空気そのものが水を含んで重く、息を吸うたびに肺の中へ濡れた布を押し込まれるような感覚があった。


苔の香り。朽ちた木の甘い腐臭。その下に、微かに、何か甘ったるい――まるで古い花嫁衣装の箪笥を開けたときのような――香りが混じっていた。懐かしさとも、不快感とも区別がつかない匂い。


道は次第に細くなり、やがて消えた。


それでも足は前へ進んだ。引き寄せられる、という表現が最も正確だったかもしれない。自分の意志で歩いているのか、それとも何かに糸を引かれているのか、その境界がぼやけていく感覚が、山に入るほどに濃くなっていった。


木々の間から差し込む光が、次第に黄みを帯びてきた。


それは太陽の光ではなかった。空は分厚い雲に覆われ、木漏れ日など存在しないはずだった。にもかかわらず、森の中には確かに黄色い光があった。地面から染み出すような、腐敗した琥珀の色をした、生温かい光が。


足元の落ち葉が、その光に照らされてどこか粘膜のように見えた。踏みしめるたびに、濡れた皮膚を踏んでいるような錯覚が走った。


俺は立ち止まった。


理性が、ここで引き返せと言っていた。しかし足は動かなかった。動かないのではなく――正確には――動かしたいという気持ちが、霧の中に溶けていくように薄れていったのだ。




* * *




開けた場所に出たのは、山に入ってから二時間後のことだった。


「開けた」といっても、空が見えるわけではなかった。木々がぐるりと取り囲み、その中央だけがぽっかりと空洞のように広がっている。直径にして十メートルほど。地面は黒く湿り、苔が厚く積もり、踏み込むと足首まで沈んだ。靴の中に冷たい湿気が滲み込んでくる。


そこにホダ木があった。


切り株ではなく、倒れた木の幹が地面に半ば埋もれるように横たわっていた。腐食が進み、表面は黒ずんで、その全体にキノコや苔が群生している。長さは五メートルほどだろうか。太さは――人間の胴体よりも、ひとまわり大きい。


俺はそれに近づいた。


近づいて、初めて気づいた。


ホダ木の表面に、何かが埋もれていた。


最初は、木瘤だと思った。あるいは、異常な形をしたキノコの傘か。しかしよく見ると――それは、眼球だった。


瞼のない、眼球。


一つではなかった。数えることを途中でやめたくなるほど、そこかしこに、ホダ木の腐った木肌に埋もれるように生えていた。


大きさは様々だった。親指の爪ほどのものから、握り拳大のものまで。どれも同じ色をしていた――白目の部分は黄ばんだ象牙色で、瞳は深い朱色。虹彩の模様は、古い布に刷り込まれた染め模様のように複雑で美しかった。


美しい、と思った自分に、俺は震えた。


眼球には茎があった。


木の内部から伸び出るように、細い茎が各々の眼球を支えていた。茎の表面は半透明で、中を何かが流れているのが透けて見えた。花の茎に似ていた。一輪の花――名も知らない山野草の、しなやかな茎に。


ただしその先に咲いているのは花ではなく、あの朱色の瞳を持つ、まばたきをしない眼だった。


音を立てたのは、俺の呼吸だった。


喉の奥で、小さく息が詰まる音。それだけで充分だった。


一斉に、眼が俺の方を向いた。


音もなく。ぬるりと。まるで眠っていた生き物が覚醒するように。霞んでいた朱色の瞳に、焦点が結ばれるのをはっきりと見た。


それは俺を見ていた。何十もの眼が、いや、もしかしたら何百もの眼が、一斉に俺を見ていた。


足が動かなかった。


恐怖とは、こういうものだったか。


恐怖とは叫ぶことでも、逃げることでもなかった。完全に静止してしまうことだった。思考の表面だけが異様に澄み渡り、体の中の何もかもが止まるような感覚。俺はただ立って、それらの眼に見つめられていた。




* * *




どれほどの時間が経ったか、わからない。


やがて俺は気づいた。眼が、俺に向けて何かを伝えようとしていることに。言葉ではなかった。声もなかった。ただ、その朱色の瞳が俺を捉え続ける中で――俺の頭の中に、何かが浸透してくるような感覚があった。


水が紙に滲みるように。


インクが布に広がるように。


ゆっくりと、確実に。


俺は祖父のことを思い出した。


祖父は晩年、ひどく孤独だった。誰とも話さず、部屋に引きこもり、食事すら拒むようになった。家族は認知症を疑ったが、医師の診断は異常なしだった。


祖父はただ――消えていった。静かに、確実に、この世界から抜け出すように。最後に俺に言った言葉を、俺は今でも覚えている。


「森の眼が呼んでいる。お前にも、いつか聴こえる」


俺は当時、その言葉を、老いた男の妄想だと思った。


今、その眼の前に立って、俺は理解した。


祖父も、ここに来たのだ。


そしてここで何かを――見た。感じた。選んだ。




* * *




手が、動いていた。


自分の意志で動かしているのか、それとも何かに動かされているのか、もうわからなかった。ただ、俺の右手はホダ木に向かって伸びていた。最も大きな眼球――握り拳大の、朱色の瞳を持つそれ――に向かって。


茎に触れた瞬間、息が止まった。


冷たかった。想像をはるかに超える冷たさ。死体の皮膚よりも冷たく、しかしその冷たさは――奇妙なことに――不快ではなかった。


むしろ、長い間熱を持ち続けていた何かが、初めて冷やされるような、解放に似た感覚があった。茎の表面はわずかに湿っていて、指の腹に吸いつくような微細な凹凸があった。


眼が、俺の手に向いた。


茎越しに、俺を見ていた。


近距離で見ると、その眼球の美しさは言語を超えていた。朱色の虹彩は、渦巻く染物のように複雑な模様を持ち、中心の瞳孔は深淵のように黒く、そこに俺の顔が小さく映っていた。


俺は自分の映った顔を見て、初めて気づいた――俺は泣いていた。いつから泣いていたのか、わからなかった。ただ、頬に涙の筋があった。


「もう何も感じないのなら」


声は、聴こえなかった。


しかし言葉は、確かに届いた。空気を振動させる音ではなく、骨を通じて伝わる低周波のように、俺の内部で直接生まれた言葉として。


「もう何も感じないのなら――」


俺は長い間、何も感じていなかった。


仕事を辞めたとき。恋人と別れたとき。友人の連絡を無視し続けたとき。母親の葬儀で泣けなかったとき。


全ての場面で、俺の内側には何もなかった。空洞でも、暗闇でもなく――ただ、何もなかった。質感のない虚無。触れることのできない喪失。


その全てを、眼は知っていた。


茎を通じて、眼は俺の中に流れ込んでいた。記憶の澱を、静かにかき混ぜながら。




* * *




俺は眼球を、むしり取った。


引きちぎる、という感触ではなかった。熟れた果実がへたから離れるような、自然な分離だった。ただし音があった――ぷつ、という小さな、しかし妙に湿った音。


それとほぼ同時に、木から朱色の液体が垂れ始めた。


血ではなかった。血よりも色が濃く、粘度が高く、香りが甘かった。熟れすぎた果物の香り。腐敗の一歩手前の甘さ。それが傷口から滲み出し、ゆっくりと木の表面を伝い、地面の苔へと吸い込まれていった。


手の中に眼球があった。


茎はまだつながっていた。俺の手の中に眼球があり、茎がホダ木へと続いている。細い茎越しに、朱色の液体が俺の手のひらを伝って滴り落ちた。


温度があった――切り取られた後も、液体はわずかに温かかった。生きているものの体温ではなく、それよりも数度低い、微妙な温もり。俺の手のひらはそれを感じ続け、感覚が鋭くなるとともに、全身がその温度に染まっていくような気がした。


茎を切ろうとした。


しかし手が止まった。


止めたのは、眼だった。手の中の眼が、俺を見ていた。切り取られた後も、その朱色の瞳はまばたきせず、焦点を俺に合わせていた。その眼の中に、俺は何かを見た。懇願とも、諦めとも、解放への渇望とも取れる何かを。


それは祖父の眼だった。


最後に見た祖父の眼と、同じ色をしていた。


俺は手を震わせながら、それでも茎に指をかけた。


切る。


介錯――という言葉が、頭の中に浮かんだ。


苦しみを終わらせるための行為。慈悲による断絶。それが何に対しての介錯なのか、俺にはわからなかった。しかし、それをしなければならないという確信だけが、霧の中で唯一の灯台のように、俺の中に立っていた。


指先に力を込めた。


茎は、思いのほか脆かった。


ぷつり、と――あの湿った音が、また響いた。


朱色の液体が、今度は勢いよく噴き出した。細い噴水のように、茎の切断面から液体が空へと弧を描いた。それは俺の腕を、首を、顔を濡らした。


温度は――低かった。先ほどよりも明らかに低く、しかし冷たいとは言えない、その中間の温度。甘い腐敗の香りが濃くなり、俺の肺を満たした。


ホダ木が揺れた。


音もなく、しかし確かに、その巨大な腐木が僅かに身じろいだ。他の眼球たちが、一斉に俺を見た。その視線は重く、温かく、まるで大勢の人間に同時に抱きしめられているかのような圧力があった。不快ではなかった。


泣いていた。


俺はまた泣いていた。今度は自覚があった。胸の中で何かが溶けていくような感覚とともに、涙が止まらなかった。


何に対して泣いているのかわからなかった。祖父に対してか。この眼球たちに対してか。それとも、長い間何も感じることができなかった自分自身に対してか。




* * *




手の中の眼球が、変わり始めた。


温度が下がっていた。切り離された後、急速に冷えていく。同時に、朱色だった虹彩が褪せていくのを俺は見た。鮮やかな朱から、錆色へ。錆色から、灰色へ。焦点を保っていた瞳孔が、少しずつ散漫になっていく。


それはまるで、死んでいく過程を手の中で見ているようだった。


しかし――奇妙なことに――痛みは感じなかった。眼球からは確かに生命のようなものが抜けていっているのに、その過程に苦しみの色はなかった。静かだった。穏やかだった。長い旅の末に、やっと目的地に辿り着いたときの顔に似ていた。


俺は眼球を、両手で包むように持ち続けた。


冷えた。すっかり冷えて、石のような重さになった。


そのとき、森が変わった。


黄色い光が薄れていった。木々の間から、灰色の空が見えた。雨の匂いがした。遠くで鳥が鳴いた。


ホダ木からの朱色の液体は、すでに止まっていた。傷口は塞がるわけではなく、ただ乾いていった。他の眼球たちは――まだそこにあった。しかし、その視線はもう俺を追っていなかった。それぞれが、それぞれの方向を見ていた。あるいは何も見ていなかった。


俺はホダ木の傍に、しばらく座り込んでいた。


冷えた眼球を手に持ったまま。




* * *




帰り道は、覚えていない。


気づいたとき、俺は山の麓の道路に立っていた。空は夕暮れで、西の空だけが赤く燃えていた。手には何も持っていなかった。眼球は――どこかに置いてきたのか、消えたのか、あるいは最初から存在しなかったのか。


しかし手のひらには、朱色の染みが残っていた。


洗っても落ちない染みが。


俺はそれを見つめながら、祖父の最後の言葉を思い出した。


「森の眼が呼んでいる。お前にも、いつか聴こえる」


祖父はきっと、俺と同じことをしたのだ。あの場所に行き、眼と向き合い、茎を切った。介錯した。そして――何かを受け取って帰ってきた。


俺が受け取ったものが何なのか、まだわからなかった。


ただ――胸の中の空洞が、少し埋まっていた。


あの腐敗の甘い香りが、まだ鼻の奥に残っていた。


眼の冷たさが、まだ手のひらに残っていた。


それが何を意味するのか、問いを立てることすら、俺にはできなかった。ただ、久しぶりに何かを感じていた。その感覚が恐ろしさからくるものなのか、悲しみからなのか、あるいは別の何かからなのか、区別がつかなかった。


区別がつかないままでいいと、初めて思えた。


道路の脇に、小さな花が咲いていた。


名前も知らない、白い花。


その花の茎が――ほんの少しだけ――俺の方に傾いているように見えた。


俺は立ち止まらず、歩き続けた。


夜が来た。


山は静かだった。




* * *




それから一週間後、俺の夢に祖父が出てきた。


祖父は若く、見知らぬ山の中に立ち、笑っていた。笑顔は穏やかで、俺が知っている晩年の祖父の表情ではなかった。もっと遠い、もっと若い頃の顔。会ったことのない顔。


夢の中で祖父は何も言わなかった。


ただ、俺の方に手を伸ばし、手のひらを見せた。


その手のひらには――朱色の染みがあった。


俺と同じ、染みが。


目が覚めたとき、部屋の空気はひどく湿っていた。窓は閉めていたはずだった。それでも、土の香りと、甘い腐敗の香りが漂っていた。そして――かすかに、あの冷たさが。


皮膚の表面を、細い何かが這うような冷たさが。


俺は布団の中でじっとしていた。


天井を見上げながら、目を見開いたまま、動かなかった。


何かが俺を見ていた。


それが恐ろしいのかどうか、もうわからなかった。ただ、その視線の重さが――懐かしく、温かく、そして確かに冷たかった。


長い夜だった。


俺は眠れないまま、朝を待った。


朝が来た。


窓の外、細い電線に、名も知らない鳥が一羽止まっていた。鳥は動かず、ただ俺の部屋の窓を見つめていた。


その鳥は、三日間そこにいた。


毎朝目が覚めると電線の上にいて、俺が窓に近づくと飛び去り、夕暮れになるとまた戻ってきた。名前のわからない、小さな鳥。羽は灰色で、体は雀ほどの大きさだったが、その目だけが――深い朱色だった。


普通の鳥の目ではなかった。虹彩の模様が、あのホダ木の眼球と同じ渦巻きの染め模様をしていた。


俺はその鳥を、追い払おうとしなかった。


追い払う理由が、思い浮かばなかった。


四日目の朝、鳥はいなくなった。電線は空で、空は曇っていた。


俺はコーヒーを淹れながら、それに気づいたとき、胸の中に小さな穴が開くような感覚を覚えた。喪失だった。久しぶりに感じる、質感のある喪失だった。それが悲しいのか、それとも安堵なのか――区別がつかなかった。しかし確かにそれは、何かを感じているという事実だった。


コーヒーの湯気が、台所に漂った。


俺は手のひらを見た。


朱色の染みは、まだそこにあった。薄れてもいなければ、広がってもいなかった。輪郭のはっきりした染みが、右手のひらの中央に座り続けていた。皮膚の表面ではなく、もっと深い層に刻まれているような感触。爪で引っ掻いても、石鹸で何度洗っても、染みはそこを動かなかった。


その染みに、俺はそっと指を当てた。


冷たかった。


手のひらの他の部分は体温があるのに、染みの部分だけが、ひんやりと冷えていた。まるで薄い氷を皮膚の下に貼り付けたような、持続する低温。


夜になるとその冷たさはより鮮明になり、眠ろうとするたびに手のひらが主張するように俺の意識を引き寄せた。


眠れない夜が続いた。




* * *




二週間が経った頃、俺は夢を見た。


夢の中で、俺は再びあの森にいた。


しかし景色が違った。昼間の黄色い光ではなく、夜の青白い光の中に森があった。月明かりのように見えたが、月は見えなかった。光源がどこにも存在しないのに、森の中は淡く明るかった。木々の輪郭が、精巧な切り絵のように空間に浮かび上がっていた。


ホダ木の場所を、俺は迷わず歩いた。


道を知っているわけではなかった。ただ、体が覚えていた。皮膚が方向を知っていた。足の裏に伝わる地面の質感が、導いていた。湿った土。根の凹凸。苔の柔らかさ。踏みしめるたびに、その感触が確かめるように足の裏を押し返してきた。


開けた場所に出た。


ホダ木は、昼間よりも大きく見えた。


夜の光の中で、眼球たちは輝いていた。朱色の瞳が、それぞれに内側から光を放つように、ぼんやりと発光していた。その光は柔らかく、蛍の光に似ていた。しかし蛍よりも静かで、間欠的ではなく、絶え間なく、安定した光だった。


俺が近づくと、眼たちが俺を向いた。


今回は、恐怖を感じなかった。


代わりに――懐かしさがあった。


知り合いに会ったときの、あの感覚。長く会っていなかった誰かの顔を見たときの、胸の奥が緩む感覚。


俺はホダ木の傍まで行き、その腐った木肌に手を触れた。表面はぬめっていた。昼間に触れたときよりも湿度が高く、指の腹に吸いつくような感触が強かった。


一つの眼球が、俺の手の方に向いた。


俺が触れていない側の眼球が、茎をたわませて俺の指先に近づいてきた。


それは――花が光に向かって顔を向けるような動きだった。


ゆっくりと、音もなく。


眼球の表面が俺の指先に触れた。


冷たかった。しかしその冷たさの中に、微かな脈動があった。心臓の鼓動ではなく、それよりも遥かに遅い、深海の潮流のような周期的な動き。


触れているうちに、俺の手のひらの染みがじわりと温かくなった。いや、温かくなったのではない――染みの冷たさと眼球の冷たさが共鳴して、その境界が消えたのだ。


夢の中で、俺は泣かなかった。


ただ、立っていた。眼球に触れたまま、その場に立ち続けた。


どこかで水の流れる音がした。川ではなく、もっと細い流れ。木の根の間を縫うような、かすかな音。その音が子守唄のように、俺の意識を深く引き込んでいった。


夢の中で、眠った。


夢の中で眠った俺は、何を見たのか、覚えていない。


目が覚めると、朝だった。


窓の外は雨だった。


手のひらの染みが、ひどく冷えていた。




* * *




あの山に、また行こうと思ったのは、それから十日後のことだった。


きっかけは些細なことだった。スーパーマーケットで野菜を選んでいるとき、隣に立った老婆が俺の手を見て、小さく息を飲んだ。俺が振り返ると、老婆は目を逸らし、足早にその場を立ち去った。染みを見たのだろうと思った。染みは他人にも見えるのだと、そのとき初めて確認した。


家に帰り、鏡の前に立った。


顔を見た。


何かが変わっていた。顔の造作が変わったわけではない。しかし目の色が――昼の光の下で見ると――かすかに、ほんのかすかに、朱みがかっていた。白目の部分が黄ばんでいるのではなく、虹彩の縁に、見えるか見えないかの朱色の輪が生まれていた。


俺は長い間、鏡の中の自分を見つめていた。


恐怖は、もうなかった。


代わりにあったのは――好奇心だった。


それは良いことなのか、悪いことなのか、俺には判断できなかった。ただ、久しぶりに何かに対して好奇心を持ったという事実が、俺の中でひっそりと輝いていた。




* * *




山への道は、二度目なのに覚えていなかった。


それでも迷わなかった。


体が覚えていた。前回と同じように、俺の足は勝手に正しい方向を選んだ。湿った空気が濃くなるにつれて、手のひらの染みがじわじわと反応した。温かくなるのではなく――より鮮明に冷えていく。まるでコンパスの針が北を指すように、染みが方向を指し示していた。


森に入ると、また黄色い光があった。


今回は昼間だったが、前回と同じ黄みがかった光が、地面から染み出すように漂っていた。違うのは――その光の中に、前回なかったものが見えることだった。


影だ。


影のようなもの。


木々の間に、人の形をした影が立っていた。一つではなかった。遠くに、近くに、無数に。しかしそれらは動かなかった。木の幹と見分けがつかないほど静かに、ただそこにあった。俺が目を細めて凝視すると、輪郭がぼやけて消えた。視界の端で捉えると、再びはっきりとした形を取り戻した。


俺は立ち止まらなかった。


歩き続けた。


影の一つが、俺の横に並ぶように動いた気がした。ゆっくりと、俺の歩調に合わせて。振り返っても何もなかった。しかし視界の端に、確かにそれはいた。


祖父かもしれないと思った。


根拠はなかった。ただ、その影の輪郭が、記憶の中の祖父のシルエットと重なった。


「爺さん」


呟いてみた。


森が、一瞬だけ静まり返った。


鳥の声も、風の音も、全てが止んだ。その静寂は一秒にも満たなかったが――その一秒の間に、俺の左肩に、何かが触れた。


手ではなかった。手よりも軽く、手よりも曖昧な、圧力とも呼べないような微細な接触。しかしそれは確かにあった。


静寂が終わり、鳥が再び鳴き始めた。


俺は歩き続けた。


頬が濡れていた。




* * *




ホダ木は、変わっていた。


前回よりも、腐食が進んでいた。木肌の黒ずみが深く、表面の一部は崩れて地面に溶け込んでいた。しかし眼球は――前回より、増えていた。


確かに増えていた。


隙間なく埋まるように、眼球たちがホダ木を覆っていた。大きいもの、小さいもの、茎の長いもの、短いもの。それぞれが異なる方向を向き、異なるリズムで微細に揺れていた。まるで海底のアネモネが潮流に揺れるように。


俺が近づくと、全ての眼が俺を向いた。


しかし今回は――その中の一つが、違う動き方をした。


最も大きな眼球の隣に、新しく生えた、まだ小さな眼球があった。茎が細く、眼球は親指の爪ほどの大きさしかなかった。その小さな眼が――他の眼とは違うリズムで、ゆっくりと、俺に向かって傾いていた。


他の眼球が一斉に俺を向くのとは違う、個別の、意図的な動き。


その朱色の瞳を見た瞬間、俺の胸が締め付けられた。


知っていた。


この眼を、俺は知っていた。


虹彩の模様が――前回俺が手で包んで、冷えていくのを見届けたあの眼の模様と、同じだった。


俺は声を上げそうになった。それを堪えたのは、声を上げることが何かを壊してしまうような気がしたからだ。この静けさを、この場の空気を、乱してはいけないという確信があった。


代わりに俺は、ゆっくりと膝をついた。


地面の濡れた苔が、ズボンに染み込んできた。冷たさが膝から太ももへ伝わっていく。しかしその冷たさは、不快ではなかった。


小さな眼球と、目線の高さが同じになった。


眼球が、微かに震えた。


茎が細く揺れて、眼球が俺に向かって、また少し傾いた。近づいてくるようだった。俺は手を出さなかった。ただ、顔を近づけた。眼球まで、数センチの距離。


その朱色の瞳の中に、俺の顔が映った。


今回は――泣いていなかった。


静かな顔をしていた。俺自身も気づかなかった静けさが、鏡のように朱色の中に映っていた。


甘い腐敗の香りが、濃くなった。


眼球の表面に、細かな水滴が生まれた。露のように、冷えた空気の中に凝結した水分が眼球の曲面に集まり、光を受けてきらめいた。俺の吐く息が、眼球に触れていた。


眼球は、その息に反応していた。


水滴が集まっていた。




* * *




どれほどそうしていたか、わからない。


気づいたとき、日が傾いていた。


俺は立ち上がり、服についた苔を払おうとして、止めた。払う必要がなかった。この場所の苔を、俺は身につけて帰る。それで良かった。


帰り際、俺はホダ木の木肌に手のひらを当てた。


染みの部分を、木に押し当てた。


冷たさと冷たさが合わさった。染みが――ほんの僅かに、温かくなった気がした。あるいは木が、僅かに温まった気がした。どちらかわからなかった。その曖昧さの中に、俺はしばらく留まった。


朱色の液体が、細く一筋、木の表面を伝った。


傷があるわけではなかった。前回の切断面は乾いていた。しかしどこからともなく、その液体が滲み出た。俺の手のひらを伝い、手首へと流れていった。


俺は手を離さなかった。


液体が袖を濡らすまで、離さなかった。




* * *




家に帰り、シャワーを浴びた。


液体は服からは落ちなかった。皮膚からは落ちた――しかし、染みと同じ場所に、新しい朱色の点が生まれていた。前の染みの中に、より深く刻まれるように。重なるように。


俺はその点を見つめながら、思った。


次に行くのは、いつになるだろうか。


一週間後か。三日後か。それとも明日か。


答えは、既に体が知っていた。


手のひらの染みが、冷えていた。


それは方向を示していた。北でも南でもなく、あの山の方角を。俺の意識が眠っている間も、目が覚めている間も、絶え間なく。


窓の外で、雨が降り始めた。


土の香りがした。


甘い腐敗の香りが、その中に混じっていた。


俺は窓を、閉めなかった。


雨音の中に、かすかに、何かが聞こえた気がした。声ではなかった。言葉でもなかった。ただ、空気が振動する前の、振動しようとする直前の、静けさの形をした何か。


俺はそれを、ただ聴いていた。


夜が深くなった。


染みが、冷えていた。


それで、充分だった。

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