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零時十三分、君を探して

作者: 39ra

 終電間際の駅は、昼間の街の続きではなかった。白い蛍光灯が床のタイルに薄い影を並べて、人の気配だけが音にほどけていく。

 改札を抜ける直前、スマホが震えた。


 助けて


 差出人は中原。大学からの友人で、社会人になってからも数少ない“弱音を持ち寄れる相手”だった。

 時刻は0時09分。既読を付けて電話をかけても応答はない。ホームへ駆け下りると、電光掲示板の表示が目に刺さった。


 0:13 □□行き


 □□は地名ではなかった。四角い記号が並んでいるのに、なぜか舌の奥で音が形になりかける。終電は0時05分のはずだ。駅員に声をかけると、苦笑とともに「その便は出ませんよ」と手を振られた。

 だが、トンネルから冷たい風が吹いた。金属の唸りが近づいてくる。私はホームの縁に立ち、暗闇に目をこらした。


 黒ずんだ車体が滑り込んだ。古い車輪の軋み。ドアが開く。

 あの時の大学構内の風の匂いを、ふと嗅いだ気がした。欅並木を渡ってきたような、夜更けと紙の匂い。

 気づけば私は乗り込んでいた。


 車内は琥珀色の明かりに満たされ、昭和の広告が色あせて並んでいる。「最新の冷蔵庫」「最先端のラジオ」。路線図は見慣れた形だが、ところどころの駅名が黒いテープで塗りつぶされ、剥がれた端から白い紙が覗く。

 まばらな乗客の顔は、どこか不自然だった。輪郭がぼやけ、笑っていても頬が動かない。目の位置がわずかにずれているようにも見える。


 通路の先に、俯いて座る男がいた。

「……中原」

 名前が口から零れる。男が顔を上げた。丸い眼鏡、寝癖の残る前髪——間違いない。だがその瞳は水の底のように光を吸い、私の顔を通り過ぎる。


「誰ですか」


 あまりにも丁寧な声音だった。笑い方のくせも、肩をすくめる癖も消えている。


「俺だよ。……俺、だよ」

「すみません。存じ上げません」


 座席の端に座っていた小柄な老女が、私の袖をくいと引いた。

「降りたら戻れないよ、あんた」

 皺だらけの指は意外に温かい。

「ここはね、忘れたいものを置いていく電車さ。見返りに、痛いところを抜いてくれる。けど、置いてくるものを選べるのは最初だけ。あとは勝手に削られてく」

 老女は、車内の天井を見上げた。蛍光灯の明滅が、遠い雷のように脈打つ。

「この人はね、重いのを先に置いちまったんだよ」


 中原が立ち上がった。ゆっくりと、私の肩を避ける動きは、知っている彼の動作に似ていない。

「楽になったんです」

 静かな声だった。

「重かったものが、なくなった」


 大学時代、彼は試験前になると必ず私の部屋に来て、朝までレポートを書いた。徹夜続きの週、明け方のキャンパスを歩きながら、彼はよく言ったものだ。

「もし全部忘れられたら、どれだけ楽だろうな」

 そのあとで、自分で笑い直した。

「でも、忘れたくないものもあるからさ。ほら、文学部のくせにロマンがないって言われるから、言い方を変える——“忘れないで済むように、覚え方を変える”って」

 彼はいつも、言葉の置き場所を探していた。


 私は息を整え、できるだけゆっくり言った。

「お前は、俺を差し出したのか」

「知りません。あなたのことは。……楽なんです」

 言葉に棘はなかった。ただ、そこに熱がない。中原は車内放送に目を向ける。


 次は——■■■駅、■■■駅です。お降りの際は足元にご注意ください。


 アナウンスの駅名は聞き取れなかった。舌が届かない音。

 窓がふっと暗くなり、黒い鏡に車内が映る。映った乗客のいくつかに、顔がなかった。

 次に映ったのは、欅並木——大学の通りだ。夜の葉擦れ。飲み会の帰り、二人で歩いた道。笑い合いながら、私たちは「世界の終わりについて」のレポートをどう逃げ切るか話していた。

 中原が立ち止まり、私の手から酔い覚ましの缶コーヒーをひったくって、言った。

「俺さ、図書館の屋上に上がれる鍵、知ってる」

 私は笑った。

「またそれか。入館カードで行けるのは三階までだろ」

「人間、やり方だ。観葉植物の搬入時にね、守衛さんが……」

 その話は結局、成功した。屋上で見た夜景の欠片は、今でも指の腹に残っている。残っている——はずだ。


 電車は減速し、ドアの向こうに駅名標が現れた。白地に、黒い字で——読めない。視線が滑る。目が文字を拒んで、上に乗った埃だけをなぞっている。

 プラットホームには霧が溜まり、蛍光灯の光が円形に滲む。

 中原は一歩、前へ出た。

「おい、待て」

 腕を伸ばす。指先は空を掴む。ドアは音もなく閉じ、彼は霧の中に溶けた。

 遠ざかるホームで、誰かがこちらを見た気がした。欅の影のような背丈。追いかければよかったのか。足は床に根を張り、車輪は容赦なく回り始める。


 老女は私の手を軽く叩いた。

「誰かを連れ戻しに来た人は、だいたい置いて帰るよ」

「置いて、帰る」

「重いからね。持てないんだよ」


 窓の外は地下のはずなのに、星が流れていく。黒い空に傷を走らせ、光の破片が尾を引く。

 別の窓は、雨上がりのキャンパスを映した。夏の午後、講義をサボって窓際に座り込み、二人で古本市の戦利品を見せ合った。

「見ろよこれ、“都市伝説集”。初版」

「よくそんなの見つけるな」

「君の卒論に使え」

「使わねえよ」

 そんなやりとりが、ページの隙間から仄かに匂ってくる。

 別の窓は、研究棟の踊り場。徹夜明け、紙コップのコーヒー。

「お前が先に倒れたら、俺が肩貸す」

「じゃ、俺が先に倒れるわ」

 私たちは笑って、階段に座り込んだ。


 車内に、別の乗客の声が混じる。

「忘れられるのは、救いでもある」

「救いは、空洞でもある」

 知らない男女が短く言い合い、また黙る。

 路線図の黒テープが、ひとつ剥がれ落ちた。覗いた駅名は、大学の最寄り駅に似ていたが、最後の一文字が欠けている。


 次は——桜□□前、桜□□前です。


 舌で言えない音が、桜の花びらの形をして、喉の奥で溶けた。

 ドアの窓に、あの日の屋上が映る。フェンス越しの風。遠くに見える観覧車の灯。

 中原が言った。

「もし全部忘れられたら、さ。……俺は、君のことも忘れられるのかな」

 私は冗談だと思って、肩を殴った。

「忘れたら、お前は迷子だ」

「君が見つけてくれ」

 私は応えた。

「見つけるよ。何度でも」

 約束のような遊び言葉。

 その夜の帰り、彼は酔って歩道橋から靴を落とし、裸足で笑っていた。私はコンビニでスリッパを買ってきて、二人で雨に打たれた。


 車内放送が、静かに告げる。


 次は——終点、終点です。


 どこにも書かれていない駅名。だが、終わりだということだけがはっきりと伝わる。

 ドアの前に立つと、老女がもう一度袖を掴んだ。

「戻りたいなら、ここじゃ降りちゃいけないよ」

「じゃあ、どこで」

「次の始発で帰りな。そうすりゃ、何かは戻る」

「“何か”って」

「何かさ」


 彼女は痩せた肩をすくめ、笑った。

 電車は止まり、霧の塊のような空気が押し寄せる。

 私は降りなかった。中原はもう降りた。私がここで降りて追っても、同じ霧が喉に入るだけだと、どこかで分かっていた。


 走り出すと、車内の照明が少しずつ白っぽく変わっていく。路線図の黒テープが増え、広告の紙が剥がれて床に散った。

 車内アナウンスが言った。


 この電車は、始発……行きです。


 始発? 時計を見る。0時13分。

 ホームへ滑り込む。見慣れたはずのタイル。柱に貼られた「工事のお知らせ」。

 ドアが開くと、現実の湿り気が鼻に触れた。私はホームに降り立ち、振り返った。車内の明かりは、もう他の車両と同じ白色に見える。さっきの琥珀色の気配は、きれいに拭き取られていた。


 改札へ向かう。階段を上がると、広告のタレ幕が視界を横切る。そこに書かれた地名が読めない。

 駅名標に目をやる。白地に黒の字が並んでいる。私はそれを読み上げようとする。

 舌が止まる。

 駅名が、浮かばない。

 胸ポケットから社員証を取り出す。カードの氏名欄が霞む。少し離せば文字になるが、近づけると空白に戻る。

 スマホを開く。連絡先の一覧は真っ白だ。

 メールの送信履歴に、中原の名前を探す。検索欄に打ち込もうとして、指が躊躇する。何を? ——どの字から始まる、誰を?


 改札を抜けると、夜風が顔に当たった。街路樹が揺れ、ビルの窓が等間隔に光る。

 私は歩いた。どこに向かっているのか、体が知っている気がしたからだ。

 信号を二つ渡り、左に曲がる。コンビニの前を通り、角の花屋のシャッターの前で立ち止まる。そこに、古いベンチがある。

 ベンチを見たことがあると確信する。そこに誰かと座って、紙コップのコーヒーを飲んだ。誰かが缶を落として、笑いながら拾った。

 ——誰だ。


 ポケットの中でスマホが震えた。

 画面に、通知。アラーム。設定した覚えのない時刻。


 0:13 発車


 遠くの方で、地下鉄の発車ベルが鳴る。

 音は、大学の屋上から見た観覧車の明滅のリズムに似ていた。

 胸の奥で、何かが欠け、音もなく崩れていく。

 それでも私は、ベンチに腰を下ろした。

 夜風が頬を撫で、どこからか紙の匂いがした。図書館の匂い。欅の匂い。雨の匂い。

 名前のない誰かと見上げた空の匂い。


 私は、その匂いを、忘れない。

 いや、忘れないと、今の私は言えない。

 けれど、忘れた先にも匂いは残る。

 匂いは、言葉より長く生きるからだ。


 私は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。

 胸の中で、失われた名前の代わりに、ものの輪郭が膨らむ。ベンチの木目、街路樹の葉脈、遠くの線路の鉄の光。

 そして、その輪郭の隙間に、一瞬だけ、誰かの笑い声が差し込んだ気がした。

 それが誰のものかは、分からない。

 ただ、たしかに、そこにあった。


 遠くで、もう一度だけ、0時13分のベルが鳴った。

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