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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

生きる事への考察、或いは死

作者: 蠱姫 夢希

今作に目を通して頂いてありがとうございます。少し不調気味です。次作からまた自分の心のままをもっと描きます。

 もう、この体も長くはない。医者に言われるまでもなく、そうであろうと理解できる。死という物に直面して、不可視でいて、しかし、存在している物に触れようとしている。癌、全身に転移していると医者に告げられた。医者に今後どうするかと聞かれた。私の脳内にはいつか、どこかで見た「癌を乗り越える事が出来れば理論上、寿命が無くなる」という情報が駆け巡った。そして私は延命治療の道を選んだ。


 延命治療の日々は辛いものだった。もう、ここまで酷く癌が進んでいると完全な除去は難しく、無駄に臓器を失うだけなのだとか。体の不調が目に見えてくると焦りというか恐怖というか、良くない思考が芽生え始める。放射線による治療も、あまりにも広い範囲をしなければならないため、被ばく量では健康被害が出てしまう可能性がある。

 今の延命治療の技術の高さと己の回復力、生命力を信じるしかない。薬のおかげで生きるに耐え難い苦痛を感じることはない。ただ、やはり体は正直なもので動くのが辛い。痩せていく一方であるが、体が重たく感じてしまう。いよいよ、私の命も近いのかもしれない。この段階で私に雑念は無く、執着も無く、ただ身を委ねるだけしかないように思えた。

 医者にもう次寝ることがあれば起きることはないかもしれないと告げられた。それでも、心臓が動く限り延命治療の続行を頼んだ。私自身としては私の体は不調に向かっていると感じることは無かった。むしろ、前よりも軽くなったように感じる。それに、目に見えるほどであった不調もかなり良くなっているようにも見える。何より、以前とは比べ物にならないほど思考がポジティブなのだ。こんなにも良いコンディションで次寝る事があれば起きれないなんて嘘だろうとしか思えなかった。

 私はやはり目を覚ました。いつもの病室の天井が目に入る。体を試しに起こしてみるがやはり重たさは感じない。骨と皮とわずかな筋肉の自然な重みだ。気持ちの良い目覚めに伸びをすると、入ってきた看護師が驚いた顔で走り去っていく。私の顔に何かついているのかと鏡を覗いた。何もおかしなところはない。ふと、鏡に入り込むカレンダーに目が行く。カレンダーが示す月日は私が眠ってちょうど三ヶ月経っている。医者のあの言葉はあながち間違いではなかったようだ。が、私は起きた、私は生きている。ならば、後は完全な復活をするだけ。


 その後、精密検査を受けたがやはり癌と思わしき症状は消え失せていた。しかし、医者は癌が治ったわけではないと言った。それはそうだろう。だが、今は生を謳歌したいのだ。

 こうして、町に解き放たれた私は、今まで我慢していたことを一通りやった。パチンコ、酒、たばこ、旨い飯、キャバクラ。欲という欲が思うままに赴いた。今まで我慢していた分、楽しみも快楽も段違いといったものだ。だが、それも長くは続かなかった。なんでもかんでもやってしまったおかげで、何も手に着かない。何をやっても面白くない。しばらく待てば、またやりたくなるだろうが、それまでは暇すぎる。そこで、私は外を眺め思考に耽ることにした。


 私は一体何をしているのだろうか。せっかく生きて帰ったというのに、待つ家族はおらず、ましてや死んだ者だと思われている始末だというのに、なぜ帰ってきたのだろう。社会から爪弾きにされたというのに、その社会が暖かく迎えてくれるわけもない。きっと、興味も無いか、嘘だったのかという反応で終わりだ。社会というのはそういう生き物だと久々に思い出す。

 癌細胞とは、体を構成する異端児である。それ故に体が拒否し、挙句に攻撃を受ける。私は現在、癌細胞なのだ。社会における癌細胞。人であるから攻撃されないだけ、腫れ物であることには間違いない。

 癌を乗り越えて手に入れたものと言えば、寿命で死なない体とあらゆるケガがすぐ治る再生力くらいだろうか。何もそれが悪いとは思わないし、むしろ望んだことなのだが、これっぽちのことに私は何をムキになっていたのだろう。生きるとは何なのだ。なぜ生きたいと願ったのだ。

 生を望んでこれほど後悔したことはないだろう。生きたくても生きれない人が居ると言うが、それは若い人に限ったことだ。私のような老いぼれは生きていたって仕方ない。癌を乗り越えて、もう百年。私も途中で何歳であったか数えるのは諦めてしまった。ただ、生きるということを考えながら生きている。

 人は皆、生きている間は死にたいと願う。

  しかし、死が眼前に迫ると今度は生きたいと願う。

   眼前の死に気づけない者は自殺をしてしまうのだろう。


 私の体は生きている。魂は生きている。私の体は生で支配されている。そう思いたいが、本当は私は死んでいるのではないだろうか。癌細胞に全て置き換わった私は一般的には死んでいる状態と見ても違和感はないだろう。普通の人は耐えきれずに死んでしまうのだから。


 つまり、私がたどり着いた思考の果ては己にあり、己が失った物なのだ。

  人間は思考する生物である。人間は忌むべき存在だと思っている。

   生きるという事は生に支配されていることだと思いたい。

    そうでなければ、私の百年の思考の結論は生きるという事は、

     皆がたどり着く結末に支配されていることとなる。



         ーーーー生に生きる事を見出すか。

           ーーーー或いは死か。

2025年も始まって浅いというのに、死にかけました。体調が戻れば頭の調子も良くなるかもしれないと思いつつ、思考のメモ程度ですが書かせていただきました。更新頻度は高くないですが、次回作でまたお会いしましょう。

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