カラス
男が夜道を歩いている。コツコツコツ。規則的な歩みは街灯の影をも従える。誰も彼もこの音を聞かば地にひれ伏せるだろう。男にその意がなくとも。足取りはこの街に似つかわしくない程確かな物だ。ここは寂れた町。名前を知っていた者は皆何処かへ行ってしまった。静けさが道路を呑み込み始める。もう何十年も人の住んでいない廃墟、木っ端微塵に割れた窓、ところどころ聞こえる低い風の音。歴史の彼方から忘れ去られようとしていた。崩れた家屋を尻目に男はずんずん歩く。足が止まった。どうやら墓地のようだ。傾いた看板には一部欠け、もはや誰にも判別できない文字が刻まれている。枯れた木がまばらに立ち、辛うじて生きながらえている茶色く細い草が数本散っている。教会の屋根の上に止まったカラスが来訪者に一瞥をくれる。荒れ果てた墓地はただただそこにある。男はしばし辺りを見渡すと打って変わって虚な足取りで進み出した。男の輪郭がだんだんとぼやけ始める。境界は溶け始め、暗い夜へと流れ出している。それと同時に男の方へ白みがかった砂が吹き荒んでいる。カラスは鳴き声をあげずにその様子をずっと眺めている。小高い丘までくると男の形姿はずっと薄く、大きくなっていた。覗き込めば覗き込むほどカラスの羽の色に酷似していく。男は森の左手にある月を見つめると元来た道を辿って行った。男の足取りはゆったりとしている。何者たりとも辿り着けず、何処にも辿り着かない速さで。入り口の看板のカラカラと風に揺られて鳴る音が止んだ。もはや彼を認めることは無い。しばらくしてカラスは西の空へ甲高い声をひとつあげて飛び去った。