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前編

 気が付くと、狭くて静かで、少しさみしいところにいた。

 自分がどこから来たのか、どうしてここにいるのか、さっぱりわからない。

 わかっていることは、ここには一人の人間が住んでいること、そして自分は彼からあまり気に入られていないこと、でも、自分は彼をたぶん好きでいること。それだけだった。

 キッチンのカウンターに置かれた時計が六時を示す。カーテンの隙間からはグレーの日差しがほんの少しだけ差し込み、洗面所からはざぶざぶ水を流す音が聞こえてきた。

 もうすぐ、彼が起きてくる。

 冬の朝が、始まる。



 リビングの片隅に置かれたカラーボックスの上。

 デパートのお菓子の空箱に詰められたタオルの中。そこが自分の居場所だった。箱は以前は別の用途で使われていたようで、ものの四隅は潰れ、蓋には何かを溢した跡まである。それでもタオルは一週間に一度、彼が洗濯をしてくれる。しかも前に天気予報で今季一番の冷え込みが告げられた日からは、彼が一枚追加してくれているから寒くない。

 今もふかふかなタオルの中に埋もれながら上目遣いで彼の整ってほのかに冷たさを感じる顔を見上げる。

「いいか、そこでおとなしくしてるんだぞ。わかったな」

 仕事に出る前いちいち指をさしながら怒ったように言い聞かせられる。毎日毎日同じことを言うが、自分も毎度神妙な顔で頷く。

「……わかってんだかわかってないんだか。まあ、わかってないからああいうことになるんだろうけど」

 七時十五分。

 彼は腹いっぱいにため息をついて、家を出た。

 彼がいつもつけている香水の匂いがほのかに残る部屋の中。寝床の空箱からそおっと抜け出し、いつものように部屋の偵察を始める。

 玄関、鍵よし。

 コンロ、よし。

 窓、鍵よし、洗濯物よし。今日は、良い天気だから。

 ご飯を食べる部屋と彼が寝る部屋とが一つずつしかない家の中だから、普通に一周するだけならあっという間に偵察は終わってしまう。だからいつも、ほんの少しの異変も見落とさないようにソファやカウンターの上にも一生懸命ジャンプして、上から下からつぶさに見て回る。

「今日もだいじょぶ。安全だっ」

 シンクの中には朝ご飯の食器が洗われずに取り残されていたけれど、これは後で自分がやってあげるから、問題ない。

 今日も一日、彼の留守をしっかり守ろう。そう決意を固めていると、ふとカウンターの下に昨晩彼が放り投げたままだった郵便物に目が留まる。そういえば几帳面な彼には珍しい行動で、昨日はしばらくどきどきしていたのだった。寝たらすぐ、忘れてしまうから今までうっかりしていた。

 ふんわり弧を描くようにカウンターから飛び降り近づいてみる。

 近所にできた住宅展示場のチラシと、釣り道具屋からのダイレクトメールと、水道の請求書。何の変哲もないように思えたが、何か少し引っかかる。

 彼の仕事用鞄と同じくらいしかない身体をゆらゆら捻りながら、三つの送付物を見比べる。

「……あっ! 名前、ちがう。こっちとこっち」

 ダイレクトメールと請求書で、名前が違う。この部屋には彼一人しか住んでいないのに、どういうことだろう。

「名前……字、読めない」

 せっかく、チャンスだと思ったのに。

 この部屋には彼一人で住んでいて、誰も彼を訪ねてこないし、誰かを連れてくることもない。彼の名前を呼ぶ人は、誰もいない。

 だからずっと、自分は彼の名前がわからない。

 それが今日、ようやくわかるかもしれない、せめてこの二つのうちどちらかと見当をつけられるかもしれないと思ったのに、自分は字が読めないようだ。

 並んでいる字の形も数も違うから、名前が違う、というのはわかる。でも肝心の音がわからなくてがっかりする。自分の名前すらわからないのに人の名前を気にするなんて、と神様に思われたのだろうか。

「でも、なんで投げた……?」

 チラシとダイレクトメールと請求書。そんなに悪いものでもないだろうし、彼は水道代が払えないほど困窮しているわけでもないだろう。なぜ昨日、彼は玄関の郵便受けからここまで歩く数秒の間に、投げつけたくなるほどの衝動を抱えることになったのか。

 そして疑問はもう一つ。

「……なんで、水道って、わかった?」 

 字はさっぱりのはずなのに、どうして「水道の請求書」だとわかったのか、名前が書いてあるというのもなぜわかったのか。

 背丈の割に大きい頭を横にかしげても答えは出てこない。そして考えれば考えるほど、わからないことだらけであることと、なぜわかっているのかがわからないことが浮かんでくる。

 字も自分の名前も、いつからここにいるのかも、なぜこんなに小さいのかも、そして彼のことも何一つ、わからない。

 それなのに、部屋の中にあるものの名前もテレビの見方も、彼がいないとき鍵がどうなっていればよいかもわかっている。もちろん彼に教えられたことはない。

「わかんない。けど……いっかぁ」

 わからないことは、考えても仕方がない。

 それよりも今はやることがある。

「皿、あらうぞ!」

 今日もきっと、彼の帰りは遅い。くたくたで帰ってきたときにせめて一つでも家事が片付いていた方がいいだろう。

 えいえいおー、と腕まくりをしてシンクに飛び込んだ。



「あんなに朝言って聞かせたのに、ほんとに……」

 定時間際で発生するある意味で空気を読んだトラブルのせいで、今日も残業だった。

 途中何度も家のことが不安で仕方なかったけれど、なんとか集中して業務を乗りきりやっとの思いで帰ってきたのに。

 洗い物を放置していたシンクはめちゃめちゃ、ソファにかけた上着は床に落ちて折り畳まれ、変な形にシワがついている。極めつけは床のチラシ。ビリビリに破られ破片が山になっていた。これに関しては昨晩放り投げた自分にも落ち度があるが、あのぶん投げたくなった気持ちまでも再発してきてやりきれない。

 ため息が、とまらない。

 こんなことなら拾わなければよかった。

 年末の最終出勤日。仕事納めで昼には解放されてもやることもなく、足早に帰路についていたとき。たまたま視線を落とした公園の植え込みで、あいつを拾った。

 普段見かけない――というより、そんなことまで気が回らず視界に入っていたとしても脳が認識していなかったのかもしれない。そんな存在ではあるが、あれだけ寒風吹きすさぶ年の瀬に、見ないふりをして通り過ぎるのは罪悪感が湧く。それで仕方なく家に連れ帰って、早一ヶ月。

 自分はもう何度目かもわからない後悔でいっぱいだった。

「らしくないことなんてするんじゃなかった。……おい、」

 ため息をかみ殺して、菓子の空箱の中で丸く餌を抱え込むそれをつつく。

 それは何を考えているのかさっぱりわからない黒い目を丸くして、黙って自分を見上げている。

「おとなしくしろって言ったのに、あれはなんなんだ。頼んだことはしないで余計なことしかしない」

 最近早くも気になりだしてきた生え際をかき上げ、うっそり息を吐く。そいつは指さしたチラシの破片の山を首をかしげるように見てから口を開け、何かを言い募る。

 それが言い訳なのか抗議なのか、さっぱりわからない。ただただ不愉快で、そしてなぜか、もういない存在を思い出して鼻の奥がツンとする。

 だから嫌だったのだ。一人でいれば忘れていられるようになったのに。

 こいつがこの家に来てから、こんなことが何度もあった。

「……もう、捨ててしまおうか」

 まだ明日がある木曜の夜、ぽろりと零れた自分の言葉。口から出たときには気づかず耳から入ってきたときに急にわかるその冷たさに、自分自身が怖くなる。

 捨ててはいけない、気がしている。さすがに。

 そうしてしまったらもう、ほんとうに終わりだ。あいつとのつながりを本当に全部、手放してしまうことになる。

「なんか、あれだな。法とか何かしらのあれに、ひっかかる気がする」

 そもそも持って帰ってきた時点で、何かしらには違反している気もするが。

言い訳がましい独り言をぼやき、目障りで、でも忍びない箱の中身を視界から遮るように、そっと蓋を半分閉める。それはまだ何か文句を言っているようだけれど、もう聞こえないことにして背を向けた。

 チラシの破片はカウンターの下で山になっていた。

 スーパーで買った総菜の水漏れ防止で使っていたビニール袋を片手に、片付けようと腰を落とす。そのとき初めて山の隣に二欠片だけ、他と区別するように並べられているのに気づく。

 まさかあいつの頭でそんなことを判別できるとも思わないが、その並びはどうしても、意味があるように思えてしまう。

「なんでこれだけ、わざわざ……」

 水道のレシート用紙に書かれていた自分の名前と、もう一つ。もうずっと来店すらしていないはずの店から未練がましく送られてきたダイレクトメールの、宛名。

 ご丁寧にそれだけ、ほかの部分と区別する意思を持っているように並べて置かれてた。他は書いてある内容など何も気にしていないかのようにバラバラなのに、どうしてかこれだけ、きれいに形を残している。

 もうずいぶんと時間が経つから平気だと思っていたのに。

 それなのに不意打ちで自分の目の前に現れ、心を掻き乱していく。それが心底腹立たしくて、悲しくて、そしてそんな気持ちになることで余計に自分が嫌になる。昨晩と同じ気持ちがまた吹き出す。

「……くそっ」

 ぐちゃぐちゃに握りしめ、他の破片と一緒くたに袋の中にぶちこんでいく。

 今はただ、蓋をしておいてよかったと思った。こんな姿、なぜかあいつには見せたくなかった。



 何にも、うまくいかない。

 ただほんの少しでも、この暖かくて平和な部屋に居場所を作ってくれたお礼をしたかっただけなのに。

 乱雑に閉められた蓋の隙間から、彼が床にかがみ込んで悪態をついている様子が見える。何を言っているのかまではわからないが、その姿には苛立ちだけでなく悲しさや切なさが垣間見えて、自分の心も締め付けられるように痛む。

 どうしてなのか。

 洗って並べておいた皿は、気に入らなかったらしい。

 チラシも、ゴミ袋に入るように小さくちぎっていたのに肝心の袋に入れるところまで間に合わなかったから怒られたのだと思う。二人分の名前に気を取られて時間をとってしまったのがよくなかった。

 ちゃんと彼が帰るまでに、きっちりやってのけたかったのに。

 空回りばかりの自分。

 それでも昔はもう少し、ましだったと思う。昔は、彼はもう少し、呆れながらも笑ってくれた。「おまえはいっつもそうだ」なんてぼやきながら、もたつく自分の隣で一緒に後片付けに奮闘してくれた。

(昔って、いつ……?)

 時折頭に浮かび上がる、この記憶はなんだ。

 自分のことのはずなのに、自分のことではないようで。まるで自分とそっくりの人の映画かドラマをぼんやり見ているような。

 思い出したい。思い出さなきゃ、いけない気がする。それが思い出せたら、きっと今ここにいる理由もわかる気がする。

(なんだ……? どうして……?)

 頭に浮かんだ一欠片から、手繰り寄せるように解像度を上げていく。

 春の日差し、二つ並んだケーキ皿、卓上カレンダーの丸印。合間に鼻をかすめるのは、パンが焦げた匂いと、今朝嗅いだ香水の匂いだろうか。

 どれも既視感があるが、なんてことのない日常の眼差しだからかなかなかヒントに繋がらない。

(思い出せ、そう……?)

 ぼんやりとした記憶の海はあまりにも透明で、深くて広い。

 いつの間にか思考を手放し、ふわふわのパイルの波に飲まれてしまった。



・-・・ ---- ・--・-   



 意図せず盛大に彼の逆鱗に触れまくってしまった日の、次の週末。

 これまで菓子の空箱だった自分の寝床は、少し大きめのケージにレベルアップ、していた。

(ていさつ、できなくなったから、レベルダウンか……?)

 自分の身体よりほんの一回り大きいくらいの箱から、今度は五十センチ四方のケージ。寝る場所、と考えると広くはなったが、日中彼がいない間はずっとここですごすことになってしまったので窮屈さは否めない。

 毎朝仕事に出る前には必ず、ケージの中に飲み物を入れてくれているし、今まで通りふかふかのタオルもちゃんと置いておいてくれている。彼が起きている間はケージから出して好きに動き回らせてもくれる。

 とはいえこれまで好き勝手部屋中を一周したり、窓の外を眺めたりと、彼がいない時間もそれなりに時間をつぶしていたのにもうそれが叶わなくなってしまった。

(ほんと、に、やだったんだ)

 皿洗いも、ゴミ捨ても、偵察も。空回りでしかなかったのだと身に染みた。

 ケージから出されている間彼は絶対自分から目を離さなくなったから、彼が自分を信用していないのもよくわかる。

 それでも自分のような小さな存在を放り出さず家に置き続けてくれるのは、なぜなんだろうか。

 カーテンの隙間から差し込む光がもうとっくに消えてしまってだいぶ経つ。目を開けていてもケージの中から見える景色はただ真っ暗な部屋の中だけで。

 興味もわかずうとうとしていると、ふいに玄関の鍵がまわる音がした。

 彼が、帰ってきた。

 年のわりに膝が上がらないもたっとした足音が近づいてくる。ずりずり引きずるようで、疲れているのはわかるが見た目も健康にもよくないだろう。

 ああいうおじいちゃんみたいな歩き方をするから、たまに外でタイルの継ぎ目の段差や木の根っこがアスファルトを押し上げているところに引っ掛かるのだ。

 いつか並んで歩いた仕事帰り、彼が急に何もないところで躓いて顔を真っ赤にしていたのを思い出し、思わずくすりと笑みが零れた。あのときの必死に取り繕うすまし顔は可愛かった。

 脳裏に浮かんだ本当の記憶かどうかも定かでない光景に、思わず頬がゆるむ。

「……なんだお前、今日は機嫌がいいな。ケージも気に入ってきたか?」

 明かりをつけた彼が目ざとく指摘してきたが、決してそんなことはない。

 水もタオルもあって身の危険もないが、今まであった自由は大幅に制限されている。

 伝わらないとわかっていても「ちがう!」と抗議の声を上げていると、彼は顔をしかめて舌打ちして洗面所に消えていった。

 几帳面で潔癖なきらいがあるから、彼はいつも帰るとまっすぐ洗面所に向かってシャワーと着替えまで済ませてからリビングに戻ってくる。こんなに寒い冬の間くらいたまには湯船に浸かったらいいと何度も言っても、準備が面倒くさいのか聞き入れられたためしがない。

 今日もしばらく遠くで水音が聞こえてから、こざっぱりした彼が戻ってきた。

「ほら、出してやるから機嫌直せよ」

 ケージの鍵が外れた瞬間、待ち望んだ部屋の中に飛び出していく。

 まずはいつも通り一周して、変わりないことを再確認。

 玄関、鍵、コンロ、窓。すべて問題なし。彼が寝る部屋のドアはいつもきっちり閉められていて、重いドアは自分では開けられないから見に行かない。

 一通り見て満足したら、ソファで缶ビールを開ける彼の隣に並んでみる。

「……別に、今はちょろちょろしてていいんだぞ」

 まだつまみのスルメは開けてないのに、奥歯に何か挟まったような言い方をする。

 (閉じ込めたり自由にさせたり、なんなんだ……?)

 きょとんと見上げても、彼はもうテレビしか見ていない。

 テレビでは、きっちりスーツを着込んだアナウンサーが真面目な顔でニュースを読み上げている。ぱっぱと変わる画面にところどころ後れを取りながらも、なんとか断片的に情報を拾っていく。

 手洗い、せんそう、どこかのお祭り。カテゴリーごとにいつもと同じ順番でトピックが映っていく。彼はそれらを見るでもなく眺めながら、酒とつまみを交互に口元に運んでいた。

(ごはん、食べればいいのに)

 平日の夜、彼は食事を取らない。帰ってきたらそのまま寝てしまうか、今日みたいに少し余裕がある日は缶ビールと何かつまみを一種類。つまみは買ってきた総菜やスナックばかり。立派なキッチンがあるのにそこで料理している姿は見たことがない。シンクの上下にある収納は扉が重くて自分では開けられないがmそして今日よりもっと早く帰ってくることは、今のところ一度もない。

 どこかで食べて帰ってきているのならいいけれど、この感じだとそれもなさそうで心配になる。

 朝は毎日バナナとカップのヨーグルトと、焼いていない食パン一枚。メニューを検討することに脳のリソースを使いたくないからか、毎朝きっちり同じメニュー。

(お昼はちゃんと、たべてる……?)

 そうであってほしい、と半ば願掛けのような気持ちで、無表情な横顔を見上げていると、急に視線を下にずらした彼と目があった。

「……カッコウ」

 聞き慣れない音の並びに、意味のあるものなのかと戸惑っていると、彼はもう一度静かに繰り返した。

「カッコウ、っていうんだろ、お前。今はスマホの画像検索でなんでもわかるんだな。昨日寝てるとこの写真撮って調べたらそう出てきたぞ。……まあ、人間がつけた名前なんてお前にはどうでもいいのか」

 ほんの一瞬自分の頭を軽くつつくように弄んでから、彼は視線をまたテレビに戻し、静かに独りごつ。

 かっこう。

 頭の中で反芻する。

 調べた、と言っていた。調べて、何が出てきたのだろう。かっこう、というのは何を意味しているんだろう。そもそも、忙しい手を止めて自分のことを調べてくれたのか。まず、そこから。

 気になることはたくさんあるが、やっぱり彼がわざわざ自分のことを知ろうとしてくれた、ということが、嬉しい。

 名前を、もらえた。

 今、この瞬間から、ただの拾い物としていつでも手放せる存在から、唯一無二のものに生まれ変われた気がした。

「かっこう」というのは自分だけを意味しているのではないかもしれないけれど、この部屋――今自分が生きるこの世界では、それは自分だけを指す自分だけのものだと思えた。

 これまでもタオルや食べ物、安全で暖かい部屋、たくさんのものを彼から与えられてきた。そこについてはもちろん、深く深く感謝はしているけれど。

 家の主と、彼が拾ってきたもの。それだけ関係でしかなかった。

 でも、名前をもらえた。

 自分が彼の中での特別に、なれた気がした。

 あたたかい何かが自分の中にあふれてくるような、不思議な気持ちになる。

 きらきらした眼差しで見上げていると、膝に置いたスルメに手を伸ばした彼と目が合った。

「……なんだよ、やらんぞ」

 別にスルメはいらない。

 彼とはいつもこうだ。自分はちゃんとわかっているのに、彼の方はいまいちわかっていない。

 ぶすくれて顔を背けると、首根っこをつまんで持ち上げられる。

「もう寝る時間だな。おやすみ、おとなしく寝ろ」

 ぽいっとケージの中に放り込まれ、反論する間もなく出入口のロックを外側からかけられた。

 彼はそのまま空になった缶と中途半端に残ったスルメの袋を持ってキッチンに消える。素足だからか、引きずらずちゃんと歩いているようだ。

 片付けたらすぐ彼も寝に行くのかと思っていたら、タオルを片手に戻ってきた。いつもなら自分をケージに戻したらさっさと隣の部屋に引っ込んでしまうのに。

 ふかふかのタオルに眠気を誘われながらも首をかしげていると、眼鏡の奥の瞳をきゅっとさせながら、彼が自分を覗き込んできた。

「……おやすみ、カッコウ」

 なんだろう。

 なんでだろう。

 前にも、彼からこの名前で呼ばれていた気がする。

 今日初めて呼ばれたはずなのに。

 言うだけ言った彼は、せっかくブローした前髪をぐしゃぐしゃかき混ぜ背を向ける。

 遠くで扉が閉まる音が聞こえた。



-・・・ -・--・ -・・・ ---・ ---- -・-・ 



 変わらない日常が、続いていく。

 少なくとも、部屋の中に変化はない。

 朝になれば彼は、いつも通りの朝食をとり身支度を整えて家を出る。自分は一日、ケージの中でぼんやりと過ごして彼の帰りを待つ。カーテンから差し込む光がどんどん窓際に追いやられていくのを見守り、たまにポストに落ちる紙の音を聞く。部屋が真っ暗になってだいぶ経つ頃、彼は帰ってくる。

 平日はいつもそれだけのサイクルを日々こなしている。

 休日は休日で、昼頃起き出す彼の気分に合わせてケージに入れられっぱなしだったり、午後のまだ明るいうちから部屋の中を動き回ったり。変わり映えのない毎日が続いていた。

(もうずっと、こんななのかな)

 食べるものも寝る場所も、彼が与えてくれるものに満足している。

 多少の自由はなくても穏やかで満ち足りた日々。

 それも悪くないと、思っているけれど。

(戻らないと、いけないきがするけど)

 名前をもらったあの晩からずっと、どこかに帰らないといけない気持ちに苛まれている。どこに、なのかも、なんでなのかも、わからないのに。

 わざわざもう一度、「おやすみ」を言ったときの彼の白い顔が忘れられない。

 真っ黒な瞳には自分がちゃんと映っていたのに、彼が見ていたのは自分ではなくて、自分を通して誰か、もうずっと会っていなくてでも会いたいと思っている誰かを見つめていたようで。

 あの晩の記憶と帰りたい気持ちがどう結びつくのか、さっぱり見当もつかないけれど、ふと一人になった瞬間や彼が一瞬自分を見つめてすぐその目をそらした瞬間に、あの日の彼の孤独な視線を思い出す。そしてどこにともなく帰らないといけないという義務感が沸き上がる。

(なんで、だろねぇ。ずっとここいたいのにねぇ)

 毎日おなかは膨れるし、清潔で安全な寝床があって、彼の機嫌が良ければ多少は構ってもらえる。何の役にも立たない自分が、これ以上望んだら罰が当たる。

 今だって、夕方彼が食事とは別に用意してくれていたおやつを食べてうとうとしている。

 十分すぎるほどの身分。

 遠くで、玄関の鍵が回る音がする。

 そうだ、最近は段々日が長くなっていた。だから真っ暗になってから彼が帰ってくるまでの時間はほんの少しずつ短くなっている。彼が不在の間は暖房が止められるこの部屋も、日中タオルの中に潜り込まなくてもやり過ごせるようになった。

 足音が、近づいてくる。

(……あれ?)

 いつもと違う。いつもの彼はもっとずるずるしているか、すごく急いでいるときはもっとざっざっとしている。いつもより軽くて、ちゃんと膝が上がった歩き方の人が、玄関から急いでこちらに向かってくる。

 なんだなんだ、と食い入るようにリビングの扉を見つめていると、ぱっと明かりがついた。

 入口に立っていたのは彼ではなくて、彼よりもう少し年上で、おでこも半分前髪で隠した女の人。

 外でもずっと急いでいたのか、マフラーの隙間から変な感じに髪の毛が飛び出ているし、マスクから吐く息で大きなのフレームの眼鏡が真っ白に曇っている。

「……え、やだ、鳥飼ってんの⁉ え、どうしよ。パジャマみたいなのだけひっつかんで戻ろうと思ってたのに、聞いてないよ」

 女の人は、何度も「やだ」と「どうしよ」を繰り返して自分と奥の部屋を交互に見やる。

 自分だって、どうしよう、だ。

 鍵を開けて入ってきた、ということは何かしら彼からの信頼をもらっている人だというのはわかるけれど、これまでこの部屋には彼一人しか登場しなかった。誰かと連絡を取ったり、招き入れたりすることなんて一度もなかった。

 そんな日常を壊して急に現れたこの人は、誰なんだ。

 ケージの中から食い入るように見つめていると、ふと彼女がどことなく彼に似ている気がしてきた。マスクで隠れた鼻から下はわからないけれど、しっかり線が入った二重瞼のわりにはっきりしない目元や、スマホを握りしめた手の節の感じが、彼と似ている。

 そうこうしているうちに、彼女はどこかに電話をかけ始めた。

「……あ、もしもし、お母さん? 家、着いたんだけど。なんか鳥いて。……え? あぁもう、わかってるから、うん、わかったって。わかったのだけ持って戻るから、うん。……はい、はい。んじゃ、切るから、うん」

 電話の向こうは、彼女以上に慌てているらしい。ばたばたした電話を切ると彼女は盛大な溜息をついて奥の部屋にかけこみ、自分で持って来たらしいパステルイエローのエコバッグに何かをパンパンに詰め込んでリビングに戻ってきた。

「ね、ごめんね、私餌とかわかんないの、ここ来るのも初めてだしさ、今、緊急事態。あんたの飼い主倒れたの。……まあ、鳥に言ったって仕方ないか。……とりあえず、水だけ新しいの入れてあげるから、ちょっと我慢して。また明日来るからその時どうにかするよ。ほんとごめん」

 マシンガンのようにわーっとまくしたて、言葉通りボトルに新しい水を入れてから、彼女は来た時と同じように駆け足で部屋から出ていった。

 何もかも飲み込めず呆然としているうちに、また玄関の鍵が回る音がする。 

 自分はまた、一人になった。

(たお、れた……?)

 あの女性が言ったことを何度も頭の中で繰り返す。

 倒れた、緊急事態、明日また来る――。

 昨日の夜も、今朝もいつも通りだった。いつも通り、ため息をついて食パンを噛り、面倒くさそうに家を出ていった。いつも通り、帰ってくると思っていたのに。

 変わらない日常が続いていくとばかり思っていたのに。

(いか、なきゃ)

 どこに、なのか考える間もなく、ケージの入り口に向かっていく。彼はいつもきっちりロックをかけているけれど、さっきあの女性が水を替えたときロックの音を聞いていない。この部屋のことなんて何もわからないと言っていたし、終始とんでもなく慌てていたから万が一はある気がする。

(……! あいた!)

 上の方を渾身の力で体当たりすると、あっさり下に扉が開く。やはり彼女は自分が外したロックにまで気が回っていなかった。

 開いたそばから飛び出し、部屋の真ん中に置かれたテーブルに飛び降りる。

 行かないといけない。戻らないといけない。そうしないともうずっと、永遠に彼に会えなくなる。

(どこ、どこだ……どこだっけ)

 記憶の海を最初の最初まで手繰り寄せていく。自分は最初からここにいたわけではない。彼に出会う前の記憶が、必ずどこかにあるはず。そしてそれを思い出せれば、ちゃんと元に戻れる。

(……元に……?あ、)

 ふと見下ろした足元に、見慣れない、けれど遠い昔に見たことがあるはずのものが見えた。

(これ、……これ、だ……!)

 一目見て、全部思い出せた。どうしてこれまで思い出せなかったのか不思議なくらい。

 たった一枚のフライヤーから、情報が一気に頭の中を駆け巡っていく。

 山奥の土と若草が入り混じる空気、コーヒー豆を挽く音、壁いっぱいに描かれた絵。新幹線の車窓から眺める景色くらいの勢いで、それらが頭に流れ込む。

 新幹線なら、停まる駅がある。

 駆け巡る記憶の欠片のスピードが徐々に落ち、やがて一つの風景にたどり着く。

(……庭のある、いえ。古くて、……ここ、って)

 広くて日当たりはいいが雑草が蔓延る庭と、古い洋風の建物。記憶の世界で雑草をかき分け建物に続く道を歩いていく。

 ガラスのドアノブを回すと――。



--・-・ --・-- -・- ・---・ ・・-- -・ --・- 



 埃っぽい匂いの中で意識が段々と覚醒していく。

 どうやら自分は、記憶の中で見た洋館の中にいるらしい。

 壁に並んだ窓にはカーテンがなく、春の日差しが目いっぱい差し込んでいる。玄関を背に立って見回すと、正面には二階に続く螺旋階段。古いが手入れの行き届いたフローリングに、使い込まれた椅子やテーブル、奥には二人掛けのソファ席もセットされている。

 全体的にとても古い。建物も家具も、恐らく昭和初期くらいまでに用意されたものがほとんど。だが古臭さは感じされず、むしろきちんとメンテナンスされている形跡が随所に見られ、長く大切に扱われたことが少し見ただけでよくわかる。

 温かくて居心地の良い、陽だまりのような空間。

(そうだ。……まだ途中だった)

 夢を叶えるまで、あと一歩だったのだ。

 あの日もいつもと同じように、一人でここに来て準備をしていた。

 朝家を飛び出した時の腹立たしさはいつの間にか冷め、どう謝ろう、と頭を巡らせながら庭で雑草をむしっていた、はず。

 それがどうしてあのケージで過ごす日々に繋がったのか、そこまで思い出すことはできないけれど。

(早く、行かなきゃ)

 そう。今はここで、そんなことを悠長に考えている時間はない。

 あの女性は、「彼が倒れた」と言っていた。「パジャマを取りに来た」とも。ということは、彼はきっとどこかの病院に入院しているはず。それがどの病院なのか、彼女の話からは全く絞れない。あの家と彼の勤め先まで、入院設備のある病院はいくらでもあるはずだ。

 となると自分は一度あの家に戻り、もう一度訪れるはずの彼女を待つほかない。

 今がまだ、彼女が言っていた「明日」よりは前であると信じて。

 足元に落ちていたトートバッグを漁ると、スマートフォンもパソコンも見つからずがっかりするが、この場所の設計図らしき紙の束と鍵が二つ出てきた。鍵の一つはこの建物の玄関の鍵だったから、おのずともう一つの鍵は彼の家の鍵だとわかる。

 簡単に戸締りをして洋館を飛び出し、迷うことなく駅に向かう。頭はまだところどころ薄く靄がかかってはっきりしないが、道は身体が覚えている。

 この姿での最後の記憶は夏のはじめだった。

 そして今は、春が近づく昼下がり。

 半袖で走るにはまだ寒い。

 厚手のコートを着込んだ人の波を抜け、少しずつ輪郭がはっきりしてきた街を急ぐ。あの時はまだ作りかけだった新築の建売が完成していたり、店先のおすすめメニューのポスターが変わっていたり。小さな変化はいくらでもあるが、絶対に変わってほしくなかったことは変わらず存在していることは、ちゃんとわかっている。

 あの人は今も、あの部屋で暮らしている。自分と一緒に暮らした、あの部屋で。

 ラベルプリンターで作られた「神爪」の下に、窮屈そうに手書きの「加古」が並んだ表札をそっと撫でる。いい加減作り直そうか、と言いながらもう何年も経つ。

 内側ばかり見慣れたドアを、合鍵を使って外側から開ける。

(よかった、やっぱここの鍵だった)

 ほっと胸を撫で下ろし、緊張で汗がにじむ手でゆっくりとドアを回す。

 誰もいないはずの部屋へと続く扉を開けると、中から人の気配がした。

「あ、れ……?」

 急に開いたドアの音に引き付けられたように、廊下の奥のリビングから足音が近づいてくる。少し引きずるような、膝の上がらないあの足音が。

 たいして広くない一LDK。足音の主が姿を現せるまでの時間はごくわずかのはずなのに、今日はやけに長く感じた。

「た、ただいま」

 とんでもなく、驚いている。

目を丸くし、口も糸が切れたようにぽかんと開けて。

 普段なら絶対そんな姿を見せない彼は、自分の声に我に返ったのか眼鏡の奥をきゅっと細めて俯いた。

「……おかえり」

 絞り出すような小さな声はともすれば外を通り過ぎる救急車のサイレンにかき消されてしまいそうで。

 今日一番の駆け足で胸の中に閉じ込めた背中は温かく、鼻先を埋めた項には外から連れ帰ったらしい梅の花びらが一枚、埋もれていた。

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