1:5 『雪に覆われた場所』
雪に覆われた場所――キダウロ代国。
北の雪山が密集したところに位置する寒冷の国の中央。
縦に長い山と密着するようにして造られた50m級の黒い塔がある。
山の中にある玉座の大広間は、そこを経由して入ることができるようだった。
見知らぬ場所で目覚めた皆が一斉に招かれ、大広間は夥しい量の少年少女でごった返していた。
一面を岩が覆い、蝋燭に加え左右の大穴から差し込む朝の光が広間を照らしている。
外の空を浮遊する数体の竜の嘶きが中へ響いている。
この広さと地帯の特徴故に、広間内には微かに霧がかかっていた。
正面には巨大なモニターが設置され、皆一様にキダウロ帝国の皇帝へ視線を向けていた。
「――これで説明は以上だ」
白い頭髪と髭を共にまっすぐ伸ばし、顔のしわが目立つ老人――デウラ・コッソル皇帝はそう言って、原稿でも見ていたのか視線を下から前方へと戻した。
「私が去る前に一つだけ。――フュル、出て来い」
(……まぁ、そうなるか)
名を呼ばれ、周りの人に道を開けるよう手で小さく示すと、正面の人々が奇麗に左右に分けれていく。
群衆の中央辺りから、スロウンの前まで融通に歩み進んだ。
「久しくお目にかかります――父上」
コッソル皇帝を見上げ、恭しく挨拶をする。
まっすぐ伸びた黒紙に、深緑色の瞳を持つ18歳の少年――デウラ・フュルは皇帝の息子でありながら『下層』に住まう身である。
だが、血族と武力に長けた才能の二つを持ち合わせる故に、『下層』ではほぼ独裁的な位置に立っている。
深雪地帯狩猟団――否応なく危険地帯に身を投じられる人々の指導者でもあり、秀でた戦闘能力と冷徹な統一力を用いてキダウロ帝国に大いに貢献してきた。
「ふん、相変わらず醜い眼をしておる」
生憎とコッソル皇帝はそんな息子を未だに認めていないようだが。
「見ろ、お前のために椅子を用意してあげたぞ」
竜の遺体を丸一つ使って造られた“椅子”が目の前にあった。
全身を黒の鱗で覆った、赤色の眼を持つ竜だ。
フュルはそれを一瞥し、コッソル皇帝に視線を戻す。
「立派な椅子をありがとうございます」
「ふん、悪くない返事だ。良いか? お前の役目はただ一つ。勝利し、私をラマンノール大地の支配者とすることだ。これを果たすことができないものならば、お前の命はない」
「勿論です。必ず勝利し、父上様の望む世界の実現のため全力を尽くします」
「ふん。精々、身を投げ出すことだな」
ここでコッソル皇帝がモニター上から去っても良さそうな頃合いだったのだが、彼はフュルを見下ろしたまま、相貌を不機嫌そうに歪めた。
「――その目はなんだ」
「…………」
悪寒から僅かに肩に力が入ったが、心内に抱えていたことが漏洩してしまったと認識して、危惧を抱きつつもここは素直に思っていることを口に出す。
「我々が勝利すれば、『上層』への昇格権を与えると約束してくれました。寛大な処遇を心から感謝しております。しかし……」
会釈からゆっくりと顔を上げ、緩慢な動きで目線を合わせる。
「……本当に、おれを『上層』に迎え入れてくれますか」
コッソル皇帝は無情な瞳でフュルを見下ろしたまま「ふん」と吐息し、
「やはり生意気なクズのままだったか。変わっておらぬぞ、お前。私の下に来たいのならば、それ相応の態度を示すことだ。まぁ、お前には決して無理なことだろうがな」
元から問いに期待はしておらず、コッソル皇帝の返答を受けて憂いの類の感情は胸を過ぎらない。
逆に、自分の中に燻る決意の存在をより強く認識することができた。
「それでは、私はこちら側から吹雪が吹き荒れるのを待つとしようよ。では――」
それを最後に、モニターは大陸の地図を映した画面に切り替わり、場は静寂に包まれる。
3000人近くいる筈の大広間は完全に静まり返っており、スロウンへと近づくフュルの足音だけがやけに大きく響き渡った。
「――――」
スロウンの前で立ち止まり、椅子に変貌した竜の遺体を静かに眺める。
肘掛けには鋭い爪が下を向き。
座面と背もたれにそれぞれ翼が広がり。
屈強な尾は地面に流れ。
天辺に頭部が、置かれていた。
「……すまなかった」
フュルはそっと手を伸ばし、竜の鼻の上を優しく撫でながらそう呟いた。
それから少しして、父親似の無情な瞳を群衆へ向けた。
竜の椅子は、心地よくなかった。
◇ ◇ ◇
「何だよ、嬢さん、座らないのか? 武力に長けたお前なら、指揮者を務めても誰からも邪魔が入ることはないと思うがな」
南――ミネクァウラ代国の広大な玉座の間にて。
スキンヘッドの男が、トギトウとの暴挙で痛めた腕を抑えながら、シアラに向かって含みのある言葉を投じる。
シアラから離れて群衆の前列まで後退っているが、尊厳を捨てる気はないのか、悪辣な笑みを浮かべたままだ。
「いいえ、私じゃリーダーは務まらないわ。命令しても誰も動かないでしょう」
「ん? 指揮する為に俺達を制圧したんじゃなかったのか。やっとそれっぽい奴が出てきたと思ったのにな」
「私は、トギトウからあなたの命を救っただけだわ。指揮権を得るためじゃない」
「ふん。どうせなら、今にも崩落しそうなこの国を統括してくれよ、嬢さん。――なぁ、みんな!」
そこで男は群衆の方へ振り向き、声を上げる。
「武器を持って我らがリーダーに付いて行くんだ!彼女の下で力を合わせ、敵を一人残らず打ち倒すのだ‼」
鼓舞を試みる男だが、変わらず覇気の欠けた人々を見る限り成果は皆無に等しい。
「お前、戦いたいのかよ……」
「死んでしまうよ」
「そんなのやだ……早くこの大陸から出ないと!」
言うなら、逆効果だった。
「無駄よ。この場からいくらテュスラ皇帝を呼んだところで、彼がそれに答えて姿を見せることは永遠にないわ」
シアラも、焦燥した人々を少なからず冷静にしようと試みるが、その意をまるで酌むことなく、男は一度上げた声を抑えることなく群衆へ呼び掛けた。
「そうだ! 何を喚いている! 今この瞬間にも、敵がこの城を襲ってきてもおかしくないのだぞ! 立ち向かわない奴は、この俺に痛い目に合うと知れ‼」
皆の士気を与えるつもりが、叩き付けられる事実に身代わり兵の多くは顔を引きつらせ、恐怖を喚起された。
その上に発言された物騒な警告によって、男の周囲にいた者達は命の危険を覚えるかのような表情で離れようとする。
事実、既に仲間内で殺害が起きている以上、反射的に殺されると思っても無理はない。
「逃げろ! 殺される‼」
ある少年がそう叫び、入れ混じる人々を押しのけて男から逃げようとする。
そこから波紋が広がるように、場は混沌に陥る。
故に、先の見えない絶望が皆の中で更に喚起され、観念の声、叫喚、悲鳴が玉座の間に錯綜する。
思い通りにいかず、更には状況を悪化させてしまった男は苦渋の相を浮かべ、どうするべきなのか思考を巡らせている様だった。
荒々しい――姿も見えないテュスラ皇帝に向かって罵声を浴びせていた時はまだ、皆の意識はある程度一方の方向に向いていたが、今は、辺り一帯は恐怖で染まっている。
収拾の付かないそんな中で、スョロは依然、スロウンの前に佇むシアラに視線を向けていた。
彼女の瞳は動じていなかった。
取り乱す若者らを観察しているようにも見えた。
彼女の瞳は、動じていなかった。
「――皆に、聞きたいことがある‼」
腕を組み、これ以上ない威厳を発揮するシアラが壇の上からそう叫んだ。
また、波が立った。
シアラを根元とした静寂の波だ。
ゆっくりと大広間全体を覆い、人々は一人に視線を殺到させた。
「皆に、聞きたいことがある。――あなたたちは、一体何を恐れている‼」
続く言葉で、空気の変化を肌で感じられた。
疑惑を抱いていた皆の視線が、驚きに変わる。
「あなたたちは、命を落とすことを恐れているのか? 何も成せないまま、人生が幕を閉じることを恐れているのか? 家族や友人と別れの言葉も交わせないまま敢え無くなることを恐れているのか? 死ぬことを、恐れているのか? 違う。――あなたたちは、生きることを恐れている‼」
一言、巨大な腕で空間が殴打されるようだった。
「生きるには、死と向き合わなければならない! 生きるには、理不尽と不平等を抱えなければならない! 生きるには、夢物語に打ちひしがれながら歩まなければならない! 生きるには、魂を食い散らす壮絶な闇にも立ち向かわなければならない! ――あなたたちは、生きることを恐れているのだ‼」
スョロのすぐ隣にいる小柄な少女――つい先程まで顔に影を落として震えていた彼女が、潤んだ瞳を見開いてシアラを凝視している。
暗闇に満ちた思考に光を刺されたのは彼女だけではない。
依然として無表情なスョロも、実のところ例外とも言えない。
「『下層』にいる家族の姿を思い描いて欲しい。痩せ細って、今も飢餓に苛んでいる彼らを救うことができる。待ち望んだそのチャンスを渡されたのだ。戦わなければ、彼らは『上層』の卑劣な理屈の下で命を落とすことになる!」
シアラは言葉を紡ぐ。
「『下層』にいる友人の姿を思い描いてほしい。『上層』からなら自由に下りて会うことができる。富の力で彼らを救済することができる。戦わなければ、それを諦めたことになる!」
間を置いて、続ける。
「そして……『下層』にいる、自分の姿を思い描いてほしい。汚染した空気を吸わされ、毎日のように危険に晒される。何かが変わると信じて、耐えて、生き抜いた。それでも、いくら耐え続けても、一切合切何も変わることはなかった! 変化という希望が折りてくることは、決してなかった!」
人を諭して恐怖から解放することは容易なことではない。
しかし正確には、ここにいる皆に対してはそうする必要もない。
何故なら、我々はある種、狂気に陥っていると言えるからだ。
ここから離れたいという一心に駆られ、周りが見えなくなってしまっている。
その、視野を狭めている不可視の壁は脆く、外界からチョンっと触れるだけで瓦解する。
「……もし仮に、本当にテュスラ皇帝が私達の連呼に答えてくれたとしよう。帰っていいと、そう言われたとしよう。――それを受け入れて、あなたたちは本当に後悔しないと断言できる? 何も変わらない辺獄に戻ったところで、正しい判断をしたと言えるの?」
シアラが組んでいた腕を緩慢な動きで下す。
「皆の者、生きることを恐れるな。今、我々の前に立ちはだかる壁に立ち向かうとなると、きっと、代償なくして済まされることは決してない。立ち向かうとなると、途方もない苦痛を味わうことになるかもしれない。きっと、人を殺さなくてはならない。周りで仲間が死んでいく姿を、見届けなければならない。命を、落とすかもしれない。それでも――何かより良いことのために生きることを恐れるな!」
そう言うと、シアラは毅然と手を前方へ突き刺し、
「私は立ち向かう! この惨く理不尽な世界に立ち向かう! 四大皇帝に人間というもの見せつけてやる‼」
広げた掌を力強く握り締め、己の戦意を明確に示した。
そして、今度は作った拳をゆっくりと和らげ、両手を胸の前で揃えた。
「だから、どうか、私と共に戦ってほしい。どうか、――どうかこの理不尽な世界に立ち向かってほしい!」
数秒の静寂。
されど、皆にとっては永遠にも感じられるだろう静寂が続いた。
そして、それを最初に破ったのは――、
「まさか、こんな大人数を前にして俺に恥を晒せたお前に、尊敬の念を抱くとは思わなかったぜ。――女王様よぉ」
「トギトウ……?」
壇の端の方でいつの間にか立ち上がっていたトギトウが、口端を上げてそう呟いた。
彼の言動に、シアラは瞳に浮かぶ驚きを隠しきれない。
「――最初は見下していたが、どうやら俺の目も節穴だったようだな」
それは、トギトウとは反対側から発せられた声――スキンヘッドの男が発した声だった。
そして彼は、こう続ける。
「お前の元で戦うことに、違和感は一切ない」
それを火種に、波紋は徐々に広がり始めた。
「たっ、戦います! 僕も、戦います!」
「私も! 戦う力はないかもしれないけど、勝利のためにできることなら全力でするわ!」
「ああ、勝てるぞ! 俺らならできる‼」
「泥沼での生活なんざクソ喰らえだ‼」
挙句、玉座の間には大火が燃え広がった。
雄叫びが錯綜し、昂揚感が場を満たすそんな中、「南の女王!」と、誰かがそう叫ぶのを耳にした。
その一言から連鎖して、場は統一を如実に表すかのように「南の女王‼ 南の女王‼ 南の女王‼」と、瞠目して群衆を静観している青銀髪の少女へと連呼していた。
シアラ自身、衝動に任せた故の行動で、ここまで発展する見込みはなかったのかも知れない。
驚きを露わにした表情からそう窺えたが、彼女はそっと目を閉じて数秒間考える仕草を見せた後、決心したかのような相貌を纏って再び正面を向き直り、宣言する。
「――ミネクァウラ代国は本当の意味でここに築かれた! 皆の者、私に付き、我々を虐げてきた憎き世界を打ち倒すが良い‼」
観衆は盛大に沸き上がった。
喝采が飛び交い、もはや誰も死を厭わなくなっていた。
シアラによって、多くの者が現実を見る目を取り戻すことができたのだ。
地獄から解放されるためなら、自由、平等、幸せのためなら、戦う価値があるのだと。
――そうして、大陸の地図に移る白い印は無くなった。
黄、緑、赤、青。
それぞれの色が、開戦の兆しを醸し出していた。