52 扉を開く
◆◆◆
曇り空に比例するように、オリヴィアの心も靄がかかっていた。
彼女はさっきから扉の前でぽつねんと立ち尽くしている。頭の中は怒りと悲しみと憎しみが、不協和音のようにぐちゃぐちゃと反響していた。
リナは自分に嘘をついていた。
親友の自分よりいじめっ子のグレースのほうがリナから信用されている。
その二つの冷酷な事実にひどく苦しめられた。
リナは笑顔で話しかけてきて、裏ではなにも知らないわたしのことを嘲笑っていたんだ。セルゲイもグレースも一緒になって……。
フローレンス様からはリナが皇女だと証明できる物を持って来なさいと言われた。
どこかに必ずアレクサンドル帝国の皇室に代々伝わるブルーダイヤの首飾りがあるはずだ、と。それを使ってちょっと彼女を懲らしめてあげましょう、と。
部屋の扉の取手に手を触れて、オリヴィアは少しのあいだ逡巡する。
人の物を盗むなんて、いけないことだ。ましてや大切な親友の物なんて……。
――でも、本当に友達なの?
にわかに、胸の中でフローレンスの声が鳴り響く。
――リナさんはあなたを騙していたのでしょう?
――だったら、それ相応の報いを受けてもらわないと。
――大丈夫、あなたは悪くないわ。
――わたくしに任せなさい。
ついに黒い影がオリヴィアを包み込んだ。そしてと彼女の肉体に滲むようにじわじわと浸食していく。
そうよ、悪いのはリナのほうよ。わたしは裏切られた被害者。だから彼女はなにをされたって非難する筋合いはないわ。
胸の音がどくどくと高鳴る。
彼女はそっと取手を回した。
◆◆◆
「お父様っ、公爵命令でリナをもう一度わたしの家庭教師に戻してっ!」
アメリアは父親のシェフィールド公爵に抱きつきながら懇願した。
もう10分以上もこんな状態で、執務で多忙な公爵を辟易させていた。リナのおかげで最近はとても良い子になったのに、また元の木阿弥だと公爵は眉根を寄せる。
「アミィ、嫌がっている人に対して無理に物事を強制するのは良くないことなんだよ。リナ先生から教わっただろう? 学んだことはちゃんと実行しないと」
「だからぁっ! そのリナ先生じゃないと駄目なのぉっ! 正式に公爵家の命令だったらリナも従うでしょう!?」
「だから、それがいけないことなんだよ……」公爵は困ったように頭を掻いた。「そうやって命令を出して下の者を力尽くで従わせると、反感を買っていずれは自分たちの首を締めることになるんだよ。どんな者でも心を持っているんだ。そこに貴賤は存在しない。我々高位貴族はそのことを忘れてはいけないよ」
「だったら! リナだって元高位貴族なのよ! それこそ無理矢理にでもわたしたちと一緒にいるべきだわ! 高位貴族が没落して平民になるなんて、悲しすぎるじゃない……」と、アメリアはみるみる瞳を潤ませた。
「なんだって……?」
公爵は目を見張った。そんなの初耳だ。
以前、娘からリナが元貴族らしいと聞かされて本人に確認したことがある。そのときは「貴族といっても男爵令嬢だったので平民とさほど変わらない」とあっけらかんに返された。
たしかに気の毒だと同情はしたが、本人も平然としていたのでさほど気にはならなかった。
もし彼女が貴族に戻りたいと望むのならばリーズ国内の男爵か子爵家を養子先に紹介しようと思っていたが、本人が平民の自分としての実力を試したいと意気込んでいたので、特に自分のほうからは動かなかった。
しかし、高位貴族となると話は別だ。高貴な血筋を市井で野放しにして良いものだろうか。
いや……。
公爵ははっと我に返る。思わずぶるりと身体が冷えた。
アレクサンドル帝国では多くの犠牲が出たという。元より力の弱い下位貴族たちは革命の渦で没落してしまう家門も多くあったらしい。
だが、
帝国の高位貴族が没落したなんて話はあっただろうか……?
「お父様?」
瞑目して思考する公爵を不審に思ってアメリアが不安そうに声をかけた。
「どうなさったの?」
「アミィ」公爵はしゃがみ込んで娘と目線を合わせる。「リナ先生は本当に元高位貴族だったのか?」
アメリアはこくりと頷いて、
「フレディお兄様が言っていたわ。リナは下位貴族だって言っているけど、おそらく高位貴族だろうって」
「そうか……」
公爵はフレデリックが今回の視察の前に自分に妙なことを懇請してきたのを思い出した。理由は聞かずにシェフィールド公爵家の騎士たちを貸してくれないか、と頼み込んで来たのだ。
彼は首を傾げながらも、快諾した。
フレデリックのことだ、おそらくエカチェリーナ皇女殿下の捜索の際に国王側からの圧力で身動きが取れなくなった時のための保険なのだろう。可愛い甥のために自分が一肌脱ごうじゃないか。
……そんな半ば親心のような気持ちで即諾したが、そのときには既に甥の中で答えが導き出されていたのだろう。
「アミィ、このことはお前たち二人以外には誰も知られていないな?」
「えぇ。よく分からないけどフレディお兄様が誰にも言っちゃ駄目だって言っていたわ。――あ、でももしかしたらセルゲイは知っているかも」
ストロガノフ公爵令息か……と、公爵はニッと口の片端を上げた。
これはもう、確実だろう。フレディの奴、婚約式の前にひと暴れするつもりだな。ここは叔父として手を貸すとしようか。
「アミィ、この件は絶対に誰にも漏らしたら駄目だよ。公爵命令だ」
「おっ……」アメリアの顔がみるみる赤くなった。「お父様がさっき公爵命令で無理矢理従わせたらいけないって言ったじゃない!」
「ははは、そうだったかな?」
「もうっ、ふざけないで!」
「アミィがちゃんと黙っていたら、お父様がリナ先生にもう一度アミィの家庭教師になってもらえるようにお願いしてあげるよ」
にわかにアメリアのつぶらな瞳が輝きだす。
「本当? 本当なの、お父様!?」
「あぁ、もちろんだとも」
「きゃあっ! ありがとう、お父様!」と、アメリアは大好きな父親に思いっきり抱きついた。
「それまでアミィは良い子にしておくんだよ。さぁ、もう部屋に戻ってお勉強の続きをしなさい」
「はぁ~いっ!」
アメリアはスキップしながら去って行った。その令嬢らしからぬ行儀の悪さに公爵は思わず苦笑いをする。
そして愛娘が廊下の向こうに消えた次の瞬間、侯爵は打って変わって険しい面持ちでシェフィールド家の騎士団長のもとへと向かって、扉を叩いた。




