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「すみません……ご迷惑をおかけして、名前も知らない先輩なのに」

「すみません……ご迷惑をおかけして、名前も知らない先輩なのに」



 肩を竦めたキトが申し訳無げにそう言うと、カフェテーブルの向かいから上級生の「知らねえのかよ」というつっこみが控えめに入る。



「ご、ごめんなさい」

「まあいい、ヤルシペ家のご長男たあ、俺の事だよ」

「あ、ヤルシペ家の……そうだったんですね、すみません」

「……ふん、まあ、ヤルシペの名ぐらいは知ってて当然だな」



 ヤルシペは呆れたようにひとつ息をつくと、目の前のカップを持ち上げて中身をすすった。

 彼が道の真ん中で突然泣き出したキトの手を引っ張り連れて入ったのは、手近な喫茶店だった。人目を避けるために入ったそこでもまた人目を避けるように奥まった席を選び、何か事情があるのだろうと察して控えめに注文をうかがいに来たウエイトレスに、ヤルシペは二杯のミルクコーヒーを注文した。そうしてすんすんと鼻をすすりながら涙でぬれた目元をぬぐうキトが落ち着くのを待っていたのだ。

 ようやく落ち着いたらしいキトを見るヤルシペの表情には嘲ったような笑みは無く、かといって涙は収まったとはいえ肩を竦めて未だに落ち込んだ様子のキトを心配するような表情も無い。カップをテーブルに戻したヤルシペは、ただキトを観察するようにじっと見据えた。

 ――ミルクコーヒーをすすった途端にぐっと眉間にしわを寄せたがそれはキトへの嫌悪とかそういうものではなくミルクコーヒーの苦さに対するもので、その後複雑そうな表情を見せたのはキト()の手前角砂糖に手を伸ばせないもどかしさのためである――



「で、突然何を泣き出したんだよ」

「えっ」



 直球なその問いにキトが目を見開き分かりやすく動揺するが、ヤルシペは気にしたようでも無く表情一つ変えずに言葉を続ける。



「ガキとはいえ、目の前で突然泣き出した女を放っておいちゃ、名家の名折れだからな。たとえそれが忌々しいペアトレムの女だとしてもだ」

「お、女って……」

「ああ、幼馴染なんだったな、友達以上恋人未満ってやつか、はっ甘酸っぱくて結構だな」

「ち、ちが……違いますよう……ううう」



 容赦ないヤルシペの猛攻に、キトの目に再び涙がじわりと滲む。わかっているはずなのだが、『違う』と口にして受けるダメージはまだ大きい。それに今はもう、ただの幼馴染という関係ですらもいられなくなってしまったのだ。



「だ、だって、アレンは、ラドグールの家のお嬢様と、結婚するから」

「あ? あー……なるほど、あれを聞いたのかお前」



 ヤルシペがそう言えば、キトの肩がぴくりと動くのが見えた。どうやらヤルシペの推測は正解らしい。

 かたや常に笑みを浮かべて何を考えているやらわからないというのに、片方はずいぶんとわかりやすい。そう思えばヤルシペの口からはつい呆れたような溜息が出る。それに、まだ縁談の話があるというだけだ。結婚するからとはなんとも飛躍した解釈である。幼馴染の片割れは分かりやすいうえに、そそっかしいらしい。



「お前は、あいつがラドグール家の令嬢との縁談を受けると思ってんのか?」

「そりゃあ、それは、アレンにとって必要な事だから、当然受けますよ」



 ヤルシペの問いに、キトはにじんだ涙を拭いながらそう答えた。

 だからこそアレンはもうこれきりにすると言って、別れを……。と、キトは自分の言葉にそう思い出して拭った傍からまた目に涙がにじむ。慌てて拭うのだが、次から次へにじむそれを拭っても目が痛くなるばかりである。



「お前はそれでいいのか」

「い、いいも何も……わたしは、やだなんて、言う権利無いです……」



 キトの答えに、権利ねえ、と呟き、ヤルシペはカップを持ち上げミルクコーヒーを一口すする。――その苦さにまた眉間にしわが寄る――

 次いで「冷めないうちに飲めよ」とキトに勧め、キトが素直にカップを持ち上げ中身をすするのを見届けるとヤルシペはゆっくりと口を開いた。



「俺はな、あいつにこの縁談を受けてもらっちゃ困るんだよ」

「困る?」



 キトがそう聞き返すと、ヤルシペは眉間にしわを寄せて不機嫌そうな表情で語り始めた。



「貴族でもない家が貴族相当の地位に押し上げられて、その上貴族と姻戚関係になるなんて厄介な事この上ない。あのデモクライズムにかぶれたラドグールの当主がペアトレムの家を国政にまで携わらせようとしてるのが、ますます現実味を増すんだからな」



 ヤルシペは忌々しげにそう言うと、チッと舌打ちをして言葉を続ける。



「生まれながらに選ばれた人間にしか見えない景色ってもんがあるんだ、それが見えない人間に、大事な国政をひっかきまわされちゃたまらねえんだよ」



 嫌悪がむき出しにされたその言葉はキトの胸をぎゅうと締め付けたが、自分にはわからない話にキトはアレンやアレンの父をかばうようなことは言えなかった。



「まあ実のところ、ペアトレムの策略というよりはラドグール当主の暴走だが……それを甘んじて受け入れようとしてるんなら、同罪だな」



 忌々しげにそう吐き捨てたヤルシペの顔にはやはり嘲ったような笑みは無く、彼の言葉が本心であることを語っているようである。そんな表情の彼にキトはやはり何か言い返す言葉も無くて、そっと目を伏せた。

 そんなキトの様子を前にして、ヤルシペはアレンのことを思い出していた。キトが聞いていたらしい、図書館近くの廊下で呼び止めた時のアレンのことを。

 いつもならばヤルシペの嫌味を笑顔で顔色一つ変えずに聞き流していたアレンが――それは今思い出しても大変に腹が立つ――その日ばかりは浮かない顔のままで返事のひとつもない。そんな相手に嫌味を言うことの空しさといったらなく、こちらから呼び止めたもののさっさと話を切り上げてヤルシペが立ち去ろうとした時だった。アレンはようやくその重たい口を開いたと思うと、つぶやくようにこう言うのだった。


『幸福……、本当の幸福って、一体どういうことなんだろう……わからないんだ』


 そう言ったアレンの表情が、ヤルシペの脳裏に鮮明に映し出される。

 あんなのは、貴族だけがしていい表情だ。貴族でもない奴がどうしてあんな表情をしなければならないというのか、まったく腹立たしい。

 あんな、己の建前と本音に葛藤し、苦しむ表情など、貴族ではない人間がしていい表情ではない。


 ヤルシペは改めてキトに視線を据えると、「おい」と呼びかける。キトが顔を上げると、ヤルシペは思いがけず真剣な表情をしていた。



「本当にいいのか? お前の大切な幼馴染は、大人たちの道具にされてるんだぞ」



 その言葉にキトは小さく「えっ」ともらして息をのむ。

 大人たちの道具にされている。それはキトには意味がよくわからないことで、しかしまったく響きの良い言葉ではないそれにこめかみのあたりがぎゅっと締め付けられる。



「お前、あいつはこの縁談が必要だから受けるって言ったな。必要だから、本当に望んでいることだと、そう思ってるのか」



 そうに決まっていると、キトはすぐに答えることは出来なかった。代わりに少しの間を置いて、キトの口から出た言葉は「わからない」というものだった。それに対してヤルシペが「そりゃそうだ」と答える。



「決して本人の口から、そう聞いたわけじゃねえんだからな」



 ヤルシペの言葉がキトの頭にずしんと降りかかり、一瞬めまいがした。

 そうだ、昔からそうだった。アレンはいつも、大切なことは言わなくて。平気だと言うアレンはいつも、全然、平気なんかではなくて。



「で、でも、だからって、わたしに出来ることなんて……」



 そう言ったキトの目に、再びじわりと涙が浮かぶ。

 ヤルシペの言うとおりだったとして、事はキトの手に負えるようなものではない。まして政略とはいえ、結婚に口を出すだなんてことは、彼女でも、なんでもないのに。出来るはずが無い。



「じゃあ、このままあいつが道具にされるのを助けようともしないで、黙って見てるのか」

「それは……でも、やっぱり、わたしには何も出来ないから……」



 俯きがちにそう言ったキトの耳に、ヤルシペがはあとため息をついたのが聞こえる。



「まあいいさ、どうせお前に選択肢は無いんだからな」



 次いで聞こえたその言葉に、キトは思わずえっと顔を上げた。ヤルシペはじっとキトの方を見ていて、そしてその口元には笑みを浮かべていた。



「言っただろ、俺はあいつに、この縁談を受けて貰っちゃ困るんだ」



 そう言ったヤルシペのその笑みは、以前見たような人を嘲ったのとはまた違うものであった。



「そのためにこんな良い駒を見つけて、手放すような真似するわけねえだろ。なに、悪いようにはしねえよ。だからお前は大人しく、俺の言うことに従っておけばいいんだ、わかったな?」



 あまりに一方的かつ自信たっぷりで有無を言わせぬようなその笑みに圧倒されて、キトは数回目を瞬かせ、それから戸惑ったように「……はい」と返事をしてしまうのだった。








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