「おう、お帰りー」
「おう、お帰りー」
寮の部屋でキトを出迎えたルームメイトは、ベッドの上で寝転んだままそう言った。
しかしそうして見えたキトの様子に、彼女は読んでいた雑誌を脇に放り投げると体を起こして驚いた顔をする。
「およ? 解毒剤貰ったんじゃないの? なんでまだ帽子被ってんの?」
部屋の入口に佇んだままのキトは、頭にニット帽を被っていた。昨日一日どころか今日の夕方までという時間をアレンに好き放題にされ、解毒薬を手に入れてようやく寮の部屋に帰ってきたはずだというのに。ルームメイトは「やっぱ引きちぎったの?」と言おうとして、その言葉をのみこんだ。
入口に立ち尽くすキトが、今にも泣き出しそうな顔をしていることに気付いたからだった。
「キト、どうした?」
事態の深刻さを察したルームメイトがややトーンを落とした声でそう聞くと、キトは「うう」と唸りながらゆっくりベッドの方へと歩み寄る。そうして心配そうな顔で見上げるルームメイトの胸に思い切り飛び込んでいくのだった。
ルームメイトは驚きながらもその体をしっかりと受け止め、それから労わるように背中を優しく叩きはじめる。
「……もう、これきりに、するって」
「うん」
「だから、ネコミミを、無くしたら、もう、終わりにしなくちゃ……終わりにしなきゃいけないよお……」
「うん、キト、辛いね」
「つらいよおおおおお……」
キトがルームメイトの胸にぐりぐりと額をこすり付けるとニット帽がだんだんとずれていく。そうしてついに帽子がぱさりと落ちて露わになったキトの頭には、すっかりへたってしまったネコミミがあった。
そして床に放り投げたカバンからは、ガラスの小瓶がごろりと転げ出ていた。
翌朝、目を覚ましたキトの頭には、ネコミミは無かった。
視線を落とすと枕には猫の毛が抜け落ちていて、キトの口から思わず「うわあ」と声がもれる。解毒薬の効果はこうして現れると聞いていても、やはり実際にその光景を目の当たりにするとなんというか、気持ちが悪い光景だ。
しかしそれは同時に、確かにネコミミを失ったのだという実感を与える光景でもあった。
「キト」
枕に視線を落としたまま動かないキトの肩を、ルームメイトがぽんと叩く。
「朝飯食いに行こう」
ルームメイトが努めて明るく笑ってみせてそう言うと、キトは弱弱しく、しかし確かに口角を上げて笑うのだった。
そうして朝食を終えたキトたちが教室に着くと、すぐにトムが心配そうな表情で駆け寄ってきた。
「キトさん、治してもらえたんだね、よかっ……」
「トム」
それからキトの頭を確認してほっと表情を和らげて言ったトムの言葉を、ルームメイトが遮る。トムがえっと驚いた顔で見ると、彼女は立てた指を唇に押し当て『しーっ』と訴えていた。次いで改めてキトに視線を移せば、浮かない表情をしている。それなのにトムとルームメイトの様子に気づいて「大丈夫だよ」と慌てて笑ってみせる姿は何とも健気で、痛々しいではないか。
そんなキトを前にしてトムは「何があったの」などと追い打ちをかけるようなことは聞けるはずもなく、唇をきゅっと結ぶと小さく息を吸い、努めて明るく笑ってみせると「おはよう」とだけ言うのだった。
もうこれきりにするよと言った通り、その日を境にアレンは一切キトの前に姿を現すことは無かった。
始めの数日こそキトは何か胸にぽかりと穴が開いたような喪失感を抱えていたが、一週間もすると時間がその穴を埋め始めたのか、キトは自分で『平気だ』と思えるようになっていた。その証拠に、アレンと顔を合わせてしまうかもしれない図書館に行くことが出来る様になったのだ。ついでにその図書館で雑誌を読みふけって過ごすことも出来る様になった。
ルームメイトやトムは未だに時折心配そうな目でキトを見るが、キトはそれには気が付かないふりをしている。その心配に甘えてしまえば、『平気だ』と自分に言い聞かせた言葉が水の泡になってしまう。だからこそキトは今日もそんな視線を振り切るように、一人で図書館に向かうのだった。
そうして図書館で雑誌を読みふけった、帰り道でのこと。
「おや、ペアトレムじゃないか」
曲がり角の向こうから聞こえたその声に、キトはぴたりと足を止めた。
「はは、相変わらず浮かない顔のままだなあ、何だってそんな顔してるんだよ」
アレンの名を呼び、次いでそう語りかけたその声は、紛れも無くあの日街で出会った二人組のうちの一人の声だった。やはり親しげなのは言葉だけで、その声色は嘲ったようだ。
「聞いたぞ、お前の家の大切な後ろ盾の、ラドグール家の令嬢と縁談の話があるらしいじゃないか。願っても無い幸福のはずだろ、もっと嬉しそうな顔をしろよ」
それが聞こえた瞬間、キトの頭がきゅうと締め付けられた。
「ああ、それとも、お前がご執心なあの幼馴染の存在がばれたら幸福を逃してしまうんじゃないかと、それが不安なのか?」
キトの頭に、ああそうか、という言葉がよぎる。
いつかではない、アレンの婚約者は、もうすでに決まっていたのだ。だからアレンはこれきりにすると言って、別れを告げた。婚約者に誤解を生まないために。婚約を、確実にするために。
頭のどこかで、何かが音を立てて崩れ落ちていくような気がした。
こめかみのあたりがぎりぎりと締め付けられ、ついには心臓までもがぎゅうと締め付けられる。どうしてこんなに、苦しいのだろうか。もう終わりにしなくちゃいけない、そのことを、受け止めたはずなのに。この恋心が実るはずはないということは知っていた、わかっていたはずだ。
それなのに。
耐え切れず、キトはその場を走り去った。
「キト? どうした、そんな顔して」
急いで帰った寮の部屋で驚きの表情で出迎えたルームメイトの胸に、キトは思い切り飛び込んでいく。ルームメイトはそんなキトに何も聞かず、ただその震える肩を抱くとぎゅうと抱きしめた。
「……ぜんぜん、平気なんかじゃ、なかったよお」
「うん」
「わたし、わたしなんにも、わかってなかった……」
「うん」
「やだよ……やだ……終わりにしなきゃいけないなんて、やだあ……」
「うん、やだな」
「でもちゃんと、終わりにしなきゃ、アレンの迷惑になるから……ダメなんだよ……」
「そっかあ、キト、辛いね、辛いよ、それは」
「つらい……」
胸のあたりがじくじくと痛み、こめかみのあたりがぎゅうぎゅうと締め付けられる。これが失恋の痛みだとキトが自覚出来たのは、ひたすらルームメイトの胸にすがり、さんざん泣いた後だった。
「はあ……」
耐え切れず、キトは往来で深いため息をついた。
決定的な失恋の痛みは未だ癒えず、街に出かけるなどという気分ではない。ならばどうしてキトが往来を歩いているのかと言えば、それは実家からの呼び出しのせいだった。
呼び出しと言ってもたいしたことではなく、旅行から帰ってきた祖父母の土産を取りに来いというものだ。そんなものはいつでもいいだろうし、何より祖父母には悪いが今はそんな気分ではない。キトは届いた電報を机の上に放ったが、それを見たルームメイトはキトに「行ってきなよ」と言う。曰く、気分転換になるだろうから、ということだった。キトは始め戸惑ったが、直後にそれも友人が自分の為を思って言ってくれたことなのだと思えばその言葉に従う気になり、放課後の街に出てきたのだ。
そうして訪れた実家で祖父母の土産話と共に土産を貰えば、ルームメイトの言った通り気分転換になった。だというのに学園への帰り道を歩くキトの表情は浮かないものである。それというのも、確かに祖父母と話している間は沈んだ気分など忘れてしまっていたのだが、家を出て道を歩いているうちに沈んだ気分がぶり返し、ついにはそれに耐え切れずに往来でため息をつくに至るのだった。
街は来たる冬に向けて徐々に華やかさを増していて、ショーウィンドウには陶器製のスノーマンが一足早く立ち並びこちらを見ている。そのつぶらな瞳も、ニンジンの鼻も、キトの心を躍らせるものではまったくなくて、むしろ沈んだ気分に拍車をかけるそれにキトは思わず立ち止まり、恨めしげに睨み付けた。
と、その時。
「わ」
「おっと」
どん、という衝撃。
「ご、ごめんなさい」
「いや、こちらこそ」
振り返った両者は互いの顔を見て、同時に「あ」ともらす。先に「お前……」と切り出したのは少年の方だった。
「……ふうん、今日は一人なんだなあ、いいのか? あいつの傍にいてやらなくて」
キトの姿を確認するやいなやいつもの人を嘲ったような笑みを口元に浮かべてそう言ったのは、紛れも無くアレンに嫌味を言う上級生で、そして彼はアレンに。
「うう……」
「え? お、おい?」
「もう、傍になんて、いられないんですよう……、うう、うえええ……」
「あっおい! 何泣いて……ああ、ったく!」
上級生は、仕方ねえなあ、と焦ったように言うと、泣き続けるキトの手をがしりと乱暴に掴み、その手を引っ張って歩き出すのだった。