「おっかえりー」
「おっかえりー」
たどり着いた教室でにこにこと出迎えたルームメイトに、キトは人目をはばからず泣きついた。
「うわああああああん」
「おーよしよし、痛い痛いしたねー、引きちぎった? 引きちぎったのかい?」
「ナニソレこわい」
しかし直後に聞こえたルームメイトの猟奇的な言葉にさあと青ざめ、その体をぐいと押しのける。対するルームメイトはきょとんとした表情でキトを見つめ返した。どうやらこの友人は本気であのネコミミを引きちぎったと思っているらしい。我が友人ながら実に恐ろしい……とキトが更に顔を青ざめるが、ルームメイトは自らの発言を反省した様子も無く不思議そうに口を開いた。
「およ、じゃあ頭の帽子は何なのさ」
「これは……」
指摘された自らの頭を隠すニット帽に手をやり、キトは苦々しげにそう切り出すと医務室での出来事をルームメイトに話して聞かせた。――ちなみに、アレンに「俺の猫になってもらおうかな」と脅された部分はただ言うことを聞けと脅されたと伝える。どうしてそんな恥ずかしいことを、しかも解毒薬を盾にされたとはいえ承諾したと言えようか……――
ふんふんと相槌を打ち、時に馬鹿笑いをして会話を中断しつつも話を聞き終えたルームメイトはやはり遠慮もクソも無く大笑いをするのだった。
「うははははは! やばい! なんかもう色々とやばい!」
笑う彼女をキトがじろりと恨めしげに睨み付ける。それでもそんな抗議の視線は「もうあの人のことまともな目で見れないわ」と馬鹿笑いを続ける彼女には届かず、結局馬鹿笑いが収まるのを待つしか無いのだった。キトがうぎぎと悔しそうに歯を食いしばって待つこと数十秒、ようやく笑い終えたルームメイトはうっすら涙の溜まった目元を拭う。
「で、じゃあ、仕方ないからそれで隠してるってわけ?」
「……そういうこと」
そう答えればキトは帽子の下のネコミミを思い出して、はあとため息をついた。こうなってしまうと目立たないボブテイルは有難いことのように思えてしまうが、考えてみればそれもこうなることを想定してのことだったのだろう。耳ならば帽子でいくらでも隠せるが、長い尻尾を隠すとなると難しい。どこまでも、アレンの”計画通り”なのだ。
思い至った事実にキトがもう嫌だとばかりに机に突っ伏すと、タイミング良く授業開始のベルが鳴り響くのだった。
「キトさん」
授業を終えたキトの背中にそう呼びかける声があった。
キトが振り返ると、そこには心配そうな顔でこちらを見下ろす見知った姿。キトが「トムくん」と呼びかけた男子生徒はキトの頭を見やると、不安げに眉根を寄せた。
「えっと……大丈夫? 引きちぎったの?」
「デジャブ」
キトが思わず眉間にしわを寄せてそう言った隣でルームメイトが「うはははは!」と笑い出したが、これはもういっそのこと無視である。トムは突然笑い出した彼女に驚いた様子だったがキトが「無視して」と促すと一瞬迷ったように視線をさまよわせ、最終的にキトに視線を戻した。
「そうじゃなくてね、これはその、あれを隠してるだけで……」
そんな彼にキトがそう言葉を濁しつつ説明すると、トムは「ああ……」と感嘆ともため息とも言い難い声をもらした。彼はあれがつまりネコミミを指すことを知っているのだ。いや、そもそも「引きちぎったの?」と聞いてきた時点でそんなことはわかっていた。きっと面白がったルームメイトから聞かされたのだろうと察すると、キトは小さく息をついて目を閉じる。
そんなキトに同情の視線を送る彼の名はトム・トーティス。
髪と同じさび色の瞳は見る人に気弱そうな印象を与え、事実彼は印象の通りの人間だった。それは彼の生家であるトーティス家が『万年下っ端』と揶揄される家であることを知っている人間ならば、ああと納得することだろう。
トーティス家はある大きな家に取り立てられてその地位を確実にした家である。しかしながらそのために互いに代を重ねた今でもトーティス家はその大きな家には頭が上がらないという悲しい事実があった。また代々の当主にはなぜか気弱な性格が受け継がれるという不幸によって、トーティス家は確実にした地位とは矛盾した『万年下っ端』のあだ名を被ることになってしまったのである。
そんな家の長男であるから当然トムは幼い頃より気弱な性格であったし、彼が先輩と呼ぶ一つ年上のある大きな家のお坊ちゃまに逆らうことも出来ずにこき使われてきた。
トムとキトが出会ったきっかけには、その先輩が多少絡んでいる。
廊下でうずくまっていたトムをキトが医務室へ連れて行ったことがきっかけだったのだが、彼の体調の変化――具体的に言えば肌が真紫に染まっていたことだ――が彼の先輩がひそかに彼の食事に盛った薬のせいだとわかると、キトはその境遇に自らを重ねトムにひどく同情した。なんでもトムの先輩もまたアレンのように”魔法薬学”を趣味としており、こっそり食事に混ぜ込まれたり、時には正面切って「飲め」と言ってくるそう。トムが切実に語った内容にキトは力強くうんうんと頷き、更には涙ながらに自らがアレンから受けた被害などの苦労も話して聞かせた。するとトムはいたく感動し、以来二人は互いのどちらかが被害を受ける度に、互いを慰め合う良き友人となったのである。
「あれ、じゃあ、先生にも治せなかったってことなの?」
そんな彼だからこそ、ネコミミを隠しているというキトの言葉から保険医の降参までもを言い当てることが出来るのだった。
「うん、そう……」
「はあ……やっぱり、ペアトレムさんはすごいや」
「感心してる場合じゃないよ……」
「あっ、ごめん」
慌てて謝罪の言葉を口にするトムに、キトは項垂れながらも「ああいや、気にしないで」と気遣いの言葉をかけた。言動の端々に気の弱さをかもしだすこの同級生の少年に、悪気は無いのだ。キトの隣で未だ笑いの止まらないルームメイトとはまったく違うのである。キトがいい加減黙れやと彼女を睨み付けるが、気づく様子が無いので足を踏みつける。ぎゃっと悲鳴が上がって笑い声がやっとのことで止んだ。
「いちち……容赦なく踏むんだもんなあ……、しかしまあ、今回のは随分と手が込んでるよねー」
乱暴な忠告にルームメイトが顔をしかめたのは一瞬のことで、すぐにけろりと表情を変えるとそんなことを言った。
確かに、保険医にすら解毒できないものを作るなどとは今回はやけに手が込んでいる。もっと言えばそんなことは初めてである。ネコミミにしてもそうだ。動物の耳がぴょこんと生えたのは初めてではないが、神経がつながっていたり感情に合わせて動くなどと手が込んだものは初めてだった。
考えてみればアレンの様子だっておかしい。こんなに手を込んだことをしてまでどうしてキトを脅したかったのか。それに、「ありがとう」と言ったあの表情。あの表情が孕んでいた感情は……。
「キトが最近つれないから、もっと構って欲しかったんじゃない?」
「はっ?」
「えっ」
ルームメイトが言ったことにキトが思わず声を上げ、なぜかトムも驚いたように声を出した。両者の注目を浴びた彼女は想像した通りの反応に、にんまりと口角を上げる。
「最近は先生にさっさと治してもらって顔も合わせない事が多かったじゃん。キトに会えなくてあの幼馴染は寂しいんだよ~」
「寂しいって……」
「そりゃあ変ないたずらばっかりしかけるあの人が悪いけどさあ、好きな子に意地悪しちゃう初等部男子的な気持ちもわかってやりなよ」
その言葉に再びキトとトムが同時に声を上げた。片や思い切り顔をしかめて「は!?」と勢いよく言い、片や「えっ」と声を上げると「やっぱり……」と小さくつぶやいて肩を落とす。――どちらがどちらの反応かは言うまでも無いだろう――
「いやいや、あり得ないから!」
「うわ出た、女がイラつく女の常套句」
そう言うルームメイトの声は明るく、それどころか直後に「うははは」と笑ったのでただからかって言ったのだとわかる。
「だいたい年頃の幼馴染が急によそよそしくなるか急にべたべたしてくるかしたら、異性として意識し始めた合図だって相場が決まってんだよ。あの人は思いっきり後者でしょ」
「なにそれどこ調べなの……」
だからこそ後に続いたその言葉にキトは呆れたようにそう言うと、元気なく項垂れた。
ルームメイトがキトをからかって言ったことはつまり、アレンはキトの事が異性として好きだからこんないたずらをしかけてくるのだ、ということだ。キトはそれを、あり得ない、とはねつけた。――トムは「やっぱり」とつぶやいて肩を落としたが、幸いキトはそれを聞いていない――
確かに珍しくこんなに手の込んだことをしてキトを脅してきたのは、構ってもらえずに寂しかったせいなのかもしれない。あの「ありがとう」の顔は、たぶんそういう感情を孕んでいたのである。それは理解しても、それが恋心からの寂しさだと、キトには受け入れることは出来なかった。
「いーじゃん別に、優良物件なんだからさあ」
「優良物件だからあり得ないんだよ……」
キトが元気なくそう返すと、ルームメイトはきょとんとした表情を返した。
「ほう?」
「だって子供の頃とは違うんだよ。アレンは良いところのお嬢さんをお嫁に貰う立場なんだから、そんな、恋だの愛だの言ってらんないの知ってるもん。いやそもそも、アレンはわたしのことなんか、ただ意地悪して楽しい妹みたいにしか思ってないし、こんなことするのだって、ただのストレス発散だし……」
ことごとく否定の言葉を返すキトに、ルームメイトはうーんと考え込むと切り口を変えて言葉を切り出した。
「じゃあさ、キトはどうなの?」
「どうって」
「あの人の事好きなの? それともただ意地悪してくる近所のお兄ちゃん?」
その問いにキトはルームメイトの顔を凝視したまま動きを止め……。
……かあ、と顔を赤くした。
それはキトの返事が後者ではないことを如実に語っていて、ルームメイトの口角がにんまりと上がる。何を隠そう『年頃になって急によそよそしくなる幼馴染』とは、キトのことなのだ。
次いで聞こえた「わかりやすっ」というルームメイトの言葉に慌てて反論したキトは、トムが「やっぱり……」と呟いて先ほどよりも大きく肩を落としたことに気が付く余裕は無かった。