「いやあ、こりゃまた見事だ」
「いやあ、こりゃまた見事だ」
医務室の主はキトのネコミミをじっくりと調べ上げた後、そう言った。
「見事って……感心したみたいに言わないでくださいよお」
「はは、そう落ち込むなよー」
キトが項垂れ、ついでにネコミミが感情に合わせてへにゃりとへたる姿に保険医がそう言って笑いかける。しかし朝一番に己のネコミミ姿と浅はかさを思い知らされ、ルームメイトにはただひたすら笑われる、その上すがる思いで診せた相手には心配の言葉のひとつもかけられず、ただ一言「見事だ」と感心されてどうして落ち込まずにいられようか。とはいえこんなことは初めてではない。実のところ元気なく項垂れたキトは、落ち込んでいるというよりも周囲の相変わらずの薄情さに呆れているだけなのかもしれなかった。
そんなキトに保険医が「元気出せって」と言って肩をばしばしと叩いた力は存外に強く、「ぎゃっ」という声と共にへたっていたキトのネコミミがぴくんと跳ねて立ち上がる。その乱暴な仕草は保険医の一見すると妖艶な見た目に似合わず、彼女が一部でしゃべらなければ美人なのにと噂される要因の一つであった。
「さすが将来を約束された天才児だよ、感情に合わせて動くなんて驚いた」
「こんなことに才能を発揮しなくてもいいのに……」
「しかもきっちりボブテイルに仕上げるとは、いやあ、ますます趣味にしておくのがもったいないねえ」
「ボブテイルって名称をこんな形で知りたくなかった……!」
そのキーワードにキトがネコミミを……頭を抱えて悲痛な叫びをあげる。
医務室を訪れたキトを更に打ちのめした事実。それは、ネコミミのみならず尻尾までもがこの体に生えていたということであった。
ボブテイルと呼ばれる短い尻尾は上手く制服のスカートに隠れてほとんど目立たない。見た目からその存在を認識することは難しいだろう。とはいえキトは尾てい骨あたりに何か違和感があることは感じていたし、更には着替える時にも手が触れないわけはないのだがあえて無視をしていた。確認するのが怖かったのだ。しかしながら保険医に触ってみろと促され、ふわっとした手触りを感じた瞬間に目を背けたかった事実を突きつけられて、キトは再び失意のどん底に突き落とされるのだった。
そんなキトに保険医は止めの一言を告げる。
「まあ申し訳無いけど、今回はあたしの手に負える代物じゃなさそうだ」
「えっ?」
キトが目を丸くすると同時にネコミミがぴんと立つ。幸いにも医務室の主はルームメイトと利がってそれに大笑いすることは無く、会話が中断することは無かった。
「驚いたことに解毒法解読の封印がされてるんだよね、解毒法さえわかれば何とかなるけど、解読すらできないんじゃどうしようもないんだよ」
「そ、そんなあ……そこを何とかお願いしますよお……」
「いやー悪いけど、今回は天才少年に脱帽、お手上げ」
両手を挙げてそう言う保険医にキトが「そんなこと言わないでください」とすがりつくが、彼女が考え直してくれる様子は無いようだった。申し訳無げに「ごめんね」と告げる保険医の姿に、キトの心情を表すようにネコミミがへにゃとへたる。
「まーいつものように、元凶が来るまでここでゆっくり休んでな」
困ったような笑顔でそう言われてしまえばキトはそれ以上何も言えず、しかしその口からは悔しそうに「ふぐう」と唸る声がもれるのだった。
ルームメイトがキトのオーダー通りのふわふわ分厚い卵サンドを持参して医務室を訪れたのが30分前。そして保険医が「ちょっと呼ばれてるから」と言って医務室を出ていったのが少し前の事だ。
留守を預かるキトはいきなり扉が開かれこのネコミミ姿を見られるなどということが無いように、ベッドのカーテンの内側に身を隠していた。ふわふわ分厚い卵サンドという大好物で空腹を満たせば落ち込んだ気分も多少上向くもので、キトは手鏡を手に改めて己のネコミミを観察する。
ネコミミは安静にしていればまったく動くことは無く、また意識的に動かせるというわけでもないようだった。しかしルームメイトや保険医の証言からこのネコミミが動くことは確かである。やはり感情に合わせて動くものなのか……と顔をしかめたその時。コツンコツン、と医務室の扉を叩く音がして、鏡に映るネコミミがピクンと跳ねた。
キトは思わず鏡をベッドに投げ捨て、カーテン越しに扉の方をじっと見つめる。
扉は返事を待たずに開かれ、誰かが中に入ってきたようだった。その間もキトのネコミミはわずかな音も拾おうと細かく動き続ける。――このネコミミが実際音を拾う機能を備えているのかどうかは定かではない――
「キト?」
聞こえたその声にはっと息をのみ――ついでにネコミミがぴんと立ち――キトは勢いよくカーテンを開けた。
まるで親の仇を前にしたようにぎりと歯をくいしばり、キトは目の前の人物を睨み付ける。一方でカーテンを開いた先に居た人物はこちらを睨むキトの姿を捉えて、その顔に嬉しそうな笑みを浮かべた。
そうしてキトの方へ歩いてくる姿をじっと睨み付け、ついにその姿が目の前に来た時。キトは大きく息を吸うと
「ばかアレン! さっさと治してよ!」
と、勢いよく怒鳴りつけた。――ついでにネコミミの毛が一斉に逆立った――
開口一番怒鳴りつけられ少しだけ驚いたような顔をしたこの男子生徒こそ、キトの困った幼馴染であり、キトの頭にあるネコミミの元凶であるアレン・ペアトレムであった。
しかしアレンが驚いた顔をしたのも一瞬のことで、まるで子猫の威嚇が微笑ましいというようにその顔に笑みを浮かべると、キトに向かってゆっくりと手を伸ばした。キトが本能的に避けようとするがアレンの手はキトを追い、その頬にそっと触れる。
「それに気づいたのはいつだった?」
「……今朝」
「キトがショコラを食べたのが昨日の昼だから、効果が出るのに結構時間がかかったね」
言いながらアレンの手はキトの頬を撫でるようにして頭の後ろへと動いていき、それから上に動くとすっかりへたってしまったネコミミへとたどり着く。アレンの細い指が触れるとネコミミがぴくんと動いて、ぞわりと毛が逆立つ感覚がキトを襲った。
「うぎゃ、触んないでよ」
「ああ、ちゃんと神経もつながったみたいだ」
自分の才能ながらおそろしいなとつぶやくアレンはキトの抗議を聞くつもりはないのか、ふにふにとネコミミをいじる。それに合わせてぞわりぞわりと襲い来る感覚にキトは何か言い返すことも出来ず、ただ肩を竦めてひゅっと息をのんだ。それでも何とか屈するものかと上目に睨めば、それに気づいたアレンは何かを察して「ああ」と言う。
「キトが聞きたいのはきっと、どうして同じショコラを食べた俺が、同じ目に遭っていないのかということかな」
キトが上目に睨むことで訴えたのはそういうことではなかったが、言われた言葉にキトはあっと思う。そういえば愉快そうにこちらを見下ろしキトのネコミミをふにふにと揉むアレンの頭には、ネコミミなどと可愛らしいものはまったく見えない。――悪魔の触角が見えそうではあるがそれはそれとして――
アレンはキトと同じショコラを食べたはずである。しかもそれは警戒したキトが選んで渡したショコラだった。なによりアレンが自ら食べて見せたからこそ、キトは油断して差し出されたショコラを口にしたのだ。だというのに片やネコミミ、片や何も無しとはいったいどういうことなのか。
「簡単な事だよ、ある効果を持つ薬は、それを打ち消す薬があって初めて完成したと言えるというだけのことだ」
アレンの言葉にキトは再びあっと思い、それから恐ろしい事実を予想するとひゅうと息をのむ。
「つまり、それを治す薬は俺の手の内ということ。それを治せるも治せないも俺次第、……いいや、キトの態度次第、かな」
こちらを見下ろす、灰がかった青色の瞳がにたりと笑う。それはまるで悪魔のようで、キトはやはりその頭に悪魔の触角が見えた気がするのだった。
悪魔は呆然と自分を見上げるキトにふふと笑うと、尚も言葉を続ける。
「さてキト、世の中望みの物を手に入れるには、何か対価が必要だ」
「対価……な、何?」
「そうだなあ……」
言いながら、アレンの指が再びキトのネコミミをふにといじった。一層ぞわりと襲い来るその感覚にキトは思わず目を閉じる。
「キトに、俺の猫になってもらいたい、かな」
しかし直後にネコミミに……ではなく、耳に飛び込んできたその言葉にキトはばちりと目を開け「はっ?」と声を漏らす。見えたのは、やはり笑みを浮かべたままの幼馴染の姿。しかしながらその笑みはどこか穏やかに見えるようで、それでいて先ほどまでとは違う何かを孕んでいるようなその表情に、キトはそれ以上の言葉が出てこない。
「一日二日の間でいいから、俺を、癒してほしい」
「癒して、って……」
キトが困惑しているといったようにアレンの言葉を繰り返すと、ふとアレンの手が移動していくのがわかった。ネコミミから離れた手は優しく髪を撫で、それから頬、肩をするりと撫でるとキトの腰のあたりへのびていく。同時にアレンの体がキトへ覆いかぶさると、接近を拒むようにキトの両手が前へ出てアレンの胸元をぐいと押しのけようとする。しかしそんなわずかな抵抗も空しく、アレンは更に体を近づけるとキトの耳元……ネコミミの元にそっと唇を添えた。ぴりとしびれるような感覚に肩が跳ね、キトの口から思わず「ひゃ」と短い悲鳴が上がる。――ついでにやはりネコミミもぴくりと跳ねる――
「……いつものように、時間が解決する問題だとは思わない方がいい。それを治せるのは、俺の手にある薬だけだよ」
低く囁かれたそれはキトの鼓膜を震わせ、ネコミミに当たる吐息が頭の先からつま先までぞわりと駆け抜ける感覚を誘った。そのせいでアレンの言った内容は、キトの頭の中に入ってくるようで入ってこない。ええと、アレンは何と言っただろうか……。そう考えたところでキトの腰に伸びていたアレンの手が尾てい骨のあたりを優しく撫で、またキトの思考は奪われてしまう。アレンが「ちゃんとボブテイルになったな」とまた低く囁いたのは、やはりキトの耳には届かなかった。
「わ、わかった、わかったから……!」
「わかったって、何が?」
「えと、だから、言うとおりにする」
「言うとおり? 俺の何になってくれるって?」
アレンの動きをなんとか止めようとキトが精一杯口にした言葉は、次々に質問という名のラケットで弾き返されキトのコートに戻ってきてしまう。返ってくるその球は打ち返しやすいゆっくりとした大きく弧を描くロブなのだが、それをしたりと鋭いスマッシュで打ち返せばキトの完全な敗北が決定するというのは何と理不尽なのだろうか。
しかしぐぬぬと歯を食いしばるキトの前には、既に完全敗北への路しか示されていないのである。
「……ね、ねこ、アレンの猫になるから!」
敗北のスマッシュを決めたキトの「だから離れてえ……」という弱弱しい声を拾えばアレンはふっと微笑み、ゆっくりとキトから体を離すのだった。その姿をキトが恨めしげにきっと睨めばアレンは穏やかに微笑んだままこちらを見下ろし
「ありがとう」
などと言うではないか。
しかし「ばかアレン」や「脅したのはそっちのくせに」などの恨み言はなぜだかキトの胸の内に留まって出てこない。
それは、ありがとうと微笑んだアレンの表情が孕む感情に、キトがなんとなく気が付いてしまったからかもしれなかった。