「わ、うわあ!」
「わ、うわあ!」
その声がしたのと、キトが驚いて大きく肩を跳ねあげたのと、ヤルシペが冷静に扉の方を振り返ったのと、空き教室の扉が大きな音を立てて開かれたのはほぼ同時だった。
「キト……!」
入口に立つアレンが肩で息をしながら、苦しそうにキトの名を呼んだ。それに呼応するようにキトが小さくアレンの名を呟き、じっとその顔を見つめる。
どうして。
アレンに向けた眼差しに思わずこもったその感情は、キトとアレンの間に割り込んだヤルシペに遮られて届くことは無かった。
「よう、思ったよりも早かったな」
ヤルシペがアレンに向ってそう言う。キトからはヤルシペの背が見えるだけでその表情は見えないが、その声色からやはり人をあざけったような笑みを浮かべているのだろうと思った。対するアレンはまだ荒い息をしながら、キトが見たことの無いような厳しい表情でヤルシペを睨み付けていた。
「……俺に何かするのは構わない、でも、キトに何かするというんだったら、黙ってはいられない」
そんな表情でアレンが言ったその声もまたキトには聞き覚えのないものだった。誰が聞いても分かるほどに、怒りを露わにしている。そういうアレンを目の前にしたのは初めてで、そうでなくとも、キトはあんなに感情を露わにしたアレンの姿を見たことは無かった。
ヤルシペもまたそんなアレンの表情を目の当たりにするのは初めての事だったが、驚いたり動揺したりすることは無い。かといって愉快だと笑うことも無く、その顔から笑みをふっと無くすとその鋭い瞳でアレンをぎろりと睨み返した。
「それだけか?」
むしろ動揺したのはそう返されたアレンの方で、怒りの表情に、わずかな驚きの色が足された。
「黙っていられないってんならな、俺を殴り飛ばすぐらいしてみせろよ。普段は憎たらしいほどすかした態度のお前が、肩で息をするほど焦って駆け付けて、そんなに感情を露わにして憤るほど、大事な幼馴染なんだろうが」
いつの間にやら眉間に何本もしわを寄せたヤルシペにそうまくし立てられ、いよいよアレンの顔は驚きの色を濃くした。いや、それは驚きと言うよりもむしろ、困惑である。
ヤルシペのアレンに向けた表情といい言葉と言い、これではまるで叱られているようではないか。どうしてキトをさらった、先ほどまでこちらが怒りを向けていたはずの人間に叱られなくてはいけないのか……。
考えれば考えるほど、アレンの困惑は深まるばかりである。当然煽られた通りにヤルシペを殴り飛ばすことなど出来るはずもなく、アレンはただヤルシペの顔を見返して黙っているだけだった。
ヤルシペはそんなアレンの様子に呆れたといったようにため息をつくと、アレンに手を伸ばしてその胸倉をぐいと掴みあげた。
「お前にひとつ、教えてやるよ」
ぎろりと睨み付けるヤルシペの眼光はいよいよ鋭さを増し、アレンの眼球を突き刺すようだった。
「本当の幸福ってのはな、自分の手で、自分で望んで、手に入れるものだ。お前が本当に望んでるのは何か、よおく考えろ」
その言葉にアレンの記憶の片隅が刺激され、こめかみのあたりがチカと光る。『本当の幸福』、それはたしか、ヤルシペの前で口走ってしまった言葉だっただろうか。本当の幸福とは、いったい何だろう、と。わからないんだ、と、自分はたしか、そう言ったはずだ。
「それと、政略結婚ってのは貴族の特権だ。庶民如きが真似していいもんじゃねえんだよ」
アレンはヤルシペの言葉を噛み砕き、味わい、そうしてようやく飲み込むともう一度こめかみのあたりがチカと光った。
「じゃ、俺はお前の情けないツラが見れたから満足だ、帰る」
何かを言いたげに口を開いたアレンを制するようにヤルシペはそう言うと、アレンの胸倉から手を離した。そうしてアレンの横を過ぎると、アレンが開けっ放しにした扉をぴしゃりと閉めて出て行くのだった。
廊下に出た途端、ヤルシペの目には膝を抱えて座り込んだトムの姿が映る。
「おらトム、行くぞ」
「うあっ、は、はい……」
少々乱暴にその背中を叩いてそう促すと、トムは慌てて立ち上がってヤルシペの後に着いてきた。
ヤルシペがちらりと後ろ目に見たその姿はいつになく弱弱しく、顔を上げて歩けないほどに落ち込んでいる様子だ。そんなトムの姿にヤルシペは愉快そうに口の端をつりあげ、そして振り返るとトムの肩に腕を回しぐいと乱暴に引き寄せた。
「はは、まあまあ、落ち込むなって、お前にはヤルシペ家の手足に相応しい相手を用意してやるからよ」
「そ、そう言われましても……」
「お前はあれと違ってこっち側の人間なんだよ、諦めろ」
その言葉にトムが「うう」と唸って、それからずずと鼻をすする音がする。ヤルシペはそんなトムを促すように背中を叩くと、ゆっくりとしたその歩みに寄り添うように歩いていくのだった。
静寂が訪れた空き教室にはただ立ち尽くすアレンと、椅子に座ったままのキトが残されていた。
アレンがキトの方へ足を一歩踏み出した、その時だった。
「もう、やめてよ……!」
キトの小さな叫びが、部屋にこだました。アレンは二歩目を踏み出そうとしていた足をぴたりと止め、キトをじっと見つめる。その瞳は、不安げに揺れているようであった。
しかしアレンを見据えるキトはアレンの不安を思いやる余裕など無かった。それ以上に、この場に現れたアレンに対する複雑な感情がとめどなく湧き出て、ついにはこぼれて出て行く。
「何で助けになんか来るの、アレンは、ラドグールの家のお嬢様と結婚するから、だからこれきりにするって言ったんでしょ、自分で言ったこと守ってよ、助けになんか、来ないでよ!」
叫びながらキトの頭には、ああ違う、という言葉がよぎる。いいや、違うことなど無いのだけれど、アレンはラドグール家のお嬢様と結婚する、これは、違わない。違うのは、もっと、別の事で。
ぎゅうと、痛いほどに胸が締め付けられるのがわかる。
わかっている、わかって、いた。本当は、結婚の話なんて関係は無くて、いつか、こういう時は訪れるべきだったのだ。
いつまでも、幼馴染という関係でいられるはずなど無かった。アレンが好きだと、想いを告げることができなかったのは、いつかアレンが他の誰かと結婚することが決まっているからなどでは無い。そういうアレンの、迷惑になるからなどという理由でも無い。
もっと自分勝手で、独りよがりな、理由だ。
「……アレンが、助けに来たのは、わたしが大事な幼馴染だから? 妹みたいな、存在だから? そういう理由なら、本当に、もう、これきりにして」
胸の痛みにうつむいてしまったキトは、アレンの顔を見ないでそう言った。アレンが息をのむ音も、キトの耳には聞こえない。
怖かった。
想いを告げてしまえば、幼馴染でいることは出来ない。今でもその距離は遠いけれど、そうなるとまったく関係が断ちきれてしまうのだ。いつかはこういう時が訪れるべきだと、それはわかっていた。けれどそれは、とても怖いことだから。
ぎゅうと締め付ける胸の痛みは、恐怖を訴えているのかもしれない。しかし一度あふれ出したその想いは、止まらなかった。
「わたしは、わたしはアレンの事、お兄ちゃんみたいだなんて一度も思ったことない」
幼いキトがアレンに抱いたと思った恋心は、もしかすると本当は、恋に抱いた恋心だったかもしれない。けれど確かにそれは恋で、だからキトにとってアレンはずっと、恋をする相手なのだ。
「好き」
それはライクだなどと無粋なことは言わないでほしい、当然、ラブに決まっているのだから。
「アレンが好きなの、男の人として、好きなの」
あの笑顔を見たその日から、ずっと。
「だから、アレンがわたしのこと、そういう目で見れないなら、もうやめて、もう、優しくなんて、しないで、これきりに、これきりに……してよ」
消え入るような言葉。それが、こぼれ出た感情の最後の一滴だった。
アレンからの返答は無く、ただ自分の呼吸する音だけがやけにキトの耳につく。それから体が揺れている気がして、それがどくどくと響く鼓動のせいだとわかった時、キトは自分が酷く緊張していることに気が付いた。
同時に、ああ、と思う。
これで、今度こそ、本当に終わりだ。これでもう本当に、ただの幼馴染ではいられなくなる。けれど、これでいい気がした。結婚なんかを言い訳にした『これきり』ではなく、こういう『これきり』なら、きっと、本当に、諦めることができる。
ぎゅうと握った両手の向こう側に、アレンの膝が見えた。
「キト、ごめん」
聞こえたアレンの声に、キトは覚悟を決めるようにもう一度、両手を強く握り合わせた。
「ずっと、キトに甘えてた」
覚悟を決めたはずだったが、その言葉の続きを拒否するようにキトの胸がぎゅうと苦しくなる。
「父さんと母さんが家に居ないのも、聞き分けの良い子でいるのも、平気だった。父さんについて嫌味を言われることだって、父さんのために勉強するのだって、俺はずっと平気だった」
キトは、うそつき、と心の中でつぶやく。
「キトには、平気に見えてなかったかもしれないけれど、平気だと思えてたよ、俺は」
その言葉に自分の心が見透かされたのかと思って、キトは思わず顔を上げてアレンの顔を見た。
椅子に座るキトの前に膝をついたアレンは、笑ってはいなかった。しかしその表情には先ほどまでの焦りも、不安も無い。ただ穏やかな瞳で、じっとキトを見つめていた。
「それは、キトが居たから、キトが居てくれたから、平気だったって、どうしてこんなになるまで、気が付かなかったんだろう」
アレンがもう一度「ごめん」と言ったその顔から、キトは目を逸らすことができなかった。それはキトの胸をぎゅうと締め付けて、それなのにどうしようもないほど目を逸らすことができない表情だったから。決して笑ってはいないその顔は、キトが恋をした表情ではなかった。けれど、確かに同じようにキトを苦しめる。
「だから、俺は、キトが居ないと、ダメだよ」
だからその表情から繰り出されるその言葉も、キトを酷く苦しめる言葉だった。
「妹みたいだからじゃない、幼馴染だからでもない、キトが、俺の大事な、女性だから」
ああ、違う。
「俺も、俺だって、キトが好きだよ、一人の女性として、キトが好き」
違う。
こんな、こんな結末を望んでいたんじゃない。
そう思う心とは裏腹に、胸のあたりからじわりと熱が広がるのがわかった。その熱はあっという間に全身を侵していって、耳がかあと熱くなる。こんなはずじゃないと思おうとする気持ちを嘲笑うかのように、キトの体はすでに幸福を感じているのだ。気を抜けばすぐに体に主導権を取って変わられ、この胸の痛みだって幸福へと昇華されてしまうだろう。そうなる前にと、キトは必死に言葉を絞り出した。
「う、うそだ」
「嘘じゃないよ、キト」
「でも、だって、アレンのけっこんが……」
「縁談はきちんと断るよ、ヤルシペの言うとおり、庶民に政略結婚は不釣り合いだから」
それでも諦め悪く「でも」やら「だって」を繰り返そうとするキトの手に、そっとアレンの手が重ねられた。
「ねえキト、先に愛の告白をしてくれたのは、キトの方だろ?」
そう言ったアレンの顔にはいつの間にか少しの笑みがあって、それは、キトの心に優しいとどめを刺した。
「アレン、やだ、けっこんしちゃ、やだよう……」
枯れたと思っていた泉がもう一度いっぱいの感情を湛えて、ついには収まりきらずにあふれ出ていく。
小さな子供がわがままを言うように、キトの口から我慢していた言葉がこぼれ落ちた。口からこぼれるだけでは足りず、目からもあふれ出るそれをアレンの手が優しく拭い去る。
「アレンが、他の人と、結婚しちゃうのはやだ」
「うん、大丈夫だよキト、俺はキトの他の人とは結婚したりしないよ」
「アレンが、遠くにいっちゃうみたいで、寂しかった」
「うん、俺は、遠くには行かないよ」
「それから、それからね」
大きく息を吸い込んだキトに、アレンは優しく続きを促すように「うん」と言う。
「アレンが、悲しい顔するのは、やだ」
そうしてキトが続けた言葉にアレンは少しだけ驚いたように目を見開いて、それから、至極嬉しそうに笑みを浮かべた。
「うん、キトが傍にいてくれたら、俺は、何だって平気だよ」
キトの涙を拭ったアレンの手は、しっとりと濡れていた。キトの手がアレンにすがるように動いたのに気付くと、アレンは頬から手を離してぎゅっとその手を握る。アレンの手が濡れているのがキトの手に伝わった。しかしそれよりも強く伝わったのは、アレンの熱だった。
同時にキトはようやくアレンがしっかりと笑っていることに気が付いて、つられるようにその顔に笑みが満ちる。
「ねえキト」
優しく名前を呼ばれて、キトは小さく「うん」と返事をした。
「ありがとう」
そう言ったアレンの笑顔は、確かにキトが恋をしたそれで。ぎゅうと胸を締め付けられる痛みに幸福を感じながら、キトは「こっちこそ」と返すのだった。