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「あの……ちょっと、いいかな」

「あの……ちょっと、いいかな」


 放課後になりたての教室でキトにかけられたのは、なんとも弱弱しい声だった。


 ヤルシペに「今日は遅いから明日だな」と言われ、ミルクコーヒーの代金を払うことも許されず、挙句の果てには丁寧に送り届けられてしまった宿舎の前で「逃げるなよ」と念を押されて別れたのが昨日の事である。そうして迎えた翌日である今日、キトは朝からいつヤルシペに首根っこを掴まれるかとびくびくしながら一日を過ごしていたのだった。だというのに一日を通してヤルシペがキトに接触してくることは無く、それどころかランチに訪れた食堂や教室移動の合間に訪れた図書館近くの廊下でも、その姿すら見かけることなく、キトは放課後を迎えることになったのである。

 逃げるなよと言っておきながら一体何なのだ、いやでも、このまま何も無いのならそれが一番いいじゃないか、いいや、でも、もしかすると放課後が本番なのでは……。

 冒頭の声をかけられたのは、キトがそんな葛藤に苦しんでいる時であった。



「え? あ、トムくん?」



 呼びかけから一呼吸遅れて顔を上げたキトの目に見えたのは、眉尻を下げていつになく気弱そうな表情をしたトム。キトが「何?」と聞いても「えっと……」と言うとそこで言葉を止めてしまい、中々本題を切り出そうとしない。気弱で知られたトムだが、こうも煮え切らないのは少し珍しいことだ。そんなトムの態度にキトが抱いたのは苛立ちではなく、懸念だった。



「どしたの? なんかあった?」

「あ、えっと」



 キトが心配げにそう聞いても、トムはやはりそう言って気まずそうに俯いてしまった。それでも必死に言い出そうとしているのを察してキトはトムの次の言葉を待つ。トムは少しの間黙った後、意を決したようにその重たい口を開くのだった。



「あの、話したいことがあって、ちょっと時間をもらえないかな」



 ついに言われたその言葉にキトが「えっ」と驚き、隣にいたルームメイトが思わず「ひゅう」と口にした。次いで彼女は目を丸くしたキトの肩を叩くとニヤニヤしながら



「まあまあ、ちょっとと言わずじっくり話でもしてきなよ、あたしは先に帰ってるからさ」



 と言う。キトはルームメイトのニヤニヤした顔の意味が分からず困惑するが、彼女はそれに構わず宣言した通りにさっさと席を立つと「そんじゃ」と言って教室の扉の方へと歩いていってしまう。キトが呆然とその背中を見送っていると、トムが「あの……」と控えめに呼びかける声が聞こえた。



「あ、ごめんごめん、えっと、話があるんだったよね、うん、何?」

「それは、その、ここではちょっと……」



 トムは気まずそうにそう言うと、やはり不安げな声で「ついてきてくれるかな」と続けた。キトはそんなトムの態度を不思議に思いながらも、トムを安心させようと努めて笑顔で「わかった」と答える。トムの眉尻は、不安げに下がったままだった。






 歩き出したトムの向かった先は学園の外ではなく、校舎の外れの方だった。

 次第に人気が無くなるのを感じてキトの胸には一抹の不安がよぎるが、先導を務めるのがトムであるという事実がそのわずかな不安をかき消していく。しかしながらそのトムの背中が不安とも何ともつかない感情を駄々もれにしているので、やはりキトの心の内には心配という不安が湧き上がって残るのだった。

 そうして不安に耐えかねたキトがトムに声をかけようかと思ったその時。



「あ、あの」



 トムが突然立ち止まり、振り返ると会話の口火を切るのだった。



「これからすること、余計なお世話かもしれないけど、でも、やっぱりキトさんの悲しんでる顔は、見ていられないから……」



 そう言ったトムの表情は何とも必死で、気弱ながら誠実なトムの心からの言葉であることが伝わってくるではないか。その一方で『余計なお世話かもしれない』とはどういうことかとキトは内心首をかしげるが、それだけ言うと再び不安が駄々もれである背中を向けてしまったトムにそれを聞けるはずもなく、キトはその背中にただ一言「ありがとう」と返すだけにした。







 キトがトムの言葉の意味を理解して、問い詰めなかったことを後悔するのはそれからすぐのことだった。




「遅いぞトム、どうせうじうじして中々連れ出せなかったんだろ」



 たどり着いた空き教室らしい部屋の扉の前で「まあきちんと連れてきただけ上出来だと言っておこうか」とトムに告げるその姿に、キトはひゅっと息をのむと反射的に逃げ出そうとする。



「おっと」



 しかしすぐさま伸びてきた手に腕をがしりと掴まれ、あっさり逃亡を阻まれてしまう。



「逃げるなよ」



 そうしてじっとこちらを見据えたヤルシペにそう言われ、キトはその手を振り払うことも出来ずその場に立ち尽くした。ヤルシペはそんなキトの様子に逃亡の意志を無くしたと確信すると、掴んだ腕をぐいと引いて教室の中へと促すのだった。


 ヤルシペに手を引かれて足を踏み入れた空き教室には数脚の椅子がまばらに並べられ、その内一脚には既に座る人間がいた。



「バーマン、頼んだ」



 ヤルシペにそう告げられ、その男子生徒は短く返事をして立ち上がった。「へえへえ」とぞんざいな返事をしたあたりヤルシペとは対等な関係らしい彼は次いで「あんまり乗り気じゃねえんだけどなあ」とぼやく。それでもヤルシペに再度「頼むって」と言われると「仕方ねえなあ」と返事して、教室を出ていった。

 キトはヤルシペに「まあ座れよ」と言われ、ようやく自らの腕が解放されていることに気が付く。それと同時に思考が再起動を始めた。

 扉の方へ視線を向けると肩をびくりと震わせてさっと視線をそらしてしまうトムの姿が見え、キトの頭に何か納得したような、ああ、という言葉が浮かび上がる。


 つまり、日ごろトムを苦しめている『先輩』とはヤルシペのことだったのだ。それはヤルシペがトムと名前で呼んだことや、今トムに「お前は外で見張ってろ」と命令を下し、更にはトムがそれに従っていることから明らかである。

 そして何らかの形でトムとキトが親しいことを知ったヤルシペが、キトに警戒心を抱かせぬようトムに誘導役を命じたのだろう。とすればトムの『余計なお世話かもしれない』という言葉にも納得がいくというもので、キトは内心でため息をつきながらゆっくりと椅子に腰を下ろした。

 言ってしまえば、トムはヤルシペの共犯者なのだ。誘導役を命じたのはヤルシペだろう。しかしここに来るまでに聞いたトムの言葉からしてそれは脅されたから従ったようではなく、確かにトムの意志で従ったことが伺える。とはいえトムの人柄を知っているキトにトムを責めるつもりはない。責めるつもりはないのだが、キトは内心で余計なお世話『かもしれない』じゃなくてこれは完全に余計なお世話『だ』……と思わずにはいられなかった。



「……どうするつもりなんですか」



 キトが不服でいっぱいだという感情を包み隠さない言い方で問えば、自分も椅子に腰かけたヤルシペはその口元に笑みを浮かべた。



「今バーマンには、あいつの部屋に手紙を差し込みに行ってもらった。あいつは放課後にはいつも寮の部屋に閉じこもってるからな」



 あいつとは誰かなどとは聞くまでも無い。アレンの事だ。アレンの存在が話に出てくるとキトはますます不服といったように唇を尖らせた。



「手紙の内容は、お前の大切な幼馴染は預かった、無事に返してほしかったらこの部屋に来い、ってな。あいつがどれだけ焦った顔で現れるか、楽しみだなあ」



 そう言ってはははと声を上げて笑うヤルシペの横顔をキトは恨めしげに睨みつける。しかしヤルシペは気づいていないのか、或いは気づいているが全く意に介していないのか愉快そうに笑うばかりだ。その姿にやがて空しさを感じて、キトはヤルシペから視線をそらすと小さくため息をついた。



「……アレンは、来ませんよ」



 そうしてキトが呟いた言葉に、ヤルシペの笑い声がぴたと止まった。



「アレンは、自分の立場わかってるから、それに、ヤルシペさんが本当に酷いことするとは思ってないだろうし、そんな、危機感なんて、無いですよ……」



 そう言って俯いてしまったキトの耳に、ふうと息をついた音が聞こえる。それから「俺も舐められたもんだな」と呟くように吐き捨てるヤルシペの声がした。それから布の擦れる音がして、カツンという足音にキトは顔を上げる。



「別に、その酷いこととやらを、してやってもいいんだぞ」



 見上げた先には、高い位置から威圧的にこちらを見下ろすヤルシペの姿。その瞳は冷たく光っているように見えて、キトは小さく息をのんだ。それからヤルシペの手が伸びてきたと思うとその手はキトの頬に添えられる。ヤルシペの手は冷たく、ひやりとした感触がキトの頬を襲った。

 不思議と恐怖という感情は湧き上がらず、しかし近づいてくるヤルシペの顔から目を逸らすこともできずにただじっと見つめるうちに、キトはふっとあることに気が付いた。

 ああそうだ。冷たく光っているように見えるあの目は見覚えがあって。それは、つまり。




「……なんだか、ヤルシペさんとアレンは、似てますね」



 気付けばキトの口からはそんな言葉が出て、ヤルシペが「は?」と顔をしかめる。キトは一瞬あっと思うが、その後に焦ることは無くキトの口からは次の言葉がするりと出ていく。



「本音を隠すのが上手いようで、でも、少しだけ下手な目をしてます」



 その言葉にヤルシペがわずかに目を見開くのが見え、それからまたぐっと顔をしかめたかと思うと「うるさい」の言葉と共に頬をぐにいとつねられた。たいして痛くはなかったが、何してくれるんですかという気持ちを訴えるためにキトは「いひゃいんでふけど」と言って睨み付ける。

 しかしそれでもヤルシペの手はキトの頬から離れてはいかず、むしろ先ほどよりも強い力で頬をぐいと引っ張られてしまい、キトの口からは思わず痛さと悔しさを訴えるように「ふぐう」という唸り声がもれるのだった。








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