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8. 領地にて2

 半ばその場しのぎに取り付けた約束だったが、オリヴィアとの遠駆けを思いの外楽しんでいる自分がいた。

 これまで付き合いのあった女性達には、媚びを含んだ甘えた態度で迫られるか、最初から割り切った関係を求められるかだったので、こうしてただ共にあって目の前の光景を愛でながら時を過ごしたことなどなかった。

 媚びや駆け引きの必要がないというのはこんなにも気を楽にするものなのか。

 それに彼女も王都にいる時より心を開いてくれているように見える。領地にいる安心感がそうさせているのだろう。いつも弱さを見せまいと張り詰めたような顔ばかりしているオリヴィアの、作られた顔の向こうにある素の表情を垣間見た気がして、自然と何度もその瞳に魅入っていた。


 いつか、満面の笑みを見てみたいと思った。その瞳がキラキラと光を湛えて輝く様を、見たい。

 それはこれまでどの女性にも感じたことのなかった感情だった。





 陽が翳ってきたからと帰り支度を始めて間も無く、雨が降り始めた。夕立ならば少し待てばすぐに止むだろう、そう考えてオリヴィアとそのまま丘の木陰で雨宿りしていたが、一向に雨足は弱くなる気配がなかった。空の色も炭のような黒を帯びて来て、徐々にニ人の視界を奪っていく。

 これでは屋敷に戻れなくなる。雨宿りは止めにして、それぞれの馬に飛び乗る。悪天候の中を屋敷の方向へと駆けた。


 暫くひたすら前を向いて走っていたが、徐々に視界からオリヴィアが外れていくのがわかって、ちらちらと隣を見る。最初は並走していたオリヴィアの馬の速度が落ちている。馬そのものの体力も落ちているようだし、それを扱うオリヴィアがこの雨と風で疲れてきているのだろう。馬を制御しきれていない。

 この様子ではそのうち落馬するかもしれない。そうなってからでは遅い。


 「オリヴィア、一度止まるんだ。貴女ではその馬を御して屋敷まで辿り着くのは難しい」


 叩きつける勢いの雨の中声を張り上げる。返すオリヴィアの声も叫ぶようだ。


 「大丈夫です。ここは領地ですもの、何とかなります」

 「強がっている場合じゃない。貴女も、貴女を乗せるその馬も限界だろう。僕の馬に乗れ。ジェラルド、オリヴィアの馬を連れて先に行け」

 「いいえ、その必要はありません」


 彼女がそう突っぱねた時だった。折悪しく彼女の馬が泥濘に脚を取られてよろめいた。オリヴィアも不意に身体を揺さぶられて短く悲鳴をあげる。フレッドはすかさず自分の馬を彼女の馬にぴたりとつけて、馬上のオリヴィアの腰に腕を回して攫うように彼女の馬から引き離し、自分の前にぐいと横抱きに引き寄せた。


 「やっ」

 「いいから動かないで。振り落とされる。僕に掴まって」


 自分の前で横向きに座っても尚身を捩るオリヴィアを睨みつけ、その腕を取って無理矢理自分の腰に手を回させると、彼女がびくりと身体を緊張させたのがわかった。

 だが、ぐずぐずしている暇はない。辺りが真っ暗になれば、この雨では屋敷に帰り着くのは極めて難しくなる。加えて日中は涼やかな気候でも、この時期はもう夜は寒くなる。そんな中ずぶ濡れでいたらどうなるか……早くなんとかしなければならなかった。

 しかも、先ほどからオリヴィアが小刻みに震えているのが伝わっている。自分に触れているからだろうかと思ったが、それにしてはおかしい。これ位の接触ならダンスの間に何度もあった筈だ。

 そう思ってオリヴィアの顔を覗き込めば、唇から血の気が引いて戦慄わなないていた。顔も真っ青になっている。見下ろした自分に縋るように彼女が寒い、と囁きぎゅっとフレッドにしがみついた。


 「オリヴィア、この近くに何処か身体を休める場所は?」

 「……狩猟小屋なら左手の森の中にあります……」

 「案内できるかい?その様子では今夜は屋敷に戻るのは難しい。一晩そこで過ごすしかない」

 「……わかりました、大丈夫……」


 声も震えている。早く暖めてやらなければならない。


 「ジェラルド、悪いがその馬と共に先に屋敷に戻れ。それから明日の朝一番で迎えを寄越してくれ。頼む」

 「わかりました、フレッド様もお気を付けて」

 「ああ」


 ジェラルドと別れ、森の中へと馬を進める。夜の森は別の意味で命取りだ。早く小屋に辿り着かないと、と焦ったが、幸いにもそう奥まで行かないうちに目的の小屋は見つかった。


 オリヴィアの震えは先程より大きくなっており、フレッドは寒さで彼にしがみつく彼女を横抱きに抱え、鍵のかかった扉を蹴破って中に入った。

 中はそれほど広くはない。簡易ベッドが1つと、小型の暖炉、湯を沸かせる程度の調理場。食料棚と弾薬庫には鍵が掛かっている。とりあえず雨をしのげる場所に避難できてほっとしながら、オリヴィアを簡易ベッドに横たえようとしてはたと気付いた。


 濡れた服を脱がさなければならない。でないとますます彼女の体温が奪われてしまう。

 躊躇いは勿論あった。あの約束がなくても、淑女の衣服を同意なしに剥ぐのは紳士としてあるまじき行為だ。そこに疚しい気持ちがないとしても。

 だが苦しそうに喘いでいる彼女を見て覚悟を決めた。婚約者なのだからいいだろう、仕方ないじゃないか、と誰が聞くわけでもない言い訳を心の中で繰り返す。


 ブーツを脱がせ、水を含んで重みを増したコートを取り去る。その下のサテンのブラウスが濡れて肌に貼り付き、身体の線を露わにしていた。(くるぶし)までかかるスカートが肌にまとわりついている。フレッドは見入りそうになる衝動と戦いながら、努めて平静にブラウスのボタンを外し、スカートを脱がせた。

 ああ、やばいな……。心の中で降参と手を上げそうになった。これは(まず)い。理性が弱々しく隅に追いやられそうになるのを必死で引き留める。


 己の中の欲望を必死に抑え込み、オリヴィアの身体を毛布で包み込んでベッドに横たえる。流石に下着を脱がせることまでは出来なかった。小屋にあったタオルで水気を拭うに留める。その動きに合わせて動く柔らかな膨らみが彼を誘っているようにも見えて、これは駄目だと思った。

 陥落する。

 結婚しても決して手に入らない身体だというのに。


 どうせ手に入らないなら今奪ってしまってもいいじゃないか、と悪魔が心の中で囁いた。今触れても触れなくても結果は同じだろう、ならば触れてしまえ。力なくベッドに横たわるオリヴィアの、その唇をあの日のように蹂躙し、その身体ごと自分のものにしてしまえ。今なら、今なら、彼女は抵抗出来ない。


 そんな凶暴なほどの誘惑を押し留めたのは、オリヴィアの苦しげな表情だった。浅い息を繰り返す彼女の額に手を当てると、熱が上がっている。今夜はこのまま下がらないかもしれない。辛そうなその顔を見ていると、荒ぶっていた男の本能が少しずつ理性を取り戻す。

 結果は同じではない。きっと取り返しのつかないことになるだろう。自分もいつもと違う状況に高ぶっただけだ。フレッドは瞬時自分の中に湧き上がった衝動を吐き出すように、大きな溜息をついた。


 最後に、少しだけ彼女の頭を浮かせて結い上げられている髪をそっと解くと、フレッドはオリヴィアから視線を引き剥がす。自身も濡れた服を脱いで暖炉に薪をくべた。


 薪が爆ぜる音が雨音に混じり、静かに二人の小屋を暖め始めた。









 意識がゆっくりと戻ってきて、促されるように目を開けると見慣れた寝室にいた。

 レースのカーテンが窓辺でふわりと揺れて、気持ちの良い風を運んで来てくれている。カーテン越しに低い空から届く橙の残照が部屋内を照らしていて、あんなに雨が降ったのに、とオリヴィアは不思議に思った。

 そこではたと気付く。何故いつもの部屋に寝ているんだろう。あれ、と記憶を巡らせるが、頭が鈍く痛みなんだかぼんやりとしか思い出せない。

 寒さに身を寄せた胸の暖かさと規則正しい鼓動にひどく安心したことは覚えているのだが……。

 とそこまで辿って、がばりと跳ね起きる。跳ね起きた拍子に一際強い頭痛がしてオリヴィアは顔を顰めた。


 そうだった、そうだった。ああどうしよう。ええと、あれは自分から触れたことになるだろうか、いや、先にフレッドが腰に腕を回したのだから私からではないはず、などと考えてまた顔に熱が昇り、思わず両手で顔を覆った。

 フレッドに抱き寄せられた。いや、抱き寄せられたなんて甘いものではない。あれはあの場では仕方のないことだったし、彼とて好き好んであんなことをした訳ではないだろう。

 仕方なかったことだ、と今度はそう自分に言い聞かせるが、それによって赤かった筈の顔は今度は青ざめてしまった。


 きっと酷く迷惑を掛けてしまっただろう。フレッドの馬上で辛うじて狩猟小屋まで案内したところまでは覚えているが、それ以降の記憶が全くない。でも今自室にいるということは、フレッドが屋敷まで連れ帰ってくれたのだろう。そもそも、フレッドの馬に移らなければならない羽目になったのも、体力のなさが原因だ。オリヴィアは自己嫌悪に陥った。

 丁度その時、ノックの音と共にエマが入ってきた。


 「お嬢様、目が覚めたんですね。良かったです。お加減は如何ですか?」

 「身体の方は悪くないわ……」

 「心配しましたよ。フレッド様の従者の方だけが帰ってきて、貴女は熱を出してフレッド様と足止めをくっていると言うのですもの。お嬢様に何かあったらどうしようかと気が気ではありませんでした」

 「心配掛けてごめんなさい」

 「肺炎にならなくて本当に良かったですね。フレッド様のご判断が適切だったのでしょう。お嬢様、喉が渇いていらっしゃるのではございませんか?まずはお水を飲んで下さいな。今何か口にする物をお持ちしますね。お腹は空いてらっしゃいますか?」

 「……そうね、少しなら食べれそう」

 「そうでしょうとも。もう夕方ですからね。さあ、もう少し眠ってください。その間に何か用意します」


 差し出されたグラスを受け取り、水を飲む。酷く渇いていた喉を滑る冷たい感触が気持ち良かった。すぐに飲み干したオリヴィアに、もう一度横になるようエマがそっと促した。オリヴィアは慌てて尋ねた。


 「あの、フレッド様は?」


 エマが先ほどまでのにこやかな表情を消して言い難そうに口篭った。もしかして、彼も体調を崩したのだろうかと冷やりとする。エマが申し訳なさそうに口を開いた。


 「……フレッド様はお帰りになりました」

 「えっ」

 「お嬢様と共に屋敷に戻られた後、身支度を整えてすぐにお帰りになられたのです。客人がいては私達がオリヴィア様の看病に専念出来ないだろうと仰って」

 「そんな」

 「私共もお引き留めしたのですが、あっという間に出て行かれてしまい……すみません」

 「そう……」


 オリヴィアは俯いた。やはり手間のかかる女だと思われたのだろう。わかってはいたことだが、御礼を言う間も無く行ってしまったと聞いて胸がちくりと痛む。


 「フレッド様より伝言をお預かりしてますよ。済まなかったと」

 「え?」

 「あの方は御自分を責めておられるようでした。旦那様にも、お嬢様をこのような目に合わせて申し訳ないと仰って……旦那様はそんな事はないとお答えになったのですけど」

 「……」

 「お嬢様を大切に思ってくださっているのですね。この婚姻が決まった時には、爵位を継げない方へ嫁ぐなどと思いましたが……。僭越ながらお嬢様の結婚相手があの方で良かったと、使用人は皆そう思っているんですよ」

 「そんなこと、」


 ない、と続けようとしたがその先を言えずに口を噤む。


 「では一度失礼しますね。また後ほどお食事をお持ちします。ゆっくりお休みくださいませ」


 パタンとドアが静かに閉まって、オリヴィアはまた思考の波に溺れそうになる。

 面倒な女だと思われたと思っていた。だからこそ、自分に会わずに帰ったのだろうと。だけど先程のエマの話では、オリヴィアを責めているわけではなさそうだった。自分が悪かったと。じゃあどうしてすぐに帰ったんだろう。

 下がりきっていない熱のある頭ではまともな答えは導けそうになかった。そもそも、挨拶やダンス以上の接触にはどうしたって怯んでしまう自分が、あの時はただ抱き寄せられた胸の暖かさだけを感じた理由にも思い至らないまま、オリヴィアはまた温い眠りへと落ちていった。

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