7. 領地にて1
「お嬢様、朝からずっとそわそわしてらっしゃいますね。少し落ち着かれてはいかがですか。フレッド様はもう間もなくお着きになるはずですから」
領地を案内する約束の日の前日。朝からずっと気もそぞろな様子のオリヴィアに、午後のお茶にとティーセットを持って部屋に入ったエマが苦笑した。
テーブルには読みかけの本が開いたまま、傍には刺繍をしようと針を刺した布が置かれたままだ。どちらも集中出来できず、先程から何度も窓の外を繰り返し眺めている。
「違うわよ、エマ。フレッド様を待っていて落ち着かないのではないわよ」
「ではお嬢様は先程から何をお待ちなのですか?」
軽く睨みつけて反論するが、エマは笑うばかりだ。
何を待っているのだろう。フレッドを?そうなのだろうか。そうではないと思う。そもそも何かを待っているのだろうか。でもじゃあ何故こんなに心がざわざわするのか、自分でもよく分からない。
答えられなくて口を噤んだオリヴィアを、エマが何を勘違いしたのか微笑ましく見守った。
「ハーブティーをお持ちしました。気分を落ち着かせる効果があるんですよ」
さあ、お座りくださいな、と窓辺に立っていたオリヴィアは促されて一人掛けのソファに腰を下ろした。渡されたティーカップから立ち昇る芳香に心が徐々に凪いでいく。
フレッドは今日、屋敷に到着する予定である。その後身体を休めてから、明日の朝にそれぞれの馬に乗り、領地を案内する予定になっている。
朝から落ち着かないのは……恐らく、甘い感情からではなくて怖いからだ、と思う。幼い頃から共に過ごしてきた弟や従兄、それから老齢の使用人などオリヴィアが怯えずに接することができる相手は限られていて、婚約者とはいえフレッドはそういった相手とは全く違う存在だ。
だからどう接して良いかわからない。わからないから心がざわめく。
これが社交界ならオリヴィアも対処の仕方をわかっている。淑女の微笑みに扇子を使えば、やんわりと相手を退けることが出来る。ダンスの間はひたすらダンスに集中する。そうして領地に戻れば安心出来る人間に囲まれて過ごすことが出来る。
父のことは別だが、それでも父が直接自分を脅かすことはないので、その場をやり過ごしさえすればいい。
だが、フレッドはそうではない。直接脅かすようなことはあの約束があるからもうないとは思うが、それでもやはり他人であるというだけで不安になる。
自意識過剰なのだろうとも思うが、怖いものは怖いのだ。
フレッドに来て欲しくない、でも来て欲しい気持ちがないわけでもない。そんな自分の心を持て余しながら、オリヴィアはハーブティーに口を付けた。自然と頰が緩んだ。
「美味しいわ……林檎のような香りがするわね。ありがとう」
「お嬢様はそうやって笑顔でいらっしゃる時が一番素敵ですわ」
エマが頬を緩めて言った。その時、階段を軽やかに昇ってくる音がして、コンコンとオリヴィアの部屋のドアがノックされた。エマが扉を開けると、弟のアランが入ってきた。
「姉さん、義兄さんがお越しになりましたよ」
「まだ貴方の義兄さんではないわよ。そう、本当にいらしたのね……」
「何を言ってるんですか、約束されたんでしょう?今、デリスが応対してますよ。応接間にお通ししてる筈ですから、早く行って差し上げないと」
「そんなに急がなくても大丈夫よ」
「婚約者なのに。……義兄さんは優しい方ですね。愛馬に触らせてくれましたよ。リリスという名前なんですって」
「まあ、アラン。もうあの方とお話ししたの?粗相はなかったでしょうね。アランはいつまで屋敷にいるの?」
アランは今年十四歳になった。他の貴族の子息と同様に寄宿学校に通っているため、屋敷に帰って来るのは休暇の期間だけだ。フレッドが訪問したこの日は、丁度収穫時期の休暇中なのだ。
「収穫祭が終わればすぐ戻るよ。今回は丁度良いタイミングだったな。義兄さんには会いたいと思っていたから」
本当に義兄になるかはまだわからないわよ。そう心の中でだけ呟いて苦笑する。
「それは良かったわね」
「明日馬でお出掛けされるのでしょう?僕も行きたいとお願いしたんだけど」
「それはいいわね、アランも来てくれればいいわ」
「でも義兄さんには断られてしまいました」
一瞬、アランがいればこの緊張が和らぐと思ったのに、あっさり却下されたと知ってまた憂鬱になる。
「まずは姉さんと二人で話がしたいのだそうです。義兄さんはなかなか情熱的ですね」
アランは意味ありげに微笑むと、義兄さんがお待ちかねですよ、とオリヴィアの背をぐいぐいと押した。情熱的とは想う相手に使う言葉だろう。今の二人にこれほど相応しくない言葉はない。オリヴィアはフレッドの薄い笑みと冴えた眼差しを思い返した。この前偶然見てしまった、愛しさを滲ませた表情も。心の中でその二つの落差に溜息をついて、オリヴィアはフレッドに対峙する心の準備もないままに、そのまま応接間へと促された。
*
翌日。
オリヴィアの気分とは反対に、秋の空は気持ちよく晴れ渡っていた。馬上で感じる風も心地よい。すぐ隣を走るフレッドも気持ちよさそうに見える。
結局昨日はフレッドとは挨拶程度の会話しかしていない。フレッドの到着後間も無く、父も客人を迎える為に帰ってきたからだ。晩餐の時も当たり障りのない話をするに留まり、その後はアランも交えてどうやら男同士で話していたみたいだ。誘いを受けたのは自分なのに碌に応対もせず、失礼な女だと思われたかもしれない……そう思うと申し訳なかったが、ほっとしたのも事実だ。
朝もそんな調子で、ぐずぐずと起きるのを躊躇い、やっと覚悟を決めて支度をしたのはつい先程。もう昼と言っても良い時間だった。
領地の端まで行くならあまりゆっくりしていられない。季節が冬に近づくにつれ陽が落ちるのも早くなってきている。オリヴィアは軽くフルーツだけを摘まんで、フレッドと彼の従者であるジェラルドと共に出発したのだった。
「さすが、フリークスの領地は広いな」
「広いだけで、何もないでしょう。王都のような華やかさもないし、田舎よ」
ニ頭の馬首を並べ、心持ちゆっくりと走るその視界を流れていくのは広大な麦畑だ。もうすぐ収穫を控えているため、その穂は秋の陽の光を浴びて金に輝いている。隣でフレッドが感嘆の溜息を漏らした。
「でも、私は此処が好きだわ。……この丘を登ったところに開けた場所があって、そこから領地を見渡せるの。遅くなったけどそこでお昼にしましょう」
丘の上までなだらかな斜面を登っていく。さほど険しい道ではないものの、オリヴィアの馬はともかく、初めてこの道を走るフレッド達の馬も難なく後をついてきて、きっと鍛えられた馬なのだろうとオリヴィアは感心した。
見晴らしの良い場所まで彼らを案内すると、後ろに控えていたジェラルドが手早く布を敷き、丘の上の木陰でささやかなピクニックが始まる。パンとハム、チーズに紅茶、という簡素なものだが、ジェラルドしか連れて来なかったのだから仕方がない。
それでも充分屋外で口にするものは何でも美味しく感じられて、オリヴィアは眼を細めた。少し肌寒い空気に熱い紅茶が丁度良い。
だがその様子をフレッドがじっと見ていることに気付いてオリヴィアは途端に居た堪れない気分になった。
「何か?」
「いえ、貴女が随分とリラックスしているように見えたのでつい。昨日から僕を避けておられるようだったので、嫌われたのかと思っていましたよ」
「そのようなことは……すみません。避けている訳ではなかったのですが」
「いいんですよ。今は楽しそうにしてらっしゃるからほっとしました」
フレッドが微かに笑ったように見えて、オリヴィアはどきりとした。フレッドの方こそ、此処では寛いでいるように感じられたのだ。何故だかそんなことに気付いた自分に狼狽えて、オリヴィアは視線を馬の方に向けると話題を変えた。
「リリスという名前なんですね」
「え?ああ、弟君から聞きましたか。そう、こいつは雌馬なんですよ。だからか女性よりは男性が好きでね。弟君のことを気に入ったようですよ」
フレッドは傍らの愛馬の方を見ながら笑った。その笑いさえ、社交界で見る笑いとは違う気がして戸惑う。
「では私は駄目かしら」
「そうだな……、リリスは女性には嫉妬するから難しいかもしれない」
「まるで恋人のようですね」
「全くだ。しかも僕が珍しく女性とニ人でいるものだから、さっきから機嫌が悪い」
フレッドは軽く笑い声を立てて立ち上がり、愛馬の元に近づく。その後ろ姿を眺めながらオリヴィアは先程のフレッドの言葉を反芻していた。
珍しく女性とニ人でいる。
それが、本当にそうなのか、リリスの前で女性とニ人になったことがないだけなのか判別が付かず束の間悶々とする。そんな自分を振り切るように、フレッドに付いて彼の愛馬の前に立った。
「改めまして、こんにちは。オリヴィアといいます。此処まで来てくれてありがとう」
相手が彼の恋人を自負する女性だと聞けば、尚更きちんとした挨拶は必要だろう。今日はドレスこそ着ていないが、首元にフリルの付いたサテンの白いブラウスに踝まで届くベージュのスカート 、それからスカートと同色のコート、コートの前は馬に乗るため裾が大きく開くようになっており足元は茶色いブーツという姿だ。首元のフリルの下には、ブラックオニキスの台座に施されたシェルカメオのブローチを飾っている。スカートの裾をつまんで淑女の礼をするとリリスが軽く嘶いた。フレッドに、触っても良いかと聞くと、勿論と返されたので、そっとリリスを撫でてみる。その様子をフレッドが目を細めてじっと眺めていた。
フレッドの愛馬に嫌がられなかったことにほっとして、更に何度も撫でながら、フレッドが自分のことを婚約者だと紹介しなかったことが引っ掛かっていた。
リリスもだから大人しく撫でさせてくれているのかも。そんなことまで考えてしまい、馬相手に何を考えているんだろうと少し泣き笑いみたいな表情になってしまった時。
「どうかしました?」
フレッドが探るようにオリヴィアの瞳を覗き込んだ。はっとして慌てて微笑みを浮かべる。
「いえ、嫌われなかったようでほっとしたんです」
「……そうですか」
本当に?とその表情は語っていたが気付かない振りをする。向けられる視線を自分から逸らせたくて、オリヴィアは眼下に流れる川を指差した。
「あれが、リデリアとの国境を流れるユナイ川ですわ」
「なるほど、想像していたよりも雄大な川だな」
「あの川のお陰でここ一帯は豊かな恵みを得ることができるんです。でもあの川は遠目には穏やかに見えますけど、実際にはかなり流れが速いんですよ。だからこそリデリアからの侵入者も容易には渡れない。
人目を忍んで、夜陰に紛れて川を渡っても、そこには国王軍も父の私兵もいますからそれ以上この国に浸入することは殆ど不可能なんです」
幼い頃から何度となく見てきた川は、今はその大きな身体を優美にくねらせて穏やかに流れている。
「……嫌なことがあったり、落ち込んだりした時、いつもあの川のほとりまで行って、ずっとその流れを見ていました。そうすると、なんだか落ち着くんです。嫌なことを川が一緒に流してくれる気がして」
今もそうだ。心に引っ掛かった小さな棘は川の流れに洗い流されればいい。
「確かに、この川を見ていると落ち着きますね。もう少し見ていたい位だが……陽が翳ってきた。寒くはありませんか」
「いえ、大丈夫です。もうそんな時間なのね。そろそろ帰りましょうか。大した案内も出来ませんでしたけど」
「いや、充分楽しめましたよ。ありがとう」
フレッドが自分の目を見て言った、その言葉が上辺だけでなく心からのものだと判って、オリヴィアは何とも言えない気持ちになる。良かった、と呟くように答えてそっと目を伏せた。