5. 婚約期間の始まり2
「……私との間に、子供を望まないで頂きたいのです」
一拍置いてその言葉が耳から頭に届くと同時に、目の前が真っ赤に塗り潰されていった。頭が沸騰したように熱くなる。冗談じゃない。自分を拒否するのか。理性が怒りを押しとどめる前に感情が噴出しようとする。だが都合よく吹いた風のおかげで、どうにかその心の内は彼女に悟られずに済んだようだ。フレッドは殊更にゆっくりと前髪を掻きあげながら何とか平静を取り戻した。
フレッドは次男である。この国では基本的に、長男が家督も爵位も財産も全てを相続するという制度であるため、このままであればフレッドには何も引き継がれない。
兄のルーカスとは六歳差で、既に兄は妻帯している。二人の間に子供は未だいないが、端から見る限りでは仲の良い夫婦だから子を授かる日もそう遠くはないだろう。
通常、この国の貴族の男子は十四歳になると寄宿学校に入学し、そこで貴族に必要な教養を二年間かけて学ぶ。この寄宿学校は貴族達の寄附により運営されている私立のスクールであり学費もそれなりに高い。だがステイタスにもなるため、大抵の貴族は自身の息子をここで学ばせたがる。フレッドも例に漏れず、十四歳からの二年間を寄宿学校で過ごした。
その後、他の貴族男子と同様にフレッドも社交界入りを果たしたが、嫡男ではないフレッドが生計を立てるためには、結局のところ男子のいない貴族家に婿入りするか、自身で身を立てるしかない。
社交界に出入りするようになった最初の頃は、フレッドも嫡男のいない貴族家に婿入りすることを視野に入れていた。実際、婿入り相手としてアルバーン伯爵家の次男なら文句はないと、いくつか縁談が持ち込まれたこともある。フレッド自身も人目をひく端正な顔立ちをしているため、相手の令嬢にも受けは良かった。
だが、フレッド自身がそういった令嬢に全く興味が持てなかった。彼女たちは彼の気を惹こうと媚びを売り、甘ったるい口調で結婚を迫ってくる。中にはあからさまにフレッドに身体を寄せて誘惑しようとする令嬢もおり、フレッドは結局うんざりして断ってしまうのだった。
そういった結婚を求める令嬢とは別に自分に言い寄ってくる女性は、一夜の相手であったり、軽い「お付き合い」を求めてくるものであった。過去にはそういった誘いに乗ったこともあったが、いい加減辟易していた。
女性を醒めた目で見るようになったのはそれからだ。
だから寄宿制のロースクールに進んだのは社交界からの逃げとも言えた。
だが法律を学ぶ事は存外に面白かった。法律を学ぶ事はこの国の成り立ちを学ぶ事であり、この国の政治を知る事にも繋がる。
良い友人にも恵まれ、二年間ロースクールでは有意義な時間を過ごした。
ゆくゆくは法廷弁護士として独立するつもりでいる。爵位にはそれほど興味もなかった。
父親の持ち出した縁談には特別関心もなかった。またか、と思っただけである。聞けば相手はあの、フリークス辺境伯の長女であるオリヴィアだと言う。
その令嬢のことは普段あまり社交の場で自分から令嬢に興味を向けることのないフレッドでも知っていた。といっても、その姿は記憶の中では朧げである。ただ、彼女については盛んに噂が飛び交っていた。
印象的な碧の瞳の持ち主。デビューするやすぐさま社交界の話題をさらった令嬢である。瞳を縁取る睫毛は長く影を作り、ますます神秘的な雰囲気を醸し出しているという。瞳だけではない。いつも凛とした表情を浮かべた顔立ちと、すらりとした容姿。それら全てが彼女の雰囲気を引き立て、一目見た者を魅了するのだと。
だが、その令嬢を実際に見て何かが心の奥で引っかかった。
彼女の瞳の輝きは自ら放ち辺りを照らすものではなく、月の光のようにしんと他者の視線をはね返すだけのように見えた。 特に相手が男性だとそれが顕著だ。彼女の瞳を見たものは、大抵がその色に魅入られるが、フレッドはむしろその輝きのしらじらとした様子が何故か気になった。
彼女は心から笑っていない。社交界において心を晒け出すのは御法度だ、彼女が他者に心を見せないようにしているとしてもおかしくはない。だが、彼女のそれは何かが違うような気がした。
直接話をしてみても、彼女は他者を撥ね付けるような雰囲気を纏ったままだった。
女性に醒めた自分と、男性を拒否する彼女。
そんな組み合わせも悪くはない。薄い笑みが漏れた。その笑みのままに彼女を間近で見下ろして、どくりと心臓を掴まれた。
微笑みに隠された、感情の読めない瞳と反対に、人を蠱惑的に誘うふっくらとして艶やかな、赤く熟れた果実のような唇──。
気が付けば、吸い寄せられるように、まるでそうすることが自然であるかのように、そこに自身の唇を重ねていた。
その誘惑を超えた強い磁力に抗えなかった。抗えるわけがない。
だが時間が止まったような一瞬の後、彼女の全身から放たれる拒絶のオーラに咄嗟に一歩身を引いた。すぐさま飛んできたオリヴィアの右手を掴む。ここは王宮のテラスである。派手な音に他人が気付いたら、どのような噂が立つか知れたものではない。その思いで反射的にその手首を握ったが、後から思えばその手を止めなかった方が良かったかもしれなかった。
あの時、彼女は確かに怒っていた。その瞳にも憤りが込められているのはありありと感じられた。
だが……、そこには確かに、怯えも感じられたのだ。
そして彼女は白い結婚を希望した。あからさまな拒絶だった。
まあいい。冷静になって考えれば自分も女性に対してそこまで執着はない。
今までもそうだった、きっとこれからもそうだろう。却ってオリヴィアのような女性が相手の方がやり易いかもしれない。
ただ言われるがままにその話に乗るのは癪に障る。そう思って条件を出した。とは言いながらも結局のところその条件が何らかの効力を発する物ではないことには薄々気付いていたのだが。
とにかくあとは婚約者として、夫として、可もなく不可もなく振る舞っておけば良い。
その時は、彼女の唇の甘さに夢中になった理由も、碧の瞳に浮かんだ怯えに狼狽えた理由にも、フレッドが思い至ることはなかった。
*
それから、数々の舞踏会や晩餐会で二人が連れ立って参加する姿が他の貴族達の目に止まるようになった。
それらの場で、オリヴィアの婚約者となったフレッドはエスコート役としていつも傍にいた。その姿が噂にならないわけがない。二人の婚約はあっという間に社交界に広まった。
皮肉にも、お互いに触れないというあの約束のお陰で、オリヴィアにとってフレッドは今や誰よりも安全な存在であった。勿論、ダンスで腰に手を回される度にびくりと身体が反応してしまうのは止められなかったが、不必要な接触はされないとわかっていることはオリヴィアの気を楽にしていた。それもあってか、フレッドと踊ることにさほど抵抗を感じなくなってきていた。
二人のそんな姿が噂を後押しする。
それと共にこれまでオリヴィアを敵意もあらわに遠巻きに見ていた女性達が、噂の真偽の程を確かめたいという浅ましい思いを顕にして寄ってくることが増えた。
この日の舞踏会でもそれは同じだ。フレッドと共に会場に入り、最初のダンスを踊った後、フレッドが飲み物を取りに行くと言って席を外して間もなくのことだった。一人の女性が殊更和かに微笑みながら、オリヴィアの元に近付いてきたのだった。
「ごきげんよう、オリヴィア様」
「まあ、これは……ごきげんよう、オーレル侯爵夫人」
オリヴィアは僅かに驚きを声に出してしまったものの、淑女の礼節でもってオーレル侯爵夫人に挨拶をした。
これまで殆ど言葉を交わしたことのない相手でも、その名前は知っている。とかく社交界に様々な噂の種を提供しているご婦人だ。夫であるオーレル侯爵とは政略結婚で、その仲は冷え切っているらしい。嫡男を設けた後は夫は愛人を抱え、夫人自身も多くの男性と浮名を流していることは、もはや社交界では公然の秘密となっている。多くの男性を夢中にさせるだけあって、二十四歳という歳の割に可愛らしいという表現がぴったりの女性だ。小柄で、金の髪はシャンデリアの光を受けて輝き、つぶらな瞳は猫の目のようである。
「アルバーン卿のご次男とご婚約されたとか。おめでたいことですわね。今夜も婚約者様と参加されたの?」
「ええ、今飲み物を取りに行ってくださっているのです。夫人は今日はオーレル卿といらしているのですか?」
「そうなの、でも早々に別れましたのよ。今頃はどこかのご令嬢でも口説いているのではないかしら。それより」
侯爵夫人が遠目には茶目っ気のある、ととれなくもない笑みを見せたが、その実面白がっているのか、それとも他の思惑があるのか、昏い感情を微かに伺わせながら続けた。その表情が女であるオリヴィアさえどきりとするほど妖艶で、思わずたじろいだ。なるほど、男性達が籠絡されるのも理解できた。
「貴女なら結婚相手などより取り見取りでしょうに。どうしてアルバーンのご子息と?」
「さあ、父の決めたことですから私には計りかねますわ」
「あら、オリヴィア様の意思は全くなかったということですのね。お気の毒に」
「ご心配頂きありがとうございます。どのようにすればこの結婚を良きものにできるのか、アドバイスを頂けますかしら」
お気の毒に、と言いつつもその表情は可笑しそうだった。目が嗤っている。それを受けて、オリヴィアは微笑みの中に少しばかり皮肉を込めて、オーレル侯爵夫人へ返した。それを受けた夫人の顔が、一瞬歪んだ。
だが夫人も正確にオリヴィアの痛いところを突いてきていた。夫人の疑問はそのままオリヴィアにとっても疑問ではあった。
これまでにもオリヴィアの元には沢山の求婚の手紙が届いていたし、その中には上級貴族の嫡男のものもあったはずだ。オリヴィアはそのどれもを断ってきたが、父が本気になればオリヴィアの意志など無視してそういった上級貴族の元に嫁がせることもできたはずである。
なぜ、アルバーン伯爵家なのだろう。なぜフレッドなのだろう。彼に爵位継承権はないのに。この婚姻は父からの申し出だと聞いているがどのような意図があるのだろう。オリヴィアには父の思惑は全く読めなかった。だからこそ父への不信感も増す。
夫人の言葉はオリヴィアの心に波紋を広げた。
夫人はすぐさま表情を取り繕ったが、そこで何かに気付いて口元を綻ばせた。
「あら。噂をすれば婚約者様のご登場ね」
夫人の視線を追い掛けて振り返れば、フレッドが二人の元にやって来るところだった。飲み物を取りに行ったはずだが、その手には何も持っていなかった。オリヴィアは口を開こうとしたが、それよりもオーレル夫人が声をかける方が早かった。
「フレッド、お変わりなくて?いつの間にこんな綺麗なご令嬢と婚約していたの」
フレッドを名前で呼んだ、そのことに今度こそオリヴィアは驚きを隠せなかった。夫人が勝ち誇ったようにオリヴィアを見て微笑んだ。
まるで自分に何も言わずに婚約したことを責めるような言い方に、オリヴィアが感じたのは不快感だった。
自分たちは政略結婚だ。白い結婚を提案したのも、愛人を抱えることを勧めることすら、オリヴィア自身がしたことのはずなのに。
彼が他の女性とどのような関係にあろうと自分には関係ないことだ、と自分を諭す。不快感はすぐに、やはり男性は皆同じなのだ、というフレッドに向けた嫌悪感にすり替わっていった。
「オーレル夫人、お陰様で。ご報告が遅くなり申し訳ありません」
「他人行儀な言い方はよしてくださいな。アイリーンとお呼びになって」
ふふ、と艶めいた声でフレッドを誘うように右手を出す。そこにフレッドの唇を受けながら、アイリーンはオリヴィアに向かって意味ありげな視線を寄越した。
「フレッドからのダンスの誘いをお受けしても良いかしら?」
オリヴィアは挨拶を終えたフレッドを、好きにすれば良いという目で一瞬見遣る。アイリーンは誘いを受けても良いか、と伺いを立てたが、それは実際には彼女から誘っているのと同じ事であった。そして、女性から誘われたなら、紳士であれば断ることはまずしない。女性に恥をかかせることはしてはならないからだ。
アイリーンは最初から、断られることはないと知っていて、それをオリヴィアに当て付けているだけなのだ。オリヴィアはアイリーンに余裕有り気に微笑んだが、その胸の内は自分でも気付かない内に僅かにささくれ立っていた。
「勿論です、どうぞ」
「……では、行きましょうか」
フレッドの口の端が上がって、アイリーンを促す。そのまま広間の中央に向かった二人の背を見送りながら、オリヴィアは何故か心の内に泡のように湧いた灰色の影のようなものを飲み込んでしまおうと、飲み物を取りに続きの間へ向かった。
周りの令嬢達がフレッドとアイリーンの仲はまだ終わっていないようだとさんざめく。オリヴィアに揶揄の混じった好奇の視線を投げ付けてくるのが、そちらを見ずともまざまざと感じられた。
アイリーンには夫がいる。だからもし二人の間に何かあるとしても、フレッドが愛人として囲うことは無いだろう。
それでも自分はこれから妻として、あのように彼の周りにいる女性とも上手くやって行かなければならないのだ。
その想像は、フレッドに特別関心があるわけでもないのに、嫌悪だけではない澱んだ気持ちさえ連れてきて、オリヴィアの頭の中から振り払うことがなかなか出来ないままだった。