4. 婚約期間の始まり1
夜会で結婚相手だと紹介された青年と出会ってから一週間後。
まだまだ気温は高く陽射しの厳しい日だった。陽光を浴びる木々の葉の隙間から、きらきらと光の粒が地面に零れ落ちていた。
王都にあるフリークスの屋敷は、領地の屋敷に比べるとこじんまりしたものと言っても良かったが、それでも大方の貴族のタウンハウスよりは一回り大きい。辺境伯のこの国での力を表すようだった。
オリヴィアは浮かない顔で自室のソファに腰掛け、窓の外を眺めていた。手元には本のページが開かれていたが、生憎今日は殆ど進んでいない。
少し前に、窓の向こうで二騎の馬が屋敷の敷地に入ってくるのが見えていた。胸の内が重たく塞がっていく。
いよいよ逃げられない、とオリヴィアは悟ったのだった。
自室のドアをノックする音が響き、オリヴィアにエマの声が掛かった。
「お嬢様、アルバーン卿とフレッド様がお見えになられました。旦那様がお呼びです」
「わかったわ、行きます。エマ、髪は崩れてない?大丈夫かしら」
「お嬢様はいつもお美しいです。髪も綺麗に整えられておりますよ。これならフレッド様もお嬢様に夢中になられるはずです。
大丈夫ですから、さあ、どうぞサロンへ」
「そんなことは望んでないわ」
オリヴィアはエマの先走った様子に苦笑してサロンへ向かった。そういう意味で尋ねたのではない。フレッドに付け入られる隙を見せたくないからこそ気になったのだ。だがエマはどうやら勘違いしているらしい。その勘違いを正す程の気力はなかった。黙ってエマの後を付いていく。
エマに続いてサロンへ入ると、アルバーン伯爵とフレッドが既に父と向かい合って話をしているところだった。
「オリヴィア、来たな。アルバーン卿、娘のオリヴィアだ」
「オリヴィアと申します」
アルバーン卿とは社交界で面識があるのだが、オリヴィアは改めて深い礼を取った。フレッドの瞳の色は父親譲りのようだ。並んで立つと、瞳の色もそうだが全体的な雰囲気が良く似ていた。歳を取ってからの息子なのか、卿の顔には数カ所皺が見受けられたが、恐らく若い頃には社交界で女性に注目されたであろう顔立ちをしていた。
「私自身はオリヴィア嬢とは何度かお会いしたことがあるが……フレッドは正式な挨拶がまだなのではないかな」
「いえ、先日ご挨拶させて頂きました。この度はよろしく……お願いします」
「いやこちらこそ。貴女のような麗しい女性が息子の妻になるとは、望外の喜びです」
そう言うと、アルバーン伯爵は柔和な笑みを浮かべた。礼儀正しい方だと思った。息子とは大違いだ。
「では、先程のお話の通り、結婚式は一年後ということで宜しいですかな?丁度来年の社交シーズンが終わる頃ですな」
「ええ。これから申請の手続きに入ります。正式にはそれが陛下に認められ、公示されてからではありますが」
アルディスでは、貴族同士の結婚には国王陛下の認可が要る。申請書類に認可がおり、それが公示されて初めて正式な婚約者となるのだ。とはいえ、現在では申請が却下されることは殆どない。両家の話さえ整えば、それは婚約期間の始まりだと言って良かった。
つまり今日、この段階から既に二人は婚約者扱いを受けるということだ。
アルバーン卿の言葉に父も頷いたところからして、どうやら細かな打ち合わせはあの夜会の日よりも前に進められていたようであった。今日は最終確認だけといった雰囲気である。
オリヴィアだけが何も知らなかったのだ。オリヴィアは何故こんな相手と結婚しなければならないのかと、心の中で父を詰った。
アルバーン伯爵家に文句があるわけではない。フリークスより爵位としては劣るものの、アルバーン家もまた名家である。家柄に不足はなかった。ただ嫁ぐ相手が次男だというのは少し気になった。
いつも領地と家の事を考えている父である。家同士の繋がりを重視するなら、オリヴィアが嫁ぐ相手は嫡男だろうと踏んでいたのだが。
それはまだいい。それより何より、オリヴィアがこの結婚を忌避したいのはフレッドの先日の態度によった。
こちらの意思を無視した行為……それはかつての父を思い出させる。オリヴィアがぞっとするのはそのせいだった。
先に辞去すると言ったアルバーン伯を見送り、オリヴィアは父の命でフレッドを屋敷の中庭に案内した。
どちらも言葉数は少ない。それもそうだ、お互いに会話を続ける気がないのだから。苦痛でしかなくて、その間一つの決意だけがひたすらぐるぐると頭の中を巡っていた。通り一遍な案内を終えると、途端にそれ以上話すことも無くなった。
それで、オリヴィアはいよいよ先日の夜会の時から考え続けていた事を口にすべく、中庭の真ん中で立ち止まった。
陽射しが鋭く剥き出しの肌に刺さる。日傘を差せば良かった、とその鋭さを受け止めながらオリヴィアはちらと考えた。何処かで鳥が短く鳴く声が聞こえた。
「あの……この結婚にあたって一つお願いがあります」
「何でしょう」
オリヴィアはフレッドの目を見る。彼は薄い笑みを絶やさない。陽射しは熱量を存分に湛え、オリヴィアもそれを肌で感じるというのに、その薄い笑みは何処か薄ら寒いものをもたらしていた。オリヴィアはその笑みが自分の言葉にどう反応するのか頭の中で冷静に考えながら、たっぷり一呼吸おいた後、意を決して口を開いた。
「……私との間に、子供を望まないで頂きたいのです」
丁度その時中庭の木立にさあっと風が流れた。微かに葉が揺れ、オリヴィアの肌を生温く撫でていく。フレッドの前髪が同じように風に揺れ、その瞳を瞬間隠した。その様子をオリヴィアはじっと見つめていた。ほんの僅か、フレッドの表情が歪んだように見えたが、気のせいかもしれない。
フレッドは右手で目にかかった前髪を払うと、何食わぬ顔で薄い笑みを見せた。
「それは、どういう意味でしょう」
「言葉通りですわ。私はこの結婚に、紙以上のものを求めません。……身体を差し出したくないのです」
身体の繋がりを求めない。それはいわゆる白い結婚と呼ばれるものだ。それをすれば家名は勿論、財産も含めた一切が当代きりとなる。貴族家においてはありえないことであった。一拍おいて、フレッドが笑った。乾いた笑い声だった。
「ずいぶんはっきり仰いますね。あなたも貴族令嬢だ、子供を設けないことがどういうことかお分かりでしょう」
「ええ、その上で申し上げています。白い結婚はあなたの家や私の父にとっては大きな誤算となるでしょう。ただ、私には弟がいますし、あなたにもお兄様がいらっしゃいますから、それぞれの家の存続には支障ないはずです」
もちろん、とオリヴィアは続けた。
「……必要でしたら他の女性をお側に置かれても、構いません」
オリヴィアにしては珍しく、少しだけ歯切れの悪い言いぶりになった。それを口にするのは些か躊躇われた。自分の夫が愛人を持つということは、妻となる自分を貶めることになる。夫にないがしろにされている憐れな妻、と人々に揶揄されるのは容易に想像できた。
だが、そのことに目を瞑っても自分の身を守りたかった。自分を守るのであればそれ位の代償は引き受けなければならないだろう。
オリヴィアには、男性が全く潔癖でいるのは難しいことだとわかっていたし、一方で自分は母のように追い込まれたくもなかった。
「その要求を僕が呑む道理はないと思いますが」
「そうでしょうか。この婚姻は政略結婚です。貴方も心から望んだわけではないでしょう。ですから、望まぬ相手と子を成すよりも、これから貴方が想いを寄せる方が出来たときに……もしかして既にいらっしゃるのかもしれませんが、その方を公然と側に置けます」
「あなたはそれで良いのですか」
フレッドが探るようにオリヴィアを見返した。その目から視線を逸らさずにオリヴィアは答えた。
「……ええ」
「成る程。貴女の言う、身体を求めないとはどの程度のことですか?」
「寝室は別にしてください。それからむやみに私に触れないで……この前のように」
「僕らは婚約者同士だ。対外的にも全く触れないでいるわけにはいかない。必要な時はその限りではない、と捉えて良いですね?」
「……そうですね」
暫くフレッドは思案顔だった。無理もない。突拍子もない提案であるのは承知しているし、それをフレッドが受け入れなくともこの婚姻は成立するだろう。それが政略結婚というものだ。だから駄目で元々のお願いだった。
「わかりました。そのお願いを聞いてもいい」
「本当ですか。ありがとうございます」
「ただし」
思わず声が上擦り、頭を下げて謝意を示そうとしたが、それを遮るようにフレッドが続けた。どことなく険呑な口調だった。
「条件があります」
「……何でしょう」
「賭けをしましょう。貴女がその賭けに勝てば、僕は白い結婚を受け入れる。そして僕がその賭けに勝ったら」
オリヴィアはごくりと喉を鳴らした。負けたらその時には身体を蹂躙されるのか。母のように。嫡男を産むまで毎日執拗に求められ、体力も精神的にも磨り減らされていった母。子供を産むための道具としてしか見られていなかった母。好きでもない相手との結婚は、その結末を容易に導くだろう。それが、貴族の娘の抗えない務めなのだと思うとやるせなさを感じる。同時に、自分の未来を真っ黒に塗り潰されたような気になった。
オリヴィアにとって救いだったのは、結婚相手が次男だったことだ。これで血を繋ぐ務めは果たさなくても責められない。相手もそうだろう。好きな者同士ではないのだから、形だけ夫婦でありさえすれば、お互いに後は好きにすれば良い。そう思ったからこその「お願い」だったのに。
息を詰めてフレッドの空色の瞳を見返した。
「その時は、婚約を解消しましょう」
フレッドが笑って言った。だが、その目は全く笑っていなかった。
「え」
「期間はそうですね、次の社交シーズンが始まる前の三月までにしましょう。解消するときは、貴女から断ったことにしてくれればいい。如何ですか」
オリヴィアは一瞬驚いたが、すぐにそれもそうだと思い直した。
良く良く考えれば、彼とて自分と結婚しても何も益はない。爵位が手に入らない相手との結婚など、次男である彼にしたら旨味がない。
そんな相手との結婚を破棄するには、彼にとってもこの賭けが丁度良いのだろう。きっと最初から彼はこの婚姻には乗り気でなかったのだ。もしかしたら既に恋人がいるのかもしれない。
でも家同士の結婚であるから簡単に断ることも出来ない……、この賭けは婚約を破棄するための口実なのだ。
「悪くはない提案だと思うのですが」
「そうですね……、わかりました。その賭けに乗ります。それで、どのような賭けを?」
「僕だけが貴女に触れられないというのは不公平ですからね……婚約している間、貴女からも僕には触れない、ということでどうでしょう」
拍子抜けしてオリヴィアは思わず瞬きしてしまった。そんなことで良いのか。あまりにも簡単に聞こえる。オリヴィアは不審も露わにフレッドの瞳を覗き込んだ。
淑女が自分から紳士に触れる機会など、わざわざ念を押されなくてもほぼ無いと言って良い。極端な話、結婚する日まで会わなければ良いのである。そうでなくても、自ら彼に触れようなど思ってもいないことである。オリヴィアに有利な賭けに見えて、疑念さえ湧いた。だが、向こうがそれでいいというのなら好都合だ。オリヴィアはほんの少し微笑みを浮かべた。
「解りました。その話、お受けします」
こうして、二人の婚約期間が始まった。