14. その瞳に注ぐ愛
弓の様に細い月が、バルコニーを微かに照らしている。
カーテンを開けたままバルコニーに出たので、足元は部屋内から漏れる光でほんのりと明るい。視線を下方に向ければ、屋敷の居間から漏れる光で庭もまた花々の姿が色はわからないまでもくっきりと識別できた。
この時期に庭を彩るのは白のアネモネと紫味を帯びた青色のアイリスだ。白薔薇もある。挙式の時に手にしたブーケも、この庭に植わっていた白薔薇だった。
ふ、と先程の挙式を思い起こしてオリヴィアは目を細めた。
階下ではまだ祝いの席を彩る音楽が奏でられていて、それが微かにオリヴィアの耳にも届けられている。今日の日を祝ってくれた人々の顔を思い返して頬が緩んだ。彼らは今も階下で宴を楽しんでいるだろう。オリヴィアは新婚初夜ということで先に辞したが、今夜はきっと遅くまで人々のざわめきが続くに違いない。
彼と出会ってから約二年、漸く、漸く彼と夫婦になれた。出会いは酷いものだったけど、彼の心に触れ、彼を好きになった。何度も手放そうとしたこの想いを、彼もまた受け止めてくれた。求めてくれた。
頭上に瞬く星を見上げる。それらは、月の光が弱い分だけその存在を主張しているように見える。オリヴィアはふるり、と宵の寒さを感じて夜着の上に羽織ったガウンの合せ目を手で掻き寄せた。
「そこにいたの」
いつの間に寝室に入ってきたのか……、フレッドの柔らかい声がしたと思った時には、ガウンよりもふわりと確かな温もりに包まれていた。背後から抱き締められたと意識するや、顔がじわじわと火照っていく。でも今はどこよりも居心地の良い場所だ。ほんのりと熱を持った顔を夜風に当てるように前を向いたまま、オリヴィアは答えた。
「ええ……色々と思い返していたんです」
「うん」
「何だかまだ夢を見ているみたいで」
うん、ともう一度告げられた言葉はくぐもって聞こえた。フレッドが背後からオリヴィアの肩口に顔を埋めたからだった。フレッドの重みが心地良い。自分に心を許してくれているのだと思える。
「最初は、フレッド様のことを最低だって思ってました」
「そうだよね、ごめん」
出会った日、誰かも判らないまま、ろくな会話もないまま口付けられた。あの時胸に沸いたのは恐怖と怒りだけだった。フレッドもあの時を思い出したのだろう。オリヴィアの背中でフレッドが声の調子を落としたのを感じた。
「でも今は……、貴方と出会えて良かったって……そう、思います」
オリヴィアは自分を抱き締める腕にそっと自分の手を添えた。頬が赤らんだのが背後にいるフレッドに気付かれずに済むことを心の中で感謝しながら。フレッドがまたふわりと声をやわらげる。
「僕は最初から、きみに惹かれていたよ」
「え?そうなのですか?」
「知らなかった?」
「全然……」
オリヴィアは出会った頃のことを思い出して、首を傾げた。そんな素振りはあっただろうか。彼は出会いを除けば、最初から紳士然としてくれていたように思うが、むしろ冷ややかな笑みを向けられることの方が多かった気がする。とはいえ自分の気持ちすら閉じていたあの頃の自分に、彼の気持ちが汲み取れるわけもなかったのかもしれない。
フレッドが苦笑してから続けた。
「会えない間……気が狂うかと思った」
その声がそれまでとがらりと変わって切なく引き絞るようなものになったので、オリヴィアは唐突に心臓が跳ね上がった。フレッドの腕の力が益々強くなる。
「毎日、きみのことを考えていた。視察から戻った後も、きみがここ……グレアム家に来てからも、王宮から走り去ってからも」
「フレッド様……」
「いや、違うかな。きみと婚約者になったときから。初めて話したときから。きみが頭から離れなかったよ」
フレッドがオリヴィアの下ろした髪に唇を寄せた。相変わらず仄かな灯りの向こうでは軽やかな舞踏曲が奏でられている。その音楽に混じって自分の鼓動の音が聞こえた。
「これからは、ずっと傍にいられる」
肩に感じていた重みが消えてフレッドが頭を上げた。オリヴィアを抱え込んでいた手の一方を放して顎に触れる。オリヴィアは促されるままに首を捻りフレッドの瞳を見上げた。
「やっと、手に入れた……愛してる」
フレッドの空色の瞳が、柔らかく溶けていた。いつものようにオリヴィアの瞳を覗き込むような眼差し。その眼差しに包み込まれて、オリヴィアもまた胸の内を熱い塊が迫り上がってくるのを感じた。部屋の灯りを背にして立つフレッドの栗色の髪が、さらりと落ちて弾いた光を夜の闇に散らしている。熱い塊は喉元を越え、涙となってオリヴィアの頬を伝った。
オリヴィアはフレッドに向き直った。
初めから、自分を見てくれた人。助けてくれて、安心をくれて、愛情を注いでくれた人。
「私も……、フレッド様を、愛しています」
ゆらりと彼の瞳の輪郭はおぼろになっていく。それでもきっとその瞳に映っているものは変わっていないと思える。オリヴィアは応えるように笑みを浮かべた。
それは待ち望んでいた春の雪融けを思わせる笑みだった。
フレッドがはっとしたように目を瞠り、オリヴィアを凝視した。あまりに長い間彼が硬直し視線をオリヴィアの目に固定させたままでいたので、オリヴィアもまたその目からちらとも視線を引き剝がせなかった。
ふと、互いに表情を緩めて。
吸い寄せられるように、しっとりと唇が重なった。
「フレッド様」
「うん?」
「ダンスを一曲、踊って頂けますか?」
「どうしたの、急に」
「何だか皆さんが楽しそうなので……」
階下からは先ほどまでの軽快なテンポの曲から打って変わって、情感たっぷりな曲が夜風に乗って流れてきている。
オリヴィアはもう一度今日自分たちを祝ってくれた人々の顔を思い起こした。フレッドも顔を綻ばせた。
「いいよ、勿論」
フレッドが腕を解く。その手がオリヴィアの手を取った。庭から抜ける甘やかな花の香りを吸い込みながら、オリヴィアもフレッドに向き合った。
「じゃあ早速踊ろうか。愛する妻と僕の、ファースト・ダンスを」
これで「凍える瞳に甘やかな愛を注ぐ」は完結です。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!!