13. 父の思い
婚約を公に認められて以降、両家は俄かに忙しくなった。特にオリヴィアは、自身の結婚式のこともそうだが、辺境伯家に戻って来る父と、弟の叙爵についても受け入れを進める必要があり、それらの準備に大わらわになっていた。
フレッドも、宰相補佐官としての通常業務の傍ら婿入りすることになる公爵領についても学ばなければならず、多忙な毎日を送っていた。
オリヴィアは公爵領と辺境伯領を頻繁に往き来しており、正直なところ倒れるのではと心配する程である。フレッドも王宮での仕事があるため公爵領まで行く事は難しい。先日、サイラス達の結婚式に介添人として二人で出席した時は終日共に居られたが、それ以外は王都にある公爵家の屋敷にオリヴィアが出向いて来るタイミングでしか逢いに行くことが出来なかった。それも大抵夕方以降に一時顔を合わせる程度のものだ。
そして夕食を共にし、その後サロンのソファに並んで座っていてもオリヴィアはいつの間にかフレッドの肩に頭を預けて寝入ってしまうことが何度かあった。
彼女のあどけない表情を見ていると、恐らく外ではまた気を張っているのだろう分、自分にだけは力を抜いた姿を晒してくれているという独占欲を満たす行為にフレッドは頰が緩むのだった。寝入った彼女のダークブラウンの髪をそっと撫でるのもお決まりの習慣になっていた。
*
そんな風にして婚約期間が過ぎ、もう間もなく結婚式だという春のある日の夕方。フレッドは王宮の執務室で来客を迎えていた。
「お久しぶりです。フリークス卿」
「私はもう辺境伯ではない。卿の敬称は不要だ」
「……では、フリークス殿と。今日は御足労頂きありがとうございます」
その日フレッドの呼び出しに応じて訪ねてきたのは、その少し前に刑期を終えてこれからフリークス領に戻るところであったオリヴィアの父親、ラッセル・フリークスだった。
フレッドは立ち上がって挨拶をした後、ラッセルをソファに座るよう促した。自身も執務机の椅子から向かいのソファへと場所を移す。
「式の準備はどうだね」
「……まあ何とか大体の所は終わりました。後は彼女の方の準備だけですよ」
「そうか。アランのこともあるし、あれも今は手一杯かもしれないな」
「ええ。式の当日に倒れてしまわないか心配です」
ふ、とラッセルが笑う。一年前に会った時よりも頰の肉が削げ、より厳しい印象を与えている。だがその笑みに娘を思う親の心情が垣間見えた気がして、フレッドは本題に入った。
「今日お出で願ったのは、一年前に教えて頂けなかったことをお聞きしたかったからです」
そう、あれも此処だった。サイラスとフレッドでフリークス卿を問い質しても、最後まで答えの得られなかった問い。
何故、国に納めるべき税に手をつけ領地の私兵を増強したのか。
その答えをフレッドは折に触れて考えていた。
「もう、君には分かっているんじゃないのかね」
「こうだろうか、と思うものはありますが……確証はありません。全て推測に過ぎない」
「ではまずその推測とやらを聴こうか」
探るようなラッセルの視線を受けて、フレッドは背筋を伸ばした。
「……あれは彼女を守る為だった。違いますか」
ラッセルは肯定も否定もしない。ただ、その続きを促すように灰色の瞳でじっとフレッドを見据えた。フレッドは、ラッセルの反応を窺いながらこれまでに考えていたことを告げた。
帳簿への虚偽記載は監査の約四年前から始まっていた。丁度、オリヴィアが隣国から国境を侵犯した不審者に襲われてからおよそ一ヶ月後のタイミングから、間断なく。
そしてその頃から徐々にフリークス辺境伯領が抱える私兵の数が増加し始めた。
特に、毎年夏の長雨の時期が来ると見計らったように私兵を増強している。最初はユナイ川の氾濫での被害を抑える為だと思っていた。実際にそういった意味もあっただろう。しかし、その時期の国境付近の情勢を注意深く調べると、同時期に長雨に乗じて隣国からの不法侵入者が増えていることが判った。
それだけなら気付かなかっただろう。だが、それ以降も断続的に国境付近では隣国からの侵犯が起こっており、それに呼応するように私兵が増強されていっていた。
私兵の増強は、国への叛意ではなく、隣国から我が国への侵入を防ぐ為だったのだ。
勿論辺境伯として国を守る責務もあっただろう。だがそれなら国防長官や宰相にその現状を報告し国王軍を派遣して貰えば良かったはずだ。いや、実際それは既にしていたのかもしれない。だがそれだけではなく……国に納めるべき税に手を付けてまで私兵を増やしたのは、ラッセルにとって何よりも守りたい対象が、国ではなく己が娘だったから。
私兵の方が国王軍よりも融通が利く。何よりフリークス卿の命令で動ける。娘に万が一のことが無いように、またもし何かが起こったとしても国王軍よりも己が命令で動ける部隊を用意しておいた方が都合が良かったということだろう。
そう考えれば辻褄が合う。
一年前、ここ王宮の執務室で「あと少しだった」と言った意味も、動機が娘なら腑に落ちた。
あれは、「娘が嫁いでフリークス領を出るまで」あと少しだ、という意味だったのだろう。きっと娘が無事に領地を出て行けば、ラッセルは私兵を整理するつもりだっただろう。脱税もそこで止めた筈である。
実際、領民にとってのラッセル・フリークスという人は真面目で領民のことを良く考えてくれる良き領主であったようだ。彼が捕らえられた時、多くの領民の顔に現れていた表情は、信じられない、というものだった。
全ては推測だ。だが、フレッドはこの耳でオリヴィアから聞いていた。
ラッセルが屋敷を出て行く前、「大切なものが守れるなら何度でもこの手を汚す」と子供達に告げていた事を。
きっとその言葉のままに、彼は守ったのだろう。己の大切な娘を。
きっと、そう外れてはいないだろうその推測に、ラッセルは暫くの間一言も発しなかった。
「あれの瞳は母親譲りでね」
暫く物思いに耽っていたラッセルが、やがてぽつりと呟いた。
「綺麗な色をしているだろう……母親と同じ色だ。アルディスでは珍しい」
「ええ。神秘的な色合いをしていますね」
「そうだろう……あれの容姿も母親譲りでね。周りの令嬢とは纏う雰囲気が全く違った。麗しい女性だった。多くの男があれの母親に夢中になった。私もその一人だった。恋い焦がれるあまり、リデリアから攫って妻にした」
さらりと告げられたその内容に、フレッドは驚き目を瞬かせた。
「彼女には婚約者がいたんだが、その時の私には関係なかった。力尽くでも自分の物にしてしまえばやがて彼女も私を受け入れるだろうと、自分に都合の良いことを勝手に考えて、隣国から連れてきた。
今思えば当然のことだが……、彼女は私を拒否した。夜毎婚約者の名を呼んで泣く彼女の目をどうにか自分に向けようとしたが、彼女はどうあっても靡かなかった。そんな彼女に憎しみさえ湧いたよ。
子供が出来れば彼女も自分を受け入れるだろうかと思ったが、オリヴィアが産まれても彼女は変わらなかった。彼女なりに子供は愛してくれていたようだが……。それで私はますますムキになった。
あれの母が、オリヴィアとアランを残して逝った時、私にも勿論喪った哀しみはあったが、それと同時にほっとしてもいた。
これで彼女はどこにも行かないとね」
気が付けば陽は傾いて宵闇が迫っていた。フレッドは身じろぎも出来ずに話を聞いていたが、ラッセルの顔に疲労が見えた気がしてこのまま話を続けて良いものか逡巡した。そうしている間にラッセルが再び口を開く。
「オリヴィアはあれの母にそっくりだ。母と同じ瞳で私のことを見る。私に懐かない。そして日増しに美しくなって行く。
その内、男達の視線を浴びることは容易く予想がついた。
だが思いの外早かったな……あれは母の死のせいか、早くに大人ぶることを覚えてしまった。十四歳にして男を惹きつけるとは思いもしなかった。あれが襲われたと聞いた時は肝が冷えたよ。自分が言うのも何だが……あれの母と同じ目には遭わせたくなかった」
「それで……あのようなことを」
「……今なら、やり方を間違えたとわかるんだがな」
ラッセルが自嘲気味に笑った。
「何故私が君をオリヴィアの結婚相手にしようとしていたかわかるかい」
「……コーンウェル公爵家に近付く為かと」
「それもある。確かに宰相家と懇意になれば、国境付近の警備を強化して貰えるだろうという打算もあった。だがそれだけじゃない」
「……?」
「君なら、オリヴィアをあれの母の二の舞にはしないだろうと思ったからだよ」
「それは、どういう……」
ラッセルが軽く口の端を上げる。フレッドはその意味がわからず怪訝な視線を返した。
「君の評判は聞いていたからね」
そこでラッセルがはっきりとわかるほどににやりと笑った。
「君は女性に対して関心が薄い、と」
フレッドは言葉に詰まった。確かにオリヴィアに出会う前の自分はそうだった。誰か一人に夢中になるなど考えもしなかった。
「……だが、違ったようだな」
今度はその笑みが何の含みもない物へと変わった。その微笑みのまま、ラッセルが続ける。
「あれの母の瞳は心から笑った時にはっとするほど清冽な光を湛えて輝いていた。……私に向けてそれを見せてくれたことはなかったが。オリヴィアも私の前で見せたことはないが、きっと君になら見せるのだろうな。
あれを、これから……守ってやってくれ」
ラッセルが静かにフレッドを見据えた。フレッドもそこに込められた思いを受け止め、同じように自分の思いを返した。
「必ず……生涯、守っていきます」
*
無性にオリヴィアに逢いたくなった。あんな話を聞かされた後からだろうか。
ラッセルが退室した後も、フレッドは暫くそのままソファに座って物思いに耽った。
いつでも逢いたいと思うことに変わりはないのだが、今夜は一層彼女を腕に抱き込んで眠りたいと思った。
愛する人を愛するのに、ラッセルはやり方を間違えたと言った。自分も、あの時無理やり彼女を抱いていたら、同じ結果になっていたかもしれない。オリヴィアに、受け入れてもらえたことが奇跡のように思えた。
確かに自分は変わったと思う。彼女に出逢ってから。
今日は彼女はフリークスの屋敷に戻っている。グレアム公爵家からもう一度フリークス家に戻ってきてくれる使用人達と、長く国の管理下にあった屋敷を整え、出て行った使用人達を再び迎え入れているはずだ。
明日帰ってくる父親を迎えるために。
彼女は父親と積年の思いを交わしあえるだろうか。父親を嫌悪していた彼女が、少しでもその父親の思いに気づくことができれば良い。
それは、今更自分が願うまでもなく叶えられつつあるようではあったが……。
父親が彼女の為に用意した純白のドレスは、きっとこの上なく美しく彼女を飾ることだろう。
そしてそのドレスを着た彼女の隣に立つのは自分なのだ。
必ず、生涯をかけて──。
先ほど、彼女の父親に誓った言葉をもう一度心の中で呟いて、フレッドは立ち籠め始めた夜の気配に促されるように窓の外を見つめた。