11. 対峙する時1
それからのことは全てが畳み掛けるように進んで行った。
屋敷に戻る馬車の中では、自分で座りますとオリヴィアが言うのも聞き入れられず、フレッドの膝の上に抱えられたままだった。当然ながらオリヴィアは羞恥で彼の顔を見れずにいたのだが、先程の疲れと……、顔を寄せた彼の胸の鼓動と彼越しに感じる馬車の振動の心地良さに、いつの間にか寝入ってしまっていたようだった。
屋敷に戻るや、オリヴィアの身は気分の悪くなったお嬢様として侍女に引き渡された。軽く身を清め侍女に再び髪を丁寧に結い上げてもらい、ドレスも着替えた頃には随分と気持ちもさっぱりとした気がする。
そうして身なりを整えて改めて階下に降りると、おば夫婦とフレッドが揃ってオリヴィアを待ち構えていた。
マルヴェラがソファから立ち上がってオリヴィアを迎える。マルヴェラが軽く抱擁して、労りの声を掛けた。
「気分はどう?大丈夫?」
「ええ、……何とも、ないわ」
「そうか、それなら丁度良かった。少し話をしようか」
マルヴェラとグレアム公の声は優しかったが、何となくオリヴィアは後ろめたくて拙い口調になってしまう。マルヴェラが気にした様子もなく、ソファへ……フレッドの隣へ座るよう促した。頭の中で疑問が浮かぶ。自分の座る位置はこちらでいいのだろうか。オリヴィアは躊躇いながらフレッドの隣に腰を下ろした。それを待って、グレアム公が口を開いた。
「オリヴィア、君に求婚の申し出があったよ」
開口一番に告げられた言葉を咄嗟に理解出来ず、オリヴィアはぽかんとして返す言葉を見つけられなかった。
求婚。どうして。
混乱のあまり一瞬、誰が、と思ってしまったオリヴィアに、隣で軽く笑う気配がした。
そろそろと隣を伺う。フレッドがこちらを覗き込むようにして見ていた。あの、柔らかい笑みで。
「僕だよ」
僕以外に誰がいるんだい?と揶揄い混じりの言葉が続く。それを微笑ましく見守りながらグレアム公が続けた。
「君は別の相手と顔合わせをしたところだから、とりあえずこの求婚には返事をしていない。彼は御両親に話も通さずに来たようだからね。だからまずは君の意思を確認したい」
「え……」
急なことに頭がついて行かなかった。つい先程、この想いがいつか砕ける日が来ることを覚悟の上で、その日まで抱え続けることを決めたところなのだ。
急に求婚と言われても、喜びよりも湧き上がるのは困惑、それからどういうことなのかという疑問と俄かには信じられない気持ちの方だった。声にもそれが表れてしまう。
「あの、でも……」
オリヴィアが何に困惑しているのか察したのだろう。フレッドが身体ごと彼女に向き直った。
「殿下との噂のことは、きちんとカタをつける。きみを名誉に傷を付けるようなことはさせないし、どんな噂や中傷からもきみを守る。きみを傷付けたのは僕だから今更信じられないかもしれないけど……、僕はきみ以外には考えられない。きみがいい。
出会った日から、ずっと」
フレッドがそこで一旦言葉を切ると、オリヴィアの碧の瞳を射抜くように捉えて続けた。
「───僕と、結婚してくれないか」
どうして、涙腺はいくらでも緩むのだろう。オリヴィアが最初に思ったことはそれだった。もう散々泣いたはずなのに、どうして。
視界がみるみる、ぼやけていく。自分を見つめる人達の輪郭が、曖昧になっていった。
込み上げるものをどうにかして抑えつつ、声を絞り出す。辛うじて聞き取れる位の小さな声になってしまった。
「私、は……貴方に、傷付けられてなど、いません」
堪えきれなかった涙の粒がとうとう零れ落ちる。いつからこんなに泣いてばかりの自分になったのだろう。
「私が、弱かっただけ……、肝心なところで強くなり切れなくて、逃げてしまいました……。貴方のせいじゃないわ……」
伝えたい事が上手く言葉に出来なくてもどかしい。それでも精一杯、想いを伝える。足りない言葉の分は、瞳に乗せて。
「でも、もう決めました。貴方を……、フレッド様を、好きでいることから逃げない、って」
彼の気持ちでどうにか出来るような相手ではないことはオリヴィアにも充分過ぎるほど分かっている。王家から一言命令が下れば、彼は手が届かない人になるだろう。
だから彼を信じる信じないの問題ではなくて。
ただ、彼を好きな自分の気持ちを、信じるだけ。この気持ちのままに、進むだけ。
だから。
視界は歪んでいるけれど、それでも揺らがないその人の目を真っ直ぐに見つめる。想いを込めて。
「私で宜しければ、喜んで……」
歪んだ視界の向こうで、彼がくしゃりと破顔するのが見えた。だがそれを見つめる間もなく次の瞬間には視界が暗くなった。
彼の腕の中に抱き締められたのだと気付いて、オリヴィアも素直に彼の胸に頭を寄せた。その温もりに心が解けて、また彼のシャツを濡らしてしまった。フレッドの言葉が頭上から降ってくる。
「もっと早くこうすれば良かった」
「フレッド様」
「沢山泣かせてごめん」
「いえ……」
ぎゅうと強く抱き込まれる。と、そこで横合いから声が掛かった。
「なるほど。良くわかった。だが、まだ喜んでもらうのは早いかな」
グレアム公が苦笑しながら言った。オリヴィアはその声に、はっとして恥ずかしさに消えたくなった。夫妻の前でフレッドの胸に身体を預けてしまった、と慌てて腕を突っぱねる。フレッドも無理に抗わずオリヴィアを放してくれたが、彼もバツが悪そうだった。頰が熱くて夫妻を見られない。
グレアム公が、そんなオリヴィアを眦を下げて見つめた後、今度は心持ち厳しい顔をしてフレッドに向かった。
「娘の意思はわかった。それなら君を娘の婿として迎えてもいい」
今、何て。婿?オリヴィアは思わず恥じらっていたことも忘れてまじまじとグレアム公を凝視した。グレアム公はそんなオリヴィアの怪訝な眼差しに気付きながらも、話が先だとばかりにフレッドに向けて釘を刺した。
「ただし、先程も君に言ったことだが、このままでは娘が君を誑かしヴィオラ殿下から奪ったと周りから悪し様に言われ名誉を損なわれるだろう。我々も、王家に楯突いたと非難されるのは避けられない。 我々はともかく、娘がそのような心無い誹謗中傷に晒されるのは我慢ならないからね。 君はそうならないように、この問題を片付けなさい。正式な婚約はそれからだ」
「勿論です。一つとして彼女に悪意を向けさせはしません」
「頼むよ」
「あ、あの」
二人の間で進んでいく会話に何とか割って入る。オリヴィアは先程から感じていた疑問を漸くぶつけた。
「おじ様、フレッド様を迎えるというのは……?」
「言葉の通りだよ、オリヴィア。彼には君の夫として公爵家に入ってもらおうと思っている」
「でも、それじゃあルバート様は」
公爵家の遠縁にあたるルバートを後継にするつもりで自分に引き合わせたのではなかったのか。フレッドが公爵家に入ればルバートはどうなるのか。公爵家の血筋が途絶えるのでは。
そんな疑問が一瞬オリヴィアの頭を掠めたのに気付いたのはマルヴェラだった。
「勿論、血筋は大事だけど、公爵家ともなればそれを次代に継いでいくためには才覚も必要なのよ。その点、彼なら申し分ないと思うわ。だから貴女はそれを気にする必要はないのよ。それにね、貴女忘れちゃった?」
「え?」
「私達も、遠縁同士だったのよ」
ね、あなた?とマルヴェラが隣のグレアム公を微笑んで見遣った。それでオリヴィアははたと気付いた。
そうだった。おば達も遠縁……薄いとは言え血の繋がりがある。ということは、オリヴィアもグレアム公と薄いとはいえ、ゼロではない血の繋がりがあるのだ。
はっとしてマルヴェラを見返す。マルヴェラが優しく頷いた。
「ではあの、ルバート様のことは」
「大丈夫よ。それはこっちで収めることだから」
「でも、私あの方に失礼なことを」
自分から申し出た縁談だったのに、結果的には一方的に断ることになってしまう。彼の面目を潰してしまうのではと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「いいのよ。彼も気付いていたようだし」
「え?」
そこでマルヴェラは一瞬意味深な笑みを浮かべたが、すぐに元の穏やかな表情に戻って言った。
「だからね、オリヴィア。貴女は自分の望みの通りにすればいいの。ね?」
「……本当に?」
まだ何処か現実のこととして捉えられないでいるオリヴィアを諭すように、グレアム公が静かに声を掛けた。
「オリヴィア、君は私達の娘だ。娘の幸せを願うのが親だろう?」
「おじ様……」
収まった筈の涙の粒が、再び出口を求めてせり上がってくる。横からマルヴェラが一つだけ、と口を挟んだ。
「ただ、これだけはお願い。結婚式には、ラッセルを出席させてあげて。誰よりも、この子の花嫁姿を見たがっていたから」
「……わかりました。フリークス殿ご自身の刑期は一年ですから、丁度アラン殿が当主として屋敷に入られる頃にはフリークス領にお戻りになれるでしょう。丁度来年の社交シーズンに重なりますが……アラン殿の叙爵と間を置かず結婚式を行うようにいたします。勿論それまでに全てのことを整理します」
隣でフレッドが神妙な、だが確かな声色で受け合う。オリヴィアは半年後を思った。その時には、父が戻り、弟が戻り、オリヴィアは最愛の人と夫婦になる。
その光景を想像して胸が強く締め付けられた。
まだ実感は湧かないし、何処か遠い話にも聞こえる。だけど。
今なら、父ともきちんと話ができる気がする。それも全て隣にいるこの人のお陰だ。
涙が、止まらなくなった。
「あらあら、オリヴィア……貴女そんなんじゃ瞼が腫れぼったくなるわよ」
マルヴェラが笑いながら窘める。フレッドが苦笑してそっとオリヴィアの肩を抱き寄せた。