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10. 貴方に捧げる2

 泣き続けてどれ位経っただろう。不意に身体が軽くなった。覆い被さっていた彼の身体が離れたのだとわかってもまだオリヴィアの心は強張ったままぼろぼろと涙を零し続けた。


 「………ごめん」


 殆ど聞き取れないほどの小さな声が、思いの外しんとしたその部屋に響いた。オリヴィアはその声のした方へ緩々と首を巡らせた。

 フレッドが、ベッドの端に腰掛けて力なく項垂れていた。その姿があまりに悄然としていたからか、オリヴィアはたった今恐怖を味わされたばかりであることも忘れて茫然とその様子に見入った。


 「きみを愛しているのに、怖がらせた……きみが怖がることを僕は知っていたのに、僕は……」


 フレッドは心の底から後悔しているようだった。その背中がひどく頼りなく見える。前に会った時よりも更に痩せたのではないだろうか。


 「きみが他の男と婚約すると聞いて、自分を抑えられなかった。僕が失くしたものを手に入れようとする男が憎くて、そいつに取られる前にきみを奪ってしまおうと……最低だな……」


 オリヴィアはベッドの上に起き上がった。思いがけない言葉に心の奥が震える。フレッドの想いが痛かった。その背中を見つめながら、もしかして……とオリヴィアは半ば信じられない思いで問いかけた。


 「貴方は……今も私を……想ってくださっているのですか?」


 フレッドはこちらを見ない。俯いたままで、ぽつりと呟く。自嘲気味に。


 「初めて会った時から、僕はきみしか見ていないよ」


 憔悴しきった声。その時オリヴィアは、自分もまた彼を酷く傷つけていたことに初めて気付いた。

 目にしたもののショックが大きすぎてフレッド自身の気持ちを確かめることもせずにただ逃げた。自分がこれ以上傷つきたくないからと、彼からの再三の手紙にも目を向けず、他の縁談を進めようとした。フレッドを慕っていると言ったその舌の根の乾かない内に。

 オリヴィアが彼にしたことは残酷とも言える行為だった。それに気付いてオリヴィアは自分の身勝手な行為を激しく後悔した。

 それと同時に、彼が今も変わらず自分を想っていてくれたことに抑えようのない喜びが込み上げてくる。止まった筈の涙がまた目の縁に滲んだ。

 オリヴィアはそっとフレッドの背に身体を寄せた。フレッドがぴくりと身を震わせる。


 「ごめんなさい……もう逃げません。私も……貴方を愛しています」


 それが、偽りのない正直な気持ちだった。この人の気持ちだけ見ていよう。もう逃げるのはやめよう。

 王女に立ち向かえるとは思えないし、彼にとっても王女と結婚することが最善だと思うことには変わらない。またこの想いを手放さなければならない日が来るのかもしれない。

 それでも、目の前で、自分のことで悄然とする姿を見せられたのに、それに応えないのは卑怯で勝手なことに思えた。

 この人の傍に居たい気持ちにだけは嘘をつかないでいよう。

 いつか、手放す日が来たとしても……その日までは彼のことを想っていよう。その日にまたボロボロに傷つくことになったとしても、それまでは精一杯、この気持ちを抱えていよう。




 オリヴィアは膝立ちになると、そっとフレッドの胴に腕を回した。包み込むように、想いが伝わるように。




 「……まだ私が子供だった頃、ある夜、父が抵抗する母を押さえ付けていたのを偶然見たんです。母は必死で逃げようと悲鳴を上げていました。私は怖くて何も出来ずにそっと廊下で膝を抱えて震えているだけ。それから私はしばらく毎日のように夜になると両親の寝室の前まで行きました。今日こそ母を助けよう、そう思って……。でもいつも結局は同じ。悲鳴を上げ続ける母の声を聞いているだけしか出来ませんでした」


 微かに震えの残る声でそこまで言うと、オリヴィアはそっとため息をついた。フレッドは項垂れたままだった。


 「母は日に日に窶れていって、弟がまだ小さい内に亡くなりました。それ以来私は男の人が怖くなりました。男の人にはどうしたって力では勝てない。女は意のままにされて逃げることもできなくて……。だから、さっきは本当に怖かった、です」

 「うん……ごめん」


 本当に怖かった。身体の自由を奪われた事だけではない。必死の思いで蓋をし鍵をかけようとしていた、彼を愛した記憶にさえ手を掛けられ、挙句容赦無く粉々に踏み躙られたのだった。

 だけど。

 だけど、その裏にあった彼の気持ちからもう目を背けたくない。


 まだ恐怖はある。今からしようとしていることを思うとどうしたって震えは起きる。怖いと感じた記憶しか持たないのだから。

 相手が、彼であっても。

 けど……だからといって今このまま背を向けたら、きっと一生立ち上がれない。

 彼の広い背中に頰を寄せる。たっぷり逡巡して……その温もりに、心を決めた。




 「だから……さっきの記憶を上書きしてください……怖くないものだと、貴方に身を預けても大丈夫なのだと、教えて……」




 オリヴィアの細い腕の中で、フレッドの身体が少し強張った気がした。


 「いいの?」

 「……はい」


 貴族令嬢としてあるべき振る舞いではないことはわかっている。それに何より、まだ怖いと怯える感情がこびりついている。

 だけど、目の前で悄然と項垂れるその人に、想いを伝えるには言葉だけでは到底足らない気がした。


 「きみが怖がっても、止めてあげられないかもしれない」

 「……それでも、いいです。覚悟を……決めましたから」


 フレッドが、自身に回されたオリヴィアの腕をそっと掴む。振り返った彼の真剣な瞳に、オリヴィアもまたその心を丸ごと差し出すように見つめ返す。彼を安心させるように、泣き腫らした瞳に笑顔を浮かべて。


 そっと、引き寄せられる逞しい腕の中に、オリヴィアは抗わず己の身を任せた。









 髪を撫でる暖かな手の感触に誘われるように瞼を開いたオリヴィアは、束の間此処が何処だかわからなくてしばらくの間意識をたゆたわせていた。


 「目が覚めた?」


 柔らかな声のする方へ促されるように視線を向けると、ベッドの端に腰を掛け蕩けそうな笑みでこちらを見下ろしているフレッドの顔にぶつかった。


 「……!」


 目が合った瞬間、彼の眼差しを受けて頬が熱くなる。それからはっと先程までのことを思い出してオリヴィアは跳ね起きた。

 自分はなんてことをしてしまったのだろう。気恥ずかしさにオリヴィアは身を縮めた。抱えた膝に顔を埋める。

 でも、不思議と後悔はなかった。身体中が何か暖かくて優しいもので満たされている気がする。彼に愛おしむように見詰められ、その腕の中にいるというだけで溢れる程の多幸感に胸が一杯になっていた。

 ああ、そうなんだ。と不意にすとんと心に落ちるものがあった。父と母も政略結婚だった。母は子供たちには優しかったが、きっと……。

 愛する人が相手でなければ、きっとこのように思うことはないのだ。オリヴィアもまたフレッドが相手でなければ、母と同じ道を辿るところだったのかもしれなかった。


 そろそろと顔を上げると、フレッドがじっとオリヴィアを見つめていた。蕩けそうな表情の中にからかうような笑みを込めて、覗き込む。


 「大丈夫?怖くなかった?」

 「少しだけ……でもフレッド様が抱き締めてくださったから」

 「良かった。……送っていくよ。もう外は暗いから」


 はたと気付いてオリヴィアが慌ててベッドから降りようとすると、フレッドが背を支えてくれた。その手の温もりと確かさにきゅっと胸が詰まりオリヴィアは泣きそうになった。

 気付かぬうちにドレスは整えられていた。とは言え、髪はまだ下ろしたまだだ。ふわりと腰にまでなびく髪をそのままにしていればはしたないと見咎められる恐れもある。何とかしなければ、とオリヴィアは焦った。いつもは侍女に結い上げてもらっているのだが、自分でも出来るだろうか。

 慌てて髪を触ったオリヴィアを見て、フレッドがやんわりとその手を制した。


 「そのままで。きっと身体も辛いだろうから、きみは何もしなくていいよ」

 「でも」

 「いいから。その……髪を上げると痕が見えてしまうから」


 はっと首筋に手をやる。そういえばさっき求められたとき、微かな痛みを何度も感じたのだった。さっと頬に朱が走る。フレッドの顔もどことなく気まずそうだった。

 フレッドがオリヴィアの身体に手を差し入れた。ふわりと抱き上げられて、フレッドの顔を見上げる形になる。そのまま横抱きで部屋を出ようとするフレッドに、オリヴィアは焦って声を掛けた。


 「あの、歩けますから……」

 「気分の悪くなったご令嬢を介抱するのは何もおかしなことじゃないから、気にしないで」

 「でも、誰かに見られたら」

 「いいんだ」


 そう強く言われてオリヴィアは口を噤んだ。それでも誰かに見られたらという不安と羞恥で顔を上げられず、結局王宮を出て馬車に乗るまで目を開けられないまま、フレッドの胸の鼓動だけを感じていた。


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